第二十三章
五月も半ばを過ぎ、吹き抜ける風に初夏の爽やかさが混じり始めた頃。
神龍寺本邸のダイニングルームには、いつもの穏やかな朝の光が満ちていた。
父と兄は、先週の「地獄の極秘レセプション」の疲労からようやく立ち直り、
平和なトーストとコーヒーの味を噛み締めている。
「お父様。少しよろしいかしら」
雅由美がふわりと微笑みながら、一通の封書をテーブルに置いた。
父はビクッと肩を揺らし、トーストを皿に落としそうになる。
「ま、またか!? 今度はどこの国家元首からの果たし状だ!?」
「もう、お父様ったら大袈裟ですわ。アメリカ大使からの、プライベートな
パーティーの招待状ですのよ」
「アメリカ大使!? こないだ名刺交換したばかりじゃないか!」
「ええ。同伴者が一名可能とのことですから、今回は彩美を連れて行こうかと
思っておりますの。先日のレセプションへ行けなかったお詫びも兼ねまして」
「わあ! 本当ですか、お姉様!?」
朝食のオムレツを食べていた妹の彩美が、目を輝かせて身を乗り出す。
父と兄は、信じられないというように顔を見合わせた。
「雅由美……お前、なぜそんなに世界の超大物たちから好かれるんだ?
うちの会社にだって、大使館から直接の招待なんて来たことがないぞ」
「あら、不思議ですわね。きっと、私のお話し相手として、皆様が少しばかり
退屈を紛らわせてくださっているだけですわ」
天然の微笑みで返す雅由美に、父と兄は「そんなわけあるか」と心の中で
突っ込みを入れつつ、もはや娘の底知れぬ人脈に白旗を揚げていた。
パーティーはこの週末、土曜日の午後五時からである。
それからの数日間は、姉妹にとって心躍る準備の期間となった。
水曜日の午後、大学の講義を終えた雅由美は、彩美と共に銀座の高級ブティックへ
と足を運んでいた。彩美のイブニングドレスを新調するためである。
「お姉様、この淡いイエローのドレスなんてどうかしら?」
「彩美の可愛らしい雰囲気にとてもよく似合うけれど、野外でのバーベキュー
パーティーと伺っておりますから、もう少し動きやすくて、それでいて
品のあるシルクのシフォンドレスはいかが?」
雅由美が選んだのは、初夏の若葉を思わせる、淡いミントグリーンのドレスだった。
試着室から出てきた彩美の姿は、瑞々しい妖精のように愛らしい。
「わあ……! すごく素敵! さすがはお姉様です!」
「ふふっ。靴は少しヒールの低い、歩きやすいものにいたしましょうね」
買い物を終えた二人は、老舗のカフェで優雅に紅茶とケーキを楽しんだ。
窓の外を行き交う人々を眺めながら、彩美が少し緊張した面持ちで尋ねる。
「大使館のパーティーなんて初めてだから、私、粗相をしないか心配で……」
「大丈夫よ、彩美。アメリカの方々はとてもフレンドリーですし、
今回はご家族ぐるみのカジュアルなお食事会。ありのままの彩美の笑顔が、
一番のおもてなしになりますわ」
雅由美の温かい言葉に、彩美はホッと胸を撫で下ろした。
極道の会頭としての血生臭い世界とは無縁の、妹との穏やかで平和な時間。
雅由美はこの日常を何よりも愛し、守り抜くと心に誓っていた。
そして迎えた土曜日の午後四時半。
神龍寺家邸の立派な門扉の前に、重厚な黒塗りの大使館専用車が滑り込んできた。
車に乗り込む姉妹の装いは、まさに完璧であった。
彩美はミントグリーンのシフォンドレスに、髪を可愛らしくハーフアップにまとめ、
雅由美は、風に揺れるネイビーブルーの軽やかなカクテルドレスを選んだ。
鳶色の髪はエレガントなシニヨンに結い上げ、パールのアクセサリーが、
白く細い首筋で上品な輝きを放っている。
「お姉様、とても綺麗……。ハリウッドの女優さんみたいです」
「ありがとう、彩美。あなたも最高に愛らしいわよ」
