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第二十六章



六月上旬。

梅雨の晴れ間から覗く初夏の陽光が、神龍寺邸の広大なダイニングに

眩しいほどに降り注いでいた。

美しい庭の紫陽花が朝露に濡れて輝く、極めて優雅な朝の風景である。


「……さて。今週末は珍しくゴルフの予定もないし、少し羽を伸ばして……」


父がトーストに極上のマーマレードを塗りながら、のんびりと呟いたその時。


「お父様。今月の週末の予定ですが、少しよろしいかしら」


雅由美は、手元にあった革張りのバインダーから、蝋封や金箔の押された

分厚く重々しい封書を、トランプのカードを配るように

テーブルの上に『四通』、静かに並べた。


「……ん? 雅由美、それはなんだい。またどこかのパーティーか?」


「ええ。今月は皆様、お日柄が良いとお考えのようでして。

毎週土曜日に一つずつ、内輪のパーティーにお呼ばれしてしまいましたの」


父は、何気なく一番上の封書に視線を落とし、そして二枚目、三枚目と確認し。

手に持っていたトーストを、ポトリと皿の上に落とした。


「……雅由美。父さんは、最近少し老眼が入ってきたのかもしれない。

フランス大使、イギリス大使、経団連会長、そして……

『内閣総理大臣』という幻覚の文字が見えるんだが」


「ふふっ、お父様ったら。視力は完璧ですわ。

同伴者はもちろん、お父様とお兄様をご指名させていただいておりますの」


「ぶふっ!! ゲホッ、ゴホォッ!!」


コーヒーを飲んでいた兄の貴哉が、盛大に吹き出してテーブルに突っ伏した。


「お、俺の貴重な休日のゴルフが……! いや、それより命が……!

毎週そんな国家レベルの化け物たちの巣窟に放り込まれたら、

一ヶ月で俺の胃壁が消滅してしまう!!」


「い、衣装は!? 手土産はどうするんだ!?

相手が相手だ、近所のデパ地下で羊羹やメロンを買って済むわけがない!

そうだ、秘書に連絡して、人間国宝の陶器を……!」


朝からパニックに陥り、スマートフォンを握りしめて絶叫する男たちに、

雅由美はクスリと笑って、優雅に紅茶のカップを傾けた。


「お二人とも、どうか落ち着いてくださいな。手土産でしたら、

全て私が完璧に手配を済ませておりますわ」


「て、手配って……一体何を用意したんだ!?」


「フランス大使には、現在市場に出回っていない『幻のヴィンテージ日本酒』と、

それに合わせた江戸切子の特注グラスを。

イギリス大使には、宮内庁御用達の最高級玉露を、

美術館クラスの薩摩焼の茶入れに納めてお渡ししますわ」


「……ひっ」


「衣装につきましても、お父様とお兄様の採寸データは

銀座の専属テーラーに渡してあり、各国のプロトコル(儀礼)に合わせた

最高級のスーツと燕尾服が、毎週金曜日に届く手筈となっております」


「や、やり手がすぎる……! うちの秘書室長より優秀だ……!」


父と兄は、完璧すぎる娘(妹)の段取りの前に、

ただ真っ白な灰となって震えることしかできなかった。



第一週の土曜日。

フランス大使館で開かれた、優雅なガーデンパーティー。


雅由美は、刺青を完全に隠しつつも極限のエレガンスを体現する、

ヴィンテージのクリスチャン・ディオールの濃紺のオートクチュールに身を包んでいた。

首元と耳には、日本が世界に誇るミキモトの最高級パールが上品な光を放ち、

フランスの洗練と日本の気品を見事に融合させている。


その圧倒的な美しさに、会場中の視線が釘付けになる中。

父と兄は、シャンパングラスを片手に、完全に借りてきた猫のように

ガチガチに固まっていた。


「……Hé, le nouveau riche de l'Extrême-Orient.」

(おい、極東の成り上がりどもが)


ふと、意地の悪い笑みを浮かべたフランスの貴族出身の実業家が、

取り巻きを連れて神龍寺の父子に近づいてきた。


「Votre entreprise fait des profits, mais vous manquez d'élégance.」

(おたくの会社は儲かっているようだが、どうにも気品に欠ける。

こんな高貴な場には、少し場違いではないかね?)


