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第二十五章



五月下旬。

京都の青々とした竹林や、箱根の湯煙に包まれた豪奢な旅館など、

日本の美を巡るヴィンチェンツォ夫妻との一週間にわたる国内旅行は、

特命アテンドである雅由美の完璧な手配により、最高のものとなった。


東京へと戻ったその日の夜。

銀座の路地裏にひっそりと暖簾を掲げる、予約数年待ちの最高級寿司店は、

今宵、二つの巨大な組織のトップによって完全に貸し切られていた。


「どうだ、ヴィンチェンツォ。今日のマグロは格別だろう」


「素晴らしい! 口の中で溶けていくようだ。まさに芸術品だね」


白木のカウンターに並んで座り、極上の大トロやウニを肴に

日本酒の杯を交わしているのは、龍神連合会の七代目会頭である祖父と、

欧州の裏社会を束ねる老獅子、ヴィンチェンツォである。


「ソフィア様、こちらの穴子もふっくらとして美味しいですよ」


「まあ、本当。日本のシーフードは魔法のようね」


和服に身を包んだ祖母とソフィアも、すっかり意気投合し、

娘や孫の話題で花を咲かせている。


「お二人とも、日本の旅はいかがでしたか?」


雅由美が流暢なイタリア語で尋ねると、ヴィンチェンツォは

上機嫌に杯を干し、目尻のシワを深くして笑った。


「最高だったよ、ミヤユミ。君の完璧なアテンドのおかげだ。

……七代目。あんたは本当に、世界一可愛くて、そして恐ろしい、

自慢の孫娘を持ったな」


「ふん。私には少々、出来が良すぎるくらいだがな」


祖父が照れ隠しのように鼻を鳴らす。

欧州のドンと日本のドン。住む世界も言葉も違う二人の巨魁が、

愛する共通の「孫娘」を通じて、固い絆で結ばれていた。



翌日の午後は、表と裏の顔が交差する時間となった。


銀座の高級ブティックを貸し切りにしたショッピング。

ソフィアは、ショーケースの中で一際美しい輝きを放っていた

最高級のサファイアのネックレスを指差した。


「ミヤユミ、これは私と夫から、本物の孫へのプレゼントよ」


「まあ……。こんなに素晴らしいものを、よろしいのですか?」


「もちろんよ。あなたのその美しい鳶色の瞳によく似合うわ」


ソフィアにネックレスを着けてもらい、雅由美は優雅に微笑んだ。


「ありがとうございます。私からも、お二人にささやかな贈り物を」


雅由美が差し出したのは、美しい桐箱に納められた、

見事な螺鈿らでん細工が施された若狭塗の夫婦箸と、

深い瑠璃色の江戸切子のペアグラスであった。


「日本の伝統的な職人技で作られたものです。お二人のこれからの

お時間が、さらに輝かしいものになりますように」


「おお……! なんて繊細で美しい細工なんだ。グラッツェ、ミヤユミ!」



温かな交流から数時間後。

都内の超高級ホテルの、一切の光と音が遮断されたVIPルーム。


「……というわけで、アジアの流通ルートの三割を、

我々の組織で管理させてもらいたい」


先ほどの好々爺の顔は完全に消え去り、絶対的なマフィアのボスとしての

冷酷なオーラを纏ったヴィンチェンツォが、葉巻の煙を吐き出した。

対面に座っているのは、東南アジアを拠点とする巨大シンジケートのボスだ。


「それは少し強引じゃありませんか、ヴィンチェンツォ氏。

こちらも生活がかかっている。せめて一割で……」


男が脂汗を流しながら反論しようとした、その時。


「……お言葉ですが」


ヴィンチェンツォの斜め後ろで、完璧な通訳として控えていた雅由美が、

絶対零度の、しかし極めて優雅な声で言葉を遮った。


「その流通ルートの要衝には、我が『龍神』のシマも含まれておりますわ。

欧州と日本、この両者の意向に逆らってまで、

あなた方はその海を、安全に航海できるとお思いかしら?」


「ひっ……!」


雅由美の鳶色の瞳から放たれた、本物の「龍の眼光」。

男は、背広の下で心臓を鷲掴みにされたような悪寒に襲われ、

ガタガタと震えながら深く頭を下げた。


「わ、分かりました……! 三割、喜んでお譲りいたします……っ!」


「かっかっかっ! 交渉成立だな。さすがは私の美しい右腕だ」


ヴィンチェンツォが豪快に笑い、雅由美は静かに扇子を開いて微笑んだ。



そして、ヴィンチェンツォの帰国を数日後に控えた日の夕方。

神龍寺邸のダイニングルームには、父の絶叫が響き渡っていた。


「な、ななななっ、なぜだあああっ!?」


父が指差す先にある、大型の薄型テレビ。

そこには、夕方の全国ネットのニュース番組が映し出されていた。

