表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

22/67

第二十二章

二十歳までは雅由美達が飲んで居るのはノンアルコール物です。



四月上旬。

東京大学のキャンパスは、見渡す限りの満開の桜に包まれていた。

うららかな春の陽差しが、薄紅色の花びらを透かして柔らかく降り注ぎ、

新学期を迎えた学生たちの、希望に満ちた笑い声が風に乗って響いている。


舞い散る花吹雪の中、キャンパスのベンチに腰を下ろした雅由美は、

スマートフォンの画面を静かに見つめ、優雅に微笑んだ。


「……ご苦労様でした、結城。これで完璧ですわ」


『ええ。内閣情報調査室との暗号化ホットライン、完全に開通しました』


イヤホン越しに、電脳組のリーダーである結城の声が響く。

御堂筋翁から突きつけられた、第一の条件『情報網の共有』。

雅由美はそれを、ただ無防備に国の機関へ情報を明け渡すのではなく、

世界三大同盟の機密には幾重にも強固なファイアウォールをかけ、

「互いに有益な情報のみを等価交換する」という冷徹なフィルターを通して、

完璧な形でクリアしてみせたのである。


(これで、一つ目の条件は完遂。残るは、若き獅子の盾となること……)


雅由美がスマートフォンをバッグにしまったその時、

「お姉様!」と、楽しげな声が弾んだ。

妹の彩美と、瑞希、麗華たちのグループが、桜の下を歩いてくる。


「皆様、ごきげんよう。春の風がとても心地よいですわね」


「本当ですね! あ、神龍寺さん。今日の夕方、大講堂で開かれる

政治シンポジウムに行きませんか? 今、学生にも大人気の若手政治家、

神崎かんざき議員がいらっしゃるんです!」


瑞希が、珍しく興奮した様子で一枚のフライヤーを差し出した。

神崎議員。彼こそが、御堂筋翁が目をかけ、雅由美に護衛を依頼した、

次代を担う改革派のホープである。


「まあ、素敵なお誘い。ええ、ぜひご一緒させてくださいな」


雅由美は、親友たちへ向けて、春咲きの花のような温かい笑顔を向けた。



夕方。熱気に包まれた大講堂。

満員の学生や報道陣が詰めかける中、壇上では若き神崎議員が、

日本の未来と改革について、理想に燃える熱い演説を行っていた。

その言葉には嘘偽りのない情熱があり、聴衆を惹きつける力がある。


(……なるほど。御堂筋様が目をかけられるだけのことはありますわね)


客席の最前列付近で、雅由美は優雅に拍手を送りながら彼を観察していた。

だが、その視線は神崎本人よりも、彼の背後へと向けられている。


「……あの、神崎先生のSPさんたち、なんだかすごくないですか?」


「ええ、凄まじいオーラですわ。マフィア映画の俳優さんみたい……」


彩美や麗華たちが、ひそひそと囁き合う。

神崎議員の背後には、臨時の「選挙スタッフ兼SP」として送り込まれた、

竜也と黒田が、ダークスーツに無線のイヤホン姿で仁王立ちしていた。

その圧倒的な極道の凄みと、顔に刻まれた傷のせいで、

強引な取材を試みようとした記者が、「ひっ……!」と悲鳴を上げて

モーゼの十戒のように道を空けていくという異常事態が起きている。


(お、俺たちは極道だぞ……。なぜ政治家の後ろでSPの真似事を……っ)


竜也は、大勢の一般人の視線に胃を痛めながら、

ポケットの中でこっそりと胃薬を握りしめていた。



シンポジウムが盛況のうちに終わり、キャンパス内の歴史ある

レセプションホールにて、立食パーティーが開かれた。

春らしい淡い桜色のワンピースに着替えた雅由美は、

グラスを片手に、和やかな歓談の輪の中にいた。


しかし、その穏やかな空気の中に、一滴の異物が混じる。


(……殺気)


雅由美の鳶色の瞳が、スッと細められた。

視線の先には、大勢の参加者と笑顔で握手を交わす神崎議員。

そして、その背後へと、銀のトレイに飲み物を乗せて近づく一人のボーイ。


歩幅が、一般のそれではない。暗殺特有の、音を殺した摺り足。

先月失脚させた黒部元代議士の残党か、あるいは利権を奪われた裏組織か。

改革を進める神崎を逆恨みした暗殺部隊が、紛れ込んでいたのだ。


(……満開の桜の香りを、血の匂いで濁すなど、許されるはずがありません)


