第二十四章
五月上旬。新緑が目に鮮やかな、ある晴れた日の朝。
神龍寺邸の広大なダイニングルームには、
家族揃って朝食を終えた後の、穏やかなティータイムの
時間が流れていた。
開け放たれた窓からは、初夏の爽やかな風が吹き込み、
庭の木々の葉擦れの音と、小鳥のさえずりを運んでくる。
最高級のダージリンの香りが、室内に満ちていた。
「いやぁ、最近の我がグループの株価は絶好調だな。
このままいけば、過去最高の利益を更新できそうだ」
父が、経済新聞を片手に上機嫌に紅茶を啜る。
横では、兄の貴哉も満足げに頷いていた。
「ええ、父さん。先日、例のダミー会社との取引を
間一髪で回避できたのも大きかったですね。
雅由美の鋭い指摘には、本当に助けられましたよ」
「ふふっ、お役に立てて何よりですわ、お兄様。
経営学のケーススタディが、実践で活きましたのね」
雅由美は、完璧な令嬢の微笑みを浮かべながら、
優雅な手つきでティーカップを傾けた。
妹の彩美も、隣で美味しそうにクッキーをかじっている。
血生臭い裏社会の抗争など微塵も感じさせない、
極めて平和で、ありふれた良家の朝の風景である。
その穏やかな静寂を破ったのは、雅由美の手元に置かれた
スマートフォンの、控えめで上品な着信音だった。
「あら……」
画面に表示された『非通知』の文字と、特殊な暗号化の
アイコンを見て、雅由美の鳶色の瞳が微かに細められた。
「朝から電話なんて珍しいな。大学の友人からか?」
父が尋ねる中、雅由美は「失礼いたしますわ」と微笑み、
通話ボタンをタップして、優雅に耳元へ当てた。
「Pronto? Buongiorno, Vincenzo-sama.」
(もしもし? おはようございます、ヴィンチェンツォ様)
雅由美の口から、鈴を転がすような、しかし完璧な発音の
流暢なイタリア語が紡ぎ出された。
突然の外国語に、父と兄は「ん?」と顔を見合わせる。
『おお、雅由美! 日本の美しい朝を邪魔してすまないね。
私の可愛いソフィアが、早くあなたの声が聞きたいと
朝から騒ぐものでね』
電話の向こうからは、欧州の裏社会を統べる老獅子、
ヴィンチェンツォの豪快で温かな笑い声が響いてきた。
「ふふっ、ソフィア様にもよろしくお伝えくださいませ。
……五月のご来日の件、いよいよ来週ですわね」
『ああ。イタリアの極上のワインをたっぷり積んでいくよ。
日本の裏社会を束ねる若き龍と、再び美味い酒を
飲めるのが、今から楽しみで仕方がない』
「ええ。私も、最高の『お出迎え』の準備を整えて、
お二人のご到着を心よりお待ち申し上げておりますわ。
日本の美しい新緑をご案内いたしますね」
雅由美は、マフィアのトップとの極秘の来日打ち合わせを、
まるで「親戚のおじ様との旅行計画」のように、
どこまでも優雅に、そして楽しげなイタリア語でこなしていく。
数分後。「Ciao」と美しく締めくくり、
雅由美はスマートフォンを静かにテーブルへと置いた。
「ふぅ……。朝から、とてもお元気な方ですわ」
雅由美が紅茶を一口飲むと、ダイニングテーブルの反対側で、
父、母、兄、妹の四人が、口を半開きにして
完全に硬直していることに気がついた。
「……皆様、いかがなさいましたの?」
「み、雅由美……お前、今の電話は、一体誰だい?
イタリア語……だったよな? しかも、ネイティブ顔負けの」
父が、震える声で恐る恐る尋ねた。
雅由美は、小首を傾げて天然な笑顔を向ける。
「ええ。少し前から親しくさせていただいている、
イタリアの『ヴィンチェンツォ様』というお爺様ですの。
来週、奥様と一緒に日本へ遊びにいらっしゃるそうで」
「い、イタリアのお爺様!?