大使公邸に到着すると、広大な芝生の庭園では、すでに陽気なカントリー音楽が流れ、
香ばしいお肉の焼ける匂いが漂っていた。
大使家族をはじめ、日本基地に駐在する屈強な将軍夫妻、
そして本国から旅行気分で訪れているという大物上院議員の家族。
大使館の職員家族も交え、総勢二十人ほどの、アットホームな空間である。
「ヘイ、ミヤユミ! よく来てくれたね! 妹のアイミも、ようこそ!」
「お招きいただきありがとうございます、大使。素晴らしいお庭ですわね」
大使館の専属コックが、巨大なグリルで特大のステーキやシーフードを
豪快に焼き上げている。かしこまったフルコースではなく、
それぞれがお皿を持って自由に動き回る、立食形式のバーベキューだ。
「アイミ、日本の学校の話を聞かせてくれないか?」
「は、はい! ええと、マイフェイバリット・サブジェクト・イズ……」
最初は緊張していた彩美も、大使夫人や職員の子供たちの気さくな態度に、
すぐに打ち解け、笑顔でつたない英語と身振りを交えて会話を楽しんでいる。
雅由美は、芝生で行われていた「コーンホール(的入れゲーム)」に興じる
将軍たちに混ざり、合気道で鍛えた手首の絶妙なスナップを効かせて
次々と的の穴に袋を通し、喝采を浴びていた。
「ワオ! ミヤユミは恐ろしいスナイパーだな! 軍にスカウトしたいくらいだ!」
「ふふっ、ありがとうございます。お花を生けるのと同じ要領ですわ」
夕暮れ時。ランタンの柔らかな明かりが灯り始めた頃。
恰幅の良い大物上院議員が、美しい妻と共に雅由美たちの元へやってきた。
「ミヤユミ、アイミ。今日は君たちのような素敵なレディに会えて最高だよ」
「こちらこそ。上院議員、奥様も、日本のご滞在は楽しんでいらっしゃいますか?」
雅由美が優雅にグラスを傾けると、上院議員は少し照れくさそうに笑った。
「実はね、明日は妻と二人きりで、久しぶりに水入らずの時間を過ごしたくてね。
……もし良ければの話なんだが、うちの娘のキャシー(14歳)と、
息子のトム(11歳)を、明日一日、東京のショッピングに連れ出して
子守りをしてくれないだろうか?」
「まあ」
「もちろん、費用は全てこちらで持つ。大使から、君はとても聡明で
頼りになると聞いてね。日本の同世代くらいの女の子と過ごせば、
子供たちにとっても素晴らしい経験になると思ってね」
見れば、少し離れたテーブルで、14歳の金髪の少女キャシーと、
やんちゃそうな11歳の少年トムが、彩美と楽しそうに話している。
「ええ、喜んでお引き受けいたしますわ。私も彩美も、
明日のお休みは空いておりますから。最高の東京案内をお約束いたします」
「おお! 助かるよ、ミヤユミ! 君は我が家の救世主だ!」
上院議員夫妻と固い握手を交わしながら、雅由美はふわりと微笑んだ。
血なまぐさい裏社会の抗争ではなく、大物政治家からの「子守り」の依頼。
完璧な令嬢の、少しだけ賑やかで国際的な休日が、幕を開けようとしていた。
日曜日の朝。
初夏の陽光が差し込む神龍寺家邸の玄関先で、妹の彩美が申し訳なさそうに手を合わせていた。
「お姉様、本当にごめんなさい! 私、今日、同級生の親友たちと映画に行く約束をしていたのを、すっかり忘れてしまっていて……っ」
「ふふっ、気にしなくていいのよ、彩美。お友達との約束を大切になさい。子守りは私一人で十分ですから、楽しんでいらっしゃいね」
雅由美は、半泣きの妹の頭を優しく撫でると、門前に控えていた漆黒の高級セダンへと優雅な足取りで乗り込んだ。
運転席には、完璧なダークスーツに身を包んだ護衛の竜也が、彫像のように控えている。
「お嬢、お出ましですね。……行き先は、都内の一流ホテルでよろしいですか?」
「ええ、竜也さん。安全運転でお願いね」