フランス語で遠回しに嘲笑され、言葉の分からない父と兄が

「は、はあ……サンキュー?」と困惑して愛想笑いを浮かべた、その時。


「……あら」


通訳として傍らに控えていた雅由美が、静かに一歩前に出た。


「Nous sommes peut-être des parvenus, monsieur.」

(ええ、私たちは成り上がりかもしれませんわ、ムッシュ)


雅由美の口から、パリの貴族階級すら舌を巻くほどの、

極めて流麗で、そして絶対零度のフランス語が紡ぎ出された。


「Mais nous nageons bien mieux que les rats impolis au fond de la Seine.」

(ですが……先日セーヌ川の底に沈んだ『不作法なネズミたち』よりは、

遥かに泳ぎが上手くてよ?)


ピタリ、と。

実業家の顔から、血の気が完全に引いた。

セーヌ川の底に沈んだネズミ。それは先日、雅由美が情報を流して

壊滅に追いやったフランス・マフィアの隠語である。


「あなた方の会社も、重い石を抱いて川底を観光したくはありませんわよね?」


極上のパールの輝きにも負けない、恐ろしいまでに冷酷な微笑み。

実業家は、目の前の令嬢が「あの事件の黒幕」であることに気づき、

ガチガチと歯の根を鳴らして震え上がった。


「パ、パルドン……!! し、失礼いたしましたぁっ!!」


実業家は直角九十度に頭を下げると、シャンパンをこぼしながら

脱兎のごとく逃げ出していった。


「……雅由美。今、何を言ってあんなに感謝されたんだ?」


「ふふっ。日本の水泳の授業は素晴らしいと、少しお話ししただけですわ。

さあ、あちらのテリーヌをいただきましょうか」



第二週の土曜日。

イギリス大使館で開かれた、格式高いアフタヌーンティー。


雅由美は、ミントグリーンのクラシカルなアフタヌーンドレスに、

上品なファシネーター(髪飾り用の小さな帽子)を合わせ、

まるで英国の薔薇と見紛うような気高い装いであった。


芝生が広がる中庭で、大使や重鎮たちと和やかに談笑していた、その時。


「グルルルルッ……! バウッ!!」


突如として、大使が自慢する気性の荒い大型の狩猟犬マスティフが、

リードを振り切って興奮状態に陥り、

ティーテーブルのケーキ目掛けて猛烈な勢いで突進してきた。


「オゥ、ノー! 誰か止めろ!!」


大使が悲鳴を上げ、屈強なSPたちも大犬の突進を止められず、

会場がパニックに包まれた、その瞬間。


「……おやめなさい」


雅由美が、ティーカップを持ったまま一歩前に出た。

突進してくる大型犬に向け、その鳶色の瞳がスッと細められる。


放たれたのは、歴戦の極道たちですら恐怖に震え上がる、

無敵の八代目としての底知れぬ『龍の眼光(殺気)』。


「……ッ!!」


空気を切り裂くような圧倒的な覇気に当てられ、

狂犬は空中で「キャンッ!」と情けない悲鳴を上げた。

そして、雅由美の足元に滑り込むように着地すると、

そのままコロンと仰向けになり、尻尾を股の間に挟んで

完全な服従のポーズ(腹見せ)をとったのである。


「まあ、賢いワンちゃんですこと」


雅由美がティーカップを片手に持ったまま、

空いた手で大型犬の喉元を優しく撫でてやると、

犬は「キュゥ~ン……」と恍惚の表情を浮かべてすり寄った。


「オ、オーマイゴッド……! あの狂犬を、ただの視線だけで……!?