暗殺者が神崎の死角に入り、上着の下から毒を塗った暗器を抜こうとした瞬間。


「……あら、失礼」


ワルツを踊るような、極めて優雅な足取りで。

雅由美の体が、神崎とボーイの間に、音もなく滑り込んだ。


「なっ……!?」


驚愕する暗殺者の手首の急所を、雅由美は手にしたシャンパングラスの

硬い底で、的確かつ強烈に打ち据えた。

痺れに顔を歪めた暗殺者の手から零れ落ちそうになる凶器を、

雅由美は近くのテーブルにあった「銀のサービストレイ」を盾にして弾き落とす。


カチャン、と微かな音が鳴る。

そのまま雅由美は、流麗な合気道の体捌きで相手の力を利用し、

ボーイの体勢を崩した。会場の喧騒に完全に紛れ、

誰の目にも留まらぬ死角の壁際へと、男を音もなく沈め去った。


シャンパングラスの中の黄金色の液体は、一滴たりともこぼれていない。


「おや、大丈夫ですか? お嬢さん」


振り返った神崎議員には、雅由美が「躓きそうになったボーイを

優しく支えてあげた美しい令嬢」にしか見えなかった。


「ええ。少しバランスを崩されたようですわ。

……それよりも、素晴らしい演説でしたわね、先生。感動いたしました」


雅由美は完璧な令嬢の微笑みを浮かべ、優雅に一礼した。

気絶した暗殺者は、間髪入れずに近づいてきた竜也たちが、

「急病人だ、控え室へ運ぶぞ」と、素早く、そして秘密裏に回収していく。



後日。

御堂筋翁のもとへ、神崎議員の護衛が無事に完遂された報告が届いた。

暗殺者の素性も全て洗い出され、翁の政敵の残党は完全に根絶やしにされた。

これで、翁から提示された三つの条件は、全て完璧に果たされたのである。


「かっかっかっ! あっぱれだ。あの小娘、末恐ろしいわい」


翁の大いなる賞賛と共に、政財界からの絶対的なバックアップが、

龍神連合会と、神龍寺家の企業グループへと約束された。



週末。

神龍寺家の広大な日本庭園は、春のうららかな陽気に包まれていた。

満開の桜の木の下で、緋毛氈を敷き、親友たちとのお茶会が開かれている。


「はぁ……今年の桜は、本当に綺麗ですわね」


瑞希が、桜餅を美味しそうに頬張りながら目を細めた。

麗華や茉莉恵たちも、舞い散る花びらを手で受け止めながら笑い合っている。

その平和で温かな光景を見つめながら、雅由美は新しいお茶を点てた。


「ええ。春の風は、本当に心地よいですわ」


国家の裏を守る強大な盾となり、世界の闇と渡り合いながらも。

完璧な令嬢の日常は、桜の花びらのように優雅に、

そしてどこまでも美しく、親友たちの笑顔と共に続いていくのであった。





四月中旬。

桜の季節が過ぎ、新緑の瑞々しい香りが風に混じり始めた、うららかな春の朝。

新年度を迎え、大学二年生に進級した雅由美は、神龍寺家の広大なダイニングルームで、家族と共に優雅な朝食の時間を過ごしていた。


テーブルには、専属シェフが腕を振るった和洋折衷の豪奢なメニューが並んでいる。

焼き立てのクロワッサンの芳醇なバターの香りと、出汁の効いた上品な白味噌の香りが、春の陽射しの中で心地よく溶け合っていた。


「お父様。食後のコーヒーの前に、少しよろしいかしら」


「ん? どうした、雅由美。大学で何か入り用か?」


新聞から顔を上げた父は、愛娘に向けて優しく目尻を下げた。

雅由美は、桐箱に納められているかのような、分厚く、そして只者ではない威圧感を放つ最高級の和紙の封書を、父の前に静かに置いた。


「先日、お祖父様に連れられてご挨拶に伺った方から、レセプションの招待状が届きましたの。お返事をどうしようかと迷っておりまして」


「ほう。お爺様の紹介なら、無下にはできないな。どれ……」


父は何気ない様子で、その重々しい封筒を手に取った。

ペーパーナイフで封を切り、中から見事な墨の筆致で認められた招待状を取り出す。


「ふむふむ。『春暖の候……』……ん?」


父の視線が、差出人の名前に止まった。

『御堂筋』。

政財界の裏表を牛耳る、絶対的なドン。表の経済界のトップを走る父にとっても、その名は「雲の上のさらに上、決して触れてはならない伝説」として轟いている。


「みっ……みど……え?」


さらに父の視線が、招待客のリストやレセプションの趣旨へと滑り落ちる。

『各国駐日大使、並びに選ばれし政財界の重鎮、トップリーダーを招いての極秘レセプション』。