静かに滑り出したセダンは、やがて都心にある最高級ホテルのエントランスへと到着した。
ロビーで待っていたのは、大物上院議員の愛娘であるキャシー(14歳)と、やんちゃ盛りのトム(11歳)だ。
「ミヤユミ! 迎えに来てくれてありがとう! アイミはどうしたの?」
「おはよう、キャシー、トム。彩美は急用ができてしまって、今日は私だけなの。でも、最高の東京案内をお約束するわ」
雅由美は、二人をセダンのふかふかの後部座席へとエスコートした。
「さあ、お父様からの『お買い物リスト』と、あなたたちのリクエストを合わせて、今日の完璧なスケジュールを立てましょうか」
「イェイ! 僕、キッザニアに行きたい!」
「私はサンリオピューロランド! 可愛いグッズが欲しいわ!」
「それから、ダイバーシティのリトルプラネットにも行きたいな!」
子供たちの無邪気で体力を持て余したリクエストに、竜也は運転席で(都内から多摩、そしてお台場……!? 移動だけで目が回りそうだぞ……)と密かに戦慄したが、雅由美は涼やかな笑顔で頷いた。
「ええ、全て叶えましょう。竜也さん、まずは豊洲へ。その後は多摩、そしてお台場へ向かいますわよ」
「……はっ! 直ちに!」
午前中は、まさに怒涛のスケジュールであった。
キッザニア東京でトムが日本の消防士体験にはしゃぎ、サンリオピューロランドではキャシーがハローキティの世界に目を輝かせて両手いっぱいにぬいぐるみを抱え込む。
さらにダイバーシティの『リトルプラネット』で最新の光と音のデジタル遊びを満喫する頃には、お昼を少し回っていた。
「ミヤユミ、お腹すいたー!」
「ふふっ、それではランチにいたしましょうか。日本ならではの『ファミリーレストラン』へご案内しますわ」
雅由美が選んだのは、都内でも有数の高級路線のファミリーレストランだ。
「ワオ! メニューが写真付きで、お城みたいに大きいハンバーグがある!」
「このパフェ、宝石みたいで綺麗ね!」
日本のファミレスのホスピタリティと、驚くほど高品質な料理に、子供たちは大喜びで舌鼓を打った。
午後は、上院議員から頼まれていた「お買い物リスト」の消化である。
表参道・青山エリアの洗練されたブティックで限定品の小物を手配し、六本木で日本の伝統工芸品を買い求め、最後に銀座の高級デパートへと向かう。
「ふぁぁ……ミヤユミ、僕、なんだか眠くなってきちゃった……」
夕暮れ時の銀座の街角。はしゃぎ疲れたトムが、目をこすりながら足取りを重くした。
「たくさん遊びましたものね。……ほら、トム。おんぶしてあげますわ」
雅由美は、美しいワンピースの裾を気にする様子もなく、しゃがみ込んで背中を向けた。
トムが素直に背中にしがみつくと、雅由美は軽々と立ち上がり、優しく背中をトントンと叩きながら歩き出した。トムは安心したように、すぐにすやすやと寝息を立て始める。
「ミヤユミってすごいわ。あんなに細いのに、トムを背負って普通に歩けるなんて」
「ふふっ、これでも体力には自信がありますのよ。キャシーも、日本の街は楽しめましたか?」
「ええ! 最高の一日よ!」
眠るトムを背負いながら、キャシーと楽しげに談笑し、車を停めてある裏通りの駐車場へと向かっていた、その時だった。
「……Target found. Give us the kids.(ターゲット発見。子供たちを渡せ)」
夕闇の迫る裏道から、黒いスーツに身を包んだ、いかにもプロの傭兵といった風貌の怪しい外国人たちが数人、音もなく立ち塞がった。
その手には、黒光りする拳銃と、特殊警棒が握られている。
どうやら、大物上院議員の子供たちを誘拐し、政治的な取引の材料にしようと企む輩のようだ。
「キャッ……! な、何!?」