お前、いつの間に海を越えたメル友を作っていたんだ!?」
兄の貴哉が、目を白黒させながら身を乗り出す。
「先日、船旅で知り合いお爺様のレセプションでもお世話になりましたし。
……そういえば、お父様」
雅由美は、家族のパニックをあっさりとスルーして、
優雅に両手を組み合わせた。
「数日後から、大学の二年生の『研修期間』が始まりますわね」
雅由美の通う大学では、二年生の春に数週間の
社会体験研修が義務付けられており、
研修先は学生自身が自由に決めることができる。
「あ、ああ、そうだな。確か、お前はどこかの
美術館か、図書館で研修すると言っていなかったか?」
「ええ、当初はその予定だったのですけれど……。
色々とご縁がありまして、研修先を変更いたしましたの」
雅由美は、まるで「今日の夕飯はハンバーグにします」とでも
言うような、極めて日常的で軽やかなトーンで告げた。
「イタリア大使館で、要人の方々の通訳とアテンドを
務めさせていただくことになりましたわ」
「…………ががっ!?」
父の顎が、文字通り「ガコンッ」と外れんばかりに大口を開け、
持っていたティーカップがカチャリとソーサーに落下した。
「ブッ……!! ゲホッ、ゴホッ!!」
兄の貴哉は、飲み込みかけたコーヒーを見事に気管に詰まらせ、
テーブルの下で激しくむせ返っている。
「お、おおおお、お父様!? 顎が! 顎が!!」
彩美が悲鳴を上げ、母が慌てて父の背中をさする。
神龍寺家の優雅なティータイムは、たった一言で
阿鼻叫喚のコメディ劇場へと変貌を遂げていた。
「たっ、大使館だと!? しかも要人の通訳!?」
ようやく呼吸を取り戻した貴哉が、涙目で叫んだ。
父も、外れかけた顎を手で押さえながら絶叫する。
「ど、どうしてただの学生のお前が、そんな国家レベルの
最重要施設で研修なんてできるんだ!?
そもそも、なぜイタリア大使館がお前を指名する!?」
「あら? 先日のお食事会の時に、
イタリア大使から『ぜひうちの研修においでなさい』と
強くお勧めいただきましてよ?」
雅由美は、目を瞬かせながら不思議そうに答えた。
「私の語学力が、来日される要人の方のおもてなしに
少しはお役に立てるかもしれない、とのことですわ」
「少しはお役に、じゃないだろう!!」
父は頭を抱え、ダイニングをウロウロと歩き回り始めた。
「先週はアメリカ大使と上院議員の家族とバーベキューをして、
今週はイタリア大使館から特命通訳のヘッドハント……!?
うちの娘は、将来国連事務総長にでもなる気か!?」
「あるいは、どこかの国の裏で糸を引く黒幕ですよ……。
父さん、雅由美の交友関係、もう規模が宇宙です……」
兄の貴哉が、真っ白な灰のように燃え尽きた表情で呟く。
企業のトップとして日々奮闘している父と兄にとって、
女子大生である雅由美のコネクションの広さは、
もはや理解の範疇を完全に超えたホラーでしかなかった。
「もう、お父様もお兄様も大袈裟ですわ。
ただの数週間の、社会見学のようなものですのに」
雅由美はクスリと笑うと、残っていた紅茶を飲み干した。
「ですが、大使館でのマナーや国際プロトコルも、
一度しっかりと復習しておかなければなりませんわね。
日本の令嬢として、恥ずかしくない振る舞いをいたしませんと」
「すでに十分すぎるほど規格外の令嬢だよ……!」という
父と兄の心のツッコミは、もはや声に出ることはなかった。
血生臭いマフィアのボスからの電話を笑顔でいなし、
国家の要人を招く大使館での特命通訳をサラリと引き受ける。
それでいて、本人はあくまで「おしとやかな女子大生」の
つもりでいるのだから、始末に負えない。
「ふふっ。今年の五月は、とても賑やかになりそうですわ」
五月の爽やかな風が、雅由美の鳶色の髪を優しく揺らす。
家族の微笑ましいドタバタ劇をBGMにしながら、
完璧な令嬢にして無敵の極道会頭は、
迫り来る老獅子の来日と、大使館という次なる巨大な舞台へ、
密かに、そして優雅に思いを馳せるのであった。
神龍寺家の胃薬の消費量は、まだまだ増えそうである。
五月中旬。
初夏の陽光が、港区にあるイタリア大使館の美しい庭園に眩しいほどに降り注いでいた。