――ごくり。


静寂に包まれたダイニングルームに、父が盛大に生唾を飲み込む音が、ひどく鮮明に響き渡った。


「お父様?」


「…………」


父は、招待状を持ったまま、完全にフリーズしていた。

目は限界まで見開き、和紙を持つ指先は、まるで冬の寒空の下にいるようにガタガタと小刻みに震え始めている。

額からは、滝のような冷や汗が噴き出していた。


「……あら。お父様、お顔色が優れませんわ。やはり、このような急なお誘いはご迷惑でしたわね。私から、丁重にお断りのご連絡を入れておきますわ」


雅由美が天然な笑顔で封書に手を伸ばそうとした、その瞬間。


「ば、ばっ、馬鹿を言うなあああっ!!」


石像のように固まっていた父が、突如として椅子から飛び上がり、悲鳴のような声を上げた。


「お、お、お断りだと!? 相手が誰だか分かっているのか雅由美!? こ、これを断るくらいなら、私が今すぐここで腹を切った方がマシだ!!」


「まあ。お腹を切るなんて、物騒ですわ、お父様」


「物騒なのはこの招待状だ!! な、なぜお前にこんな、国家機密レベルの恐ろしい代物が……っ!」


あまりの取り乱しように、朝食のコーヒーを飲んでいた兄の貴哉が、目を丸くして尋ねた。


「父さん、落ち着いてください。ただのパーティーの招待状でしょう? そんなに凄い人が来るんですか?」


「ただのパーティーだと……? 貴哉、お前、この『御堂筋』というお名前と、この面子を見てみろ……!」


震える手で差し出された招待状を覗き込んだ貴哉は、数秒後。


「ブッ……!! ゲホッ、ゴホッ!?」


見事にコーヒーを吹き出し、激しくむせ返った。


「な、なんですかこれ!? 総理大臣の名前まであるじゃないですか! こ、これ、テレビのニュースで見る『歴史的会談』の裏側そのものですよ!」


「そうだ! 国家の予算や、国際的な巨大ビジネスの利権が、グラス片手の立ち話で決まる『雲の上のさらに上の世界』だ! 我々のような一介の企業グループが、本来足を踏み入れられる場所ではないんだぞ!」


父は頭を抱え、ダイニングをウロウロと歩き回り始めた。


「……ひ、ひぃ、ふ、ふぅ。落ち着け、私。落ち着くんだ。……招待状には『雅由美様、および同伴者二名まで』とある。……よし」


父は血走った目で立ち止まると、ビシッと貴哉を指差した。


「た、貴哉! お前も来なさい!!」


「ええええっ!? 俺ですか!? む、無理ですよ父さん! 俺なんて、そんな化け物みたいな重鎮たちの前で、粗相でもしたら……!」


「一蓮托生だ! 可愛い妹の顔に泥を塗るわけにはいかんだろうが! それに、これは我が神龍寺グループにとって、首の皮一枚の綱渡りだが、同時に宇宙規模のチャンスでもあるんだ!」


父と兄が、顔を真っ青にしながら絶叫し合っている。

妹の彩美や母は、ポカンと口を開けて、その凄まじい光景を見守っていた。


「と、とりあえず準備だ! おい、誰かいるか!」


父の大声に、初老の執事が飛んでくる。


「すぐに、銀座の最高級テーラーを呼べ! 私と貴哉の燕尾服を徹夜で仕立て直させるんだ! それから、今日の午後の会議は全てキャンセル! 国際プロトコルのマナー講師を、今すぐこの屋敷に手配しろ!」


「かしこまりました、旦那様!」


「ああっ、俺の靴も磨き直させないと! いや、新しいのを買ってくるべきか!?」


神龍寺家の静かな朝は、一瞬にして、戦場のような大パニックへと変貌を遂げた。

使用人たちが血相を変えて走り回り、父と兄が悲鳴を上げながら準備に追われる中。


「……ふふっ」


雅由美は、そのドタバタ劇から一人だけ完全に切り離されたかのように、春風に揺れる庭の木々を眺めながら、極上のダージリンティーを優雅に啜っていた。


「皆様、朝からとてもお元気ですわね。……今年の春は、とても楽しい季節になりそうですわ」


政財界のドンを手玉に取り、国家の裏で糸を引く「無敵の令嬢」。

その底知れぬ大物ぶりと、何も知らない家族の微笑ましい混乱の対比が、春暁のダイニングルームに、なんとも滑稽で愛らしい情景を描き出していた。




五月晴れの夜。

都内随一の格式を誇る、迎賓館にも匹敵する超高級ホテルの大宴会場は、天井から降り注ぐ巨大なバカラ製シャンデリアの眩い光と、会場を埋め尽くすように飾られた何百本もの胡蝶蘭の甘い香りに包まれていた。