ミヤユミ嬢、君は猛獣使いの才能もあるのか!」


大使が目を丸くして感嘆の声を上げ、周囲から割れんばかりの拍手が起こる。


「……父さん。うちの娘は、ついに言葉の通じない猛犬まで

屈服させる覇気を身につけたようです」


「……ああ。もう、何が来ても驚かんよ」


父と兄は、優雅に犬と戯れる令嬢の姿を遠い目で見つめながら、

懐から胃薬のタブレットを取り出し、紅茶で静かに流し込むのであった。

神龍寺の男たちの受難の週末は、まだまだ折り返し地点である。





六月中旬。

梅雨の長雨が街を濡らす、第三週の土曜日の夕暮れ時。

神龍寺本邸の重厚な書斎では、当主である父が、万年筆を握りしめたまま

分厚い和紙に向かって、真剣な面持ちで筆を走らせていた。


『……愛する妻へ。もし私が今夜、不用意な失言によって

日本経済から完全に抹殺されるようなことがあれば、後の会社は……』


「お父様。お車の準備が整いましたわ。……あら、何を書いていらっしゃるの?」


ノックの音と共に、優雅な足取りで書斎に入ってきた雅由美が小首を傾げる。

本日の雅由美は、深紅の最高級シルクで仕立てられた、

首元から手首までをすっぽりと覆う長袖のイブニングドレス姿である。

肌の露出を極限まで抑えながらも、女性らしいしなやかなシルエットを際立たせ、

背中の『龍』を誰にも悟らせない、完璧に計算された気高い装いであった。


「い、いや、なんでもない! ただの備忘録だ!」


父は慌てて遺書(書きかけ)をデスクの引き出しに隠し、

胃薬をポケットにねじ込んで立ち上がった。



今宵の舞台は、経団連会長の広大な私邸で開かれるシークレット・ディナー。

厳選された日本経済のトップ数名だけが招かれる、文字通りの『雲の上』である。


豪華絢爛なダイニングで、和やかな会食が進む中。

神龍寺グループを昔から目の敵にしているライバル企業の老社長が、

ワインで顔を赤くしながら、ねっとりとした笑みを浮かべて絡んできた。


「いやぁ、神龍寺さんのところは最近お元気なようですが。

我々のように、総理の派閥へ『莫大な貢献』をして国を支えるような、

本物の太いパイプはお持ちでないでしょう?

やはりビジネスは、金と政治の力ですからなぁ。はっはっは!」


明らかなマウントと、賄賂を匂わせるような下品な自慢話。

父と兄が「くっ……」と唇を噛み、経団連会長も不快そうに眉を顰めた、その時。


「あら」


雅由美が、美しいクリスタルのグラスを静かにテーブルに置いた。


「〇〇社長のその『莫大な貢献』というのは、

ケイマン諸島にあるペーパーカンパニーを経由したもののことですの?」


「……なっ、何を馬鹿な……」


「先日、私の『パソコンに少し詳しいお友達(電脳組)』が、

ネットの海でうっかり迷子になりまして。

その際、社長の隠し口座のデータを拝見してしまったのですけれど」


雅由美は、深紅のドレスの袖口を優雅に押さえ、

極上の微笑みを浮かべながら、ふわりと首を傾げた。


「パスワードが、銀座の愛人の方のお名前と生年月日だなんて、

セキュリティが少しばかり甘くていらっしゃいますわよ?

数字の並びは、とっても綺麗でしたけれど」


ピシッ、と。

老社長の顔面から、文字通り全ての血の気が失せた。


「あ、あ、あああ……っ!?」


「もしその美しい数字が、国税庁や特捜部の方々の目に留まったらと思うと、

私、心配で夜も眠れませんの。……どうか、お気をつけくださいませね」


完璧な令嬢の、底知れぬブラックユーモアの猛毒。

老社長は「ひぃっ!」と喉の奥で悲鳴を上げると、白目を剥いて

そのままダイニングの絨毯の上へと泡を吹いて気絶した。


「わーっはっはっは!! こりゃあ傑作だ!!」


経団連会長が、腹を抱えて大爆笑する。


「雅由美嬢、君は我が経団連の最高の監査役だ!

こいつの裏金には私も手を焼いていたんだ。見事なお手前だよ!」


「もう、会長様ったら。私はただ、少し数字に強いだけですわ」


上品に口元を隠して笑う雅由美の横で、父と兄は真っ青な顔で

(……頼むから、もうこれ以上、誰も社会的に殺さないでくれ……っ)と、

神仏に必死の祈りを捧げていた。



そして、第四週の土曜日。

最後にして最大の難関、内閣総理大臣公邸での超極秘の晩餐会。


雅由美は、涼やかな淡い水色のの訪問着を纏い、

梅雨明けを思わせる紫陽花の簪を挿した、息を呑むほどに美しい和の装いである。

日本のトップを前にしても、彼女の所作には一ミリのブレもない。


最高級のフレンチが運ばれ、総理と和やかに歓談していた、その時。


「そ、総理!! 一大事でございます!!」


血相を変えた第一秘書官が、ダイニングに飛び込んできた。


「どうした、騒々しい」


「明日の朝刊に、総理の政敵である野党の黒幕が裏で手を回した、

悪質な捏造スキャンダル記事がすっぱ抜かれるとの情報が!