厳重なセキュリティに守られた白亜の洋館の中で、雅由美は大学二年生のインターン生として、初日から完璧にその業務をこなしていた。
「——ですので、明日の視察ルートは迎賓館を経由し、その後に銀座のレセプション会場へと向かう手筈となっております。万が一の渋滞に備え、裏道を含めた三つの代替ルートも既に手配済みですわ」
「Si, perfetto(はい、完璧です)。ミヤユミお嬢様、本当に素晴らしい手際でございます。我が大使館の正規の書記官たちよりも、遥かに頼りになりますよ」
応接室で、特命全権大使が額に滝のような冷や汗を浮かべながら、ただの女子大生である雅由美に対し、最敬礼に近い角度で深く頭を下げていた。
「もったいないお言葉ですわ、大使。私はただの未熟なインターン生ですもの。どうぞ、他の方と同じように気兼ねなくお申し付けくださいませね」
雅由美が優雅に微笑むと、大使は「と、とんでもない! あなたに雑用など頼めば、本国のヴィンチェンツォ氏から私の首が物理的に飛んできます!」と激しく首を横に振った。
その異様な光景を、廊下の陰から見ていた一般のイタリア人職員たちは、ヒソヒソと困惑の声を漏らしていた。
「ねえ……どうして大使は、あの学生インターン相手に、本国の首相に対するよりもへりくだっているの?」
「さあ……。でも、あの美しさと気品、ただ者じゃないわ。きっと日本の『プリンセッサ』がお忍びで来ているのよ」
そんな職員たちの噂話をよそに、大使館の駐車場ではさらに異様な光景が繰り広げられていた。
「……おい、黒田。ワックスの拭き残しがあるぞ。ボンネットに埃一つ残すな」
「すみません、竜也の兄貴。すぐやり直します。……しかし、この車、防弾ガラスの厚みがハンパじゃないですね」
『大使館の臨時雇い運転手兼セキュリティ』として潜入した竜也と黒田である。
黒塗りの公用車をピカピカに磨き上げている二人だが、完璧なダークスーツに身を包んだ屈強な大男たちから放たれる本物の極道のオーラは、どう見ても『イタリアン・マフィアの凄腕ヒットマン』にしか見えなかった。
通りがかった本物のイタリア人職員たちが、「ヒッ……! シ、シチリアの風が吹いている……!」と怯えて道を譲っていく。
(……俺たちは、極道だぞ。なぜ大使館で車のワックスがけを……っ)
竜也は、イタリアの陽気な風を感じながら、密かに胃薬のタブレットを噛み砕いていた。
数日後。
羽田空港のVIP専用ゲートは、只ならぬ熱気に包まれていた。
表向きは『欧州の有力な文化財団トップ』として来日する、ヴィンチェンツォ夫妻を出迎えるため、日本の外務省の役人や、一部のマスコミが詰めかけていたのだ。
「到着されました。ヴィンチェンツォ氏です!」
ゲートが開き、豪奢なスーツを着こなした白髪の老獅子、ヴィンチェンツォと、寄り添う優雅な妻のソフィアが姿を現した。
外務省の役人たちが、緊張した面持ちで挨拶に向かおうとした、まさにその瞬間である。
「おお! 私の可愛い孫娘!」
ヴィンチェンツォは、周囲のSPや役人たちを完全に無視して真っ直ぐに進み、最前列で通訳として控えていた雅由美の元へ歩み寄ると、イタリア式の熱いハグと親愛の頬キスを交わしたのだ。
「ヴィンチェンツォ様、ソフィア様。長旅、お疲れ様でございました。日本の美しい新緑が、お二人を歓迎しておりますわ」
「会いたかったわ、ミヤユミ! あなたは今日も最高に美しいわね」
ソフィアも目を細めて雅由美の手を取る。
その光景に、周囲のマスコミや役人たちは完全に凍りついた。
「なっ……なんだあの女子大生は!?」
「神龍寺グループの令嬢だ! 欧州の超大物と、あんな家族ぐるみの付き合いがあるなんて、一体どういうことだ……!?」
フラッシュが焚かれる中、雅由美は全く動じることなく、完璧な令嬢の微笑みで二人を公用車へとエスコートした。日本のマスコミにとって、神龍寺雅由美という存在が底知れぬ謎のベールに包まれた瞬間であった。
その夜。
港区にある、迎賓館クラスの歴史ある洋館を貸し切って、ヴィンチェンツォ夫妻の歓迎舞踏会が華々しく開催されていた。
シャンデリアの光が降り注ぐフロアでは、生バンドが優雅なウィンナ・ワルツを奏でている。