『欧州の有力文化財団トップ、ヴィンチェンツォ氏による公式記者会見』。


フラッシュが焚かれる中、壇上で堂々とスピーチを行う老獅子。

そして、そのすぐ隣。

完璧な姿勢で立ち、一言一句狂わぬ美しい日本語とイタリア語で、

国賓級の会見の通訳をこなしているのは、

紛れもなく、愛する娘の雅由美であった。


「ぶふぁっ!! ゲホッ、ゴホッ!?」


夕食前のビールを飲んでいた兄の貴哉が、盛大にテーブルを濡らす。


「と、父さん! 雅由美が……雅由美が全国放送のニュースの、

しかもど真ん中に映っています!!」


「見れば分かる! だ、だからなぜ、ただのインターン生が、

国のトップ級の会見でメイン通訳を張っているんだ!?」


その時、父のスマートフォンが狂ったように鳴り始めた。


『社長!! テレビを見ましたか!? お嬢様が!』

『我が神龍寺グループは、ついに欧州の財団とも提携を!?』


会社の役員たちからのパニック状態の電話である。


さらに、雅由美のスマートフォン(本人は不在で自室に置かれている)にも、

大学の親友たちからの通知が嵐のように届いていた。

『お姉様!? 今テレビに映ってらっしゃいます!?』

『嘘でしょ、お姉様、総理大臣の通訳みたいなことしてる!!』


神龍寺家は、またしても大パニックの渦に飲み込まれていた。



翌週。

二週間にわたる怒涛のインターンシップが、ついに終了の日を迎えた。


「ブラヴォー! 本当にブラヴォーだ、ミヤユミお嬢様!!」


イタリア大使館の応接室で、特命全権大使がハンカチで涙を拭いながら、

雅由美の手を固く握りしめていた。


「あなたの完璧なアテンドと通訳のおかげで、

我が国と日本の関係は、かつてないほど強固なものとなりました!

ああ、あなたがイタリア国籍でないことが悔やまれる……!」


「もったいないお言葉ですわ、大使。私も多くのことを学ばせていただき、

大変有意義な二週間でございました」


雅由美が深く一礼すると、大使から一部の隙もない豪華な封筒が手渡された。


「これは、私とヴィンチェンツォ氏の連名による、

大学へのインターンシップ評価状(推薦状)です。

あなたのような素晴らしいレディの未来に、幸多からんことを!」



数日後。東京大学の教務事務室。

インターンシップの担当教授は、雅由美から提出された

その分厚い評価状を開き、老眼鏡の奥の目を限界まで見開いた。


「なっ……なんじゃこりゃあ……」


そこには、極めて丁重かつ最上級の賛辞が並べられ、

最後には『駐日イタリア特命全権大使』のサインと、

国家の公式印である国璽、さらには『欧州文化財団理事長』の

威圧感たっぷりのサインが記されていた。


「し、神龍寺くんは……一体、どこで何の研修をしてきたんだ……?」


教授は震える手で評価状を落とし、そのまま白目を剥いて

事務室の椅子から崩れ落ちたという。



季節は巡り、初夏から梅雨の気配が近づく夜。


帰国前夜の、ホテルの最高級スイートルーム。

夜景の見えるテーブルで、プライベートな送別ディナーが開かれていた。


「ミヤユミ……。あなたと離れるのが、本当に寂しいわ」


ソフィアが、別れを惜しむように雅由美を強く抱きしめた。

その目には、本物の家族に向けるような温かい涙が浮かんでいる。


「私もです、ソフィア様。でも、またすぐにお会いできますわ。

海を越えても、私たちの心は繋がっておりますもの」


雅由美が優しく背中を撫でると、ヴィンチェンツォが静かに立ち上がり、

雅由美に向かって、力強く、そして温かい手を差し出した。


「日本の若き龍よ。君のおかげで、最高の滞在になった。

……また必ず、会おう。今度は欧州で、君をもてなさせてくれ」


「ええ。その日を、心待ちにしておりますわ」


固い握手を交わした二人の間には、年齢も国境も超えた、

裏社会を生き抜く者同士の、絶対的な誇りと絆が結ばれていた。


翌朝、プライベートジェットで飛び立つ二人を優雅に見送り、

雅由美は静かに迎えのセダンへと乗り込んだ。


「……お疲れ様でした、お嬢」


運転席の竜也が声をかけると、雅由美は後部座席でふわりと微笑んだ。


「ええ。とても楽しい二週間でしたわ。……さあ、竜也さん。

明日からはまた、普通の大学生活が待っています。

しっかり休んで、レポートの続きを書かなくては」


完璧な令嬢にして無敵の会頭。

世界を揺るがす大物たちとの華麗な舞を終え、

雅由美は再び、愛する日常のキャンパスライフへと、

優雅に、そして静かに戻っていくのであった。




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