キャシーが恐怖に顔を引き攣らせ、雅由美の背中に隠れる。
雅由美は、背中のトムを起こさないよう、あくまで穏やかに、しかし絶対零度の声で告げた。
「……Please be quiet. The child is sleeping.(お静かに。子供が眠っておりますわ)」
「Don't mess with us!(ふざけるな!)」
男の一人が警棒を振りかぶって飛びかかってきた。
しかし、銃口が雅由美に向けられるより早く、彼女の身体は流れるような舞を打った。
トムを背負ったまま、一切のブレのない美しい体捌き。
雅由美は、男の振り下ろした腕を的確に手刀で打ち据えると、その勢いを利用した合気道で、相手をアスファルトの道路へと音もなく叩きつけた。
さらに、銃を構えようとした二人目の懐に瞬時に潜り込み、持っていたブランド物の紙袋の硬い角で、顎の急所を鮮やかにカチ上げる。
「Gah...!?(がっ……!?)」
わずか数秒。
背中のトムが「んニャ……」と寝言を漏らす間に、武装した大男たちは全員、白目を剥いて路上に折り重なるように沈んでいた。
「……お行儀の悪い方々ですこと」
雅由美が涼しい顔で乱れた前髪を直していると、遠巻きに見ていた銀座の買い物客たちから、「ワオ!」「すっごいアクション!」「今の、ドラマの撮影!?」と、割れんばかりの拍手が巻き起こった。
「あら。……ふふっ、皆様、ごきげんよう」
雅由美は、勘違いして沸き立つ観衆に向かって、女優のように優雅に微笑んで一礼すると、何事もなかったかのように迎えに来た高級セダンへと乗り込んだ。
「ミ、ミヤユミ……! 今の、一体……!?」
「東京では、時々あのようなストリート・パフォーマンスが行われているのよ、キャシー。さあ、ホテルへ帰りましょう」
一流ホテルのスイートルーム。
無事に送り届けられたキャシーは、興奮冷めやらぬ様子で、両親に向かって本日の出来事を一部始終まくし立てた。
「パパ、ママ! ミヤユミは本当にスゴイの! 裏道で悪い人たちに囲まれたんだけど、トムを背負ったまま、まるでニンジャみたいに全員やっつけちゃったのよ! 周りの人も、映画の撮影だって拍手してたわ!」
「お、おいおい、キャシー。それは一体何の冗談だい?」
「本当よ! 私、ミヤユミの大ファンになっちゃった!」
上院議員は目を丸くしていたが、大物政治家ゆえの直感で「本当に狙われて、彼女に救われたのだ」と即座に悟り、雅由美の手を両手で固く握りしめた。
「おお、ミヤユミ! 君はただの聡明な令嬢というだけでなく、ワンダーウーマンだったのか! 我が家の宝を守ってくれて、本当に、本当にありがとう!」
「ふふっ、キャシーの想像力が少し豊かなだけですわ。お子様たちは、とても良い子でしたよ」
謙遜する雅由美に、上院議員の妻が涙ぐみながら言った。
「ミヤユミ、どうか今夜、私たちと一緒にディナーを食べてくれないかしら? この感謝の気持ちを、少しでも形にさせてちょうだい」
「ねえミヤユミ! お願い、一緒にご飯を食べよう!」
キャシーの懇願するような瞳に絆され、雅由美は「……喜んで、ご一緒させていただきますわ」と優雅に微笑んだ。
最高級のホテルディナーを和やかに楽しんだ帰り際。
上院議員は、周囲の目を気にしながら、そっと一枚の特別な名刺を雅由美の掌に握らせた。
「これは、私の直通のプライベートダイヤルだ。君がもし、アメリカや国際的な問題で困るようなことがあれば、昼夜を問わずいつでも連絡してくれ。……君は、我が家の恩人だからね」
「まあ。ありがとうございます、議員。大切にいたしますわ」
星が輝き始めた東京の夜。
世界を動かすアメリカの重鎮の「個人的な絶対の信頼」をまた一つ手中に収め、完璧な令嬢の週末は、どこまでも華麗に幕を閉じるのであった。