雅由美は、首の根元から足首までをすっぽりと覆う、漆黒のシルクベルベットのイブニングドレスに身を包み、会場の隅で静かにシャンパングラスを傾けていた。
背中から腕にかけては、極めて緻密な最高級のフランス製黒レースがあしらわれており、上品な透け感を演出しつつも、その肌を直接晒すことはない。
彼女の美しい背中に深く彫り込まれた、八代目の証である『見事な昇り龍の刺青』を、誰の目にも触れさせず完璧に隠し通すための、計算し尽くされた極上の装いであった。
その耳元の極小イヤホンから、竜也の緊迫した声が響く。
『お嬢。……鼠が紛れ込んでいます。以前潰したフランス・マフィアの残党どもです。ヴィンチェンツォ様と貴女への復讐のため、給仕や楽団員に扮して、会場内に数人潜伏しています』
「……まあ」
雅由美は、シャンパンの泡を見つめながら、小さく嘆息した。
「せっかくの、ソフィア様の日本での最初の夜ですのに。無粋な血の匂いで汚すわけにはいきませんわね」
ふと視線を上げると、フロアの向こう側で談笑していたヴィンチェンツォと目が合った。老獅子の鋭い眼光は、すでに会場の異変を完璧に察知している。
二人は、ほんの僅かに、しかし確かに頷き合った。
「……美しいレディ。私と一曲、踊っていただけるかな?」
ヴィンチェンツォが雅由美の前に進み出で、芝居がかった優雅な仕草で手を差し出した。
「喜んで。私のアテンドは、少しばかりステップが速いかもしれませんけれど、ついてこられますか?」
「かっかっかっ! 老獅子を甘く見ないことだ。若い者にはまだまだ負けんよ」
雅由美がその手を取ると、二人はフロアの中央へと滑り出た。
ワルツの三拍子に乗り、年齢差を感じさせない、美しく、そして情熱的なダンスが始まる。
周囲の招待客たちが、その華麗なステップに感嘆の溜め息を漏らす。
だが、そのダンスの実態は、恐るべき『共闘』であった。
「……三時の方向、柱の陰ですわ」
「了解した」
踊りながらフロアの死角へと近づいた瞬間。
給仕に扮した男が、懐からサプレッサー付きの銃を抜こうとした。
しかし、その銃口が上がるより早く、ヴィンチェンツォの愛用する黒檀のステッキの石突きが、ワルツのターンの遠心力に乗って、男のみぞおちに強烈に突き刺さった。
「がっ……!」
男が声にならない悲鳴を上げて崩れ落ちるのを、雅由美はドレスの裾を翻しながら、死角の暗がりへと蹴り込む。
「次、九時の方向、楽団の後ろです。あのトロンボーンの男、楽器の持ち方が素人ですわ」
二人はステップを一切崩すことなく、優雅にフロアを舞い続ける。
今度は雅由美が、迫り来る暗殺者の腕をドレスに隠した鉄扇で打ち据え、そのまま合気道の流麗な体捌きで、相手の力を利用して壁際のカーテンの裏へと気絶させて放り込んだ。
「見事なターンだ、ミヤユミ。龍が舞っているようだ」
「ヴィンチェンツォ様のリードのおかげですわ。さあ、最後の一匹が、そちらのウェイターの後ろに」
招待客たちからは、「なんて息の合ったダンスだ!」と割れんばかりの拍手が送られている。まさか自分たちの目の前で、欧州のドンと日本の若き龍による、芸術的で冷徹な『お掃除』が行われているなど、誰一人として気づいてはいなかった。
曲が終わる頃には、潜り込んでいた数人の暗殺者は全員、竜也たちによって見えない場所へと速やかに『回収』されていた。
一滴の血も流さず、誰の目にも触れない、完璧な防衛劇であった。
「……ブラヴォー! 本当に素晴らしいダンスだったわ!」
フロアに戻った二人を、ソフィアが満面の笑みで拍手で迎えた。
「ありがとう、マイハニー。……いやあ、日本の若き龍のアテンドは、最高にスリリングで心地よいな。肩凝りがすっかり治ってしまったよ」
ヴィンチェンツォが、額の汗を拭いながら上機嫌にワイングラスを傾ける。
「ふふっ。インターン生としての、当然の務めですわ。……お代わりのワインはいかがですか?」
雅由美は、息一つ乱すことなく、漆黒のレースに包まれた背筋をピンと伸ばして優雅に微笑んでみせた。
窓の外には、ライトアップされた東京タワーが夜空に美しく輝いている。
世界の裏側を支配する大物たちと、華麗にワルツを踊りながら。
完璧な令嬢の、規格外のインターンシップの夜は、極上のワインの香りと共に、優雅に更けていくのであった。