すでに系列の週刊誌の輪転機が回り始めています!

このままでは、内閣支持率が致命的な打撃を……っ!」


「なんだと!? くそっ、あの狸親父め、こんな汚い手を使ってくるとは!」


総理が頭を抱え、公邸のダイニングに絶望的な空気が立ち込める。

父と兄も「国家の危機に立ち会ってしまった!」と震え上がった。


だが、雅由美だけは、静かにナプキンで口元を拭い、優雅に立ち上がった。


「……総理。少しだけ、お電話をお借りしてもよろしいかしら」


「み、雅由美嬢? しかし、これは国家の……」


「せっかくの美味しいフレンチが、冷めてしまいますわ」


雅由美はふわりと微笑むと、公邸の庭へと通じるテラスへ歩み出た。

スマートフォンの暗号化アプリを起動し、電脳組の結城へ短い指示を飛ばす。


『……ええ、結城。その出版社のサーバーよ。

輪転機のシステムごと、全て完全に「お掃除」してちょうだい』


わずか五分後。

雅由美が涼しい顔で席に戻り、再びスープの匙を取った直後。

秘書官が、今度は腰を抜かさんばかりの勢いで飛び込んできた。


「そ、総理!! き、記事が全て差し止められました!!

出版社のメインサーバーが突如として物理的にダウンし、

捏造記事のデータが完全に消滅! 輪転機も謎のエラーで完全停止です!

出版社の社長が、何かに怯えながら泣いて謝罪の電話をかけてきています!!」


「……なっ、なんだって……!?」


総理は唖然として秘書官の報告を聞き、そして、

目の前で美味しそうにフレンチを味わう、一人の美しい女子大生を見た。


「み、雅由美嬢……君は、一体何者なんだ……?

いっそ大学を中退して、内閣情報調査室のトップになってくれないか!?」


「まあ。総理ったら、冗談がお上手ですこと」


雅由美は、紫陽花の簪を微かに揺らして、クスクスと笑った。


「私はただの、少しお掃除が好きなだけの学生ですわ。

……さあ、皆様。メインの鴨肉のローストが冷めてしまいますわよ」


国家を揺るがす危機すらも、食前の五分間で優雅に解決してみせる令嬢。

総理大臣は完全に白旗を揚げ、父と兄はもはや魂を口から吐き出していた。



全ての内輪パーティーを終えた、日曜日の朝。


神龍寺邸のダイニングルームには、

椅子に座ったまま、完全に『真っ白な灰』となって燃え尽きている、

父と兄の姿があった。ピクリとも動かない。


「……おはようございます、お父様、お兄様」


そこへ、初夏の朝の光を背負って、いつものように完璧で美しい姿の

雅由美が、ふわりと軽やかな足取りで入ってきた。


「今月は、本当に有意義でエキサイティングな週末でしたわね。

手土産も衣装も完璧でしたし、皆様にもお喜びいただけたようで何よりですわ」


「…………」


「さて、来月はどなたを我が家のパーティーにご招待いたしましょうか?

やはり、アメリカ大使館の皆様を……」


「「ヒィィィィィィッ!!!」」


真っ白な灰となっていた男たちが、悲鳴を上げて椅子から転げ落ちた。


「もう嫌だ! 父さんは明日から無人島で暮らす!!」

「俺は出家します!! 探さないでください!!」


パニックになって床を這いずる父と兄を見て、

雅由美は「まあ、朝からお元気ですこと」と、楽しげに微笑んだ。


国家の裏表を自在に操る無敵の令嬢と、

それに巻き込まれて胃薬を主食とする男たちの受難の喜劇は、

初夏の眩しい青空の下、揺るぎない平和な日常として続いていくのであった。



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