フロアに響くのは、ウィーンから招聘された一流の弦楽四重奏団による優雅な調べ。そして、日本のみならず世界を動かす政財界のトップたちの、静かで重みのある歓談の声である。


「……ひ、ふぅ。ひ、ふぅ」


「と、父さん。右足と右手が、完全に同時に出ています……」


会場の入り口付近で、神龍寺家の当主である父と、次期社長の兄・貴哉が、揃いも揃って「ブリキのロボット」と化していた。

最高級の英国製生地で徹夜で仕立て直した燕尾服に身を包んではいるものの、周囲を歩く顔ぶれ――ニュースで毎日見る現役の閣僚、世界的企業のCEO、さらには他国の王族らしき姿――のあまりの威圧感に、関節の油が切れたようにギクシャクと動いている。


「皆様、そんなに緊張なさらないで。ただの少し大きなお食事会ですわよ?」


呼吸すら忘れかけている二人のロボットを振り返り、雅由美はふわりと、春の陽だまりのように微笑んだ。

今日、彼女が身に纏っているのは、祖母がこの日のために蔵から出し、最高の職人に手入れをさせたという、一点物の最高級西陣織の総織振袖であった。

深い漆黒の絹地に、金糸と銀糸、そして鮮やかな色彩で、絢爛豪華な御所車と四季の草花が立体的に織り込まれている。それは単なる着物ではなく、動くたびに光を反射して眩いばかりの輝きを放つ、歩く国宝のような芸術品であった。

帯もまた西陣織の最高峰である丸帯。少し癖のある鳶色の髪は和服に合わせて艶やかに結い上げられ、そこに挿された一点物の本鼈甲べっこうの簪には、見事な桜の細工が施されており、雅由美の圧倒的な気品と美貌を極限まで引き立てていた。


「だ、大食事会すぎるだろう……! 雅由美、あそこにいるのは、日銀の総裁と防衛大臣じゃないか……!」


父が白目を剥きかける中、雅由美は全く動じることなく、会場の最奥、最も重厚な空気を纏う一角へと、流れるような足取りで進んでいった。


「ごきげんよう、御堂筋様。本日は素晴らしいお席にお招きいただき、心より感謝申し上げますわ」


上座で重鎮たちに囲まれていた御堂筋翁が、雅由美の姿を認めて破顔した。


「おお、雅由美! よく来てくれた。見事な西陣織だ、お前さんの底知れぬ気品によく似合っておるぞ。……その後ろの、ガチガチに固まった彫像二人は?」


翁が面白そうに目を細めると、雅由美はクスリと笑って父と兄を促した。


「こちらは、私の父と、兄の貴哉ですわ。少々、この素晴らしい雰囲気に圧倒されているようで」


「は、はははは初めまして!! 神龍寺グループ代表の……!!」


父と兄が、直角九十度の美しいお辞儀を繰り出す。

御堂筋翁は「かっかっかっ! 七代目の息子と孫とは思えんほど、真面目で表の顔に相応しい男たちだな」と上機嫌に頷き、二人に労いの言葉をかけた。

裏政界のドンに直接言葉をかけられ、少しだけ緊張がほぐれた父と兄は、「私どもは、同業の諸先輩方にご挨拶をしてまいります。……失礼してよろしいでしょうかっ!」と、震える足で会場の別の輪へと向かっていった。


「さて、雅由美。お前さんは、あちらの『大使連中』に挨拶をしてきなさい。皆、日本の若き龍に会いたがっておったぞ」


翁に促され、雅由美は各国の駐日大使が集まるエリアへと優雅に足を運んだ。


「おや、あなたが神龍寺雅由美お嬢様ですね。お会いできて光栄です」


真っ先に近づいてきたのは、フランス大使であった。彼は周囲を憚るように少し声を落とし、深く、恭しく頭を下げた。


「先日の『不届きな自国民』の件……我が国を代表し、丁寧にお詫び申し上げます。あなたの大切なご友人の御尊父が営む貿易会社を、我が国のマフィアどもが密輸の隠れ蓑にしようとしたなどと……。本国の外務省も、恥ずかしさのあまり頭を抱えておりました」


「まあ。もう済んだことですわ。大使がお気になさることはありませんのよ」


雅由美は、シャンパングラスを片手に涼やかな笑顔で返した。


「それに、セーヌ川の底はとても冷たいと聞きますから。あの不作法な方々も、今頃は少し頭が冷えて、良い反省の時間を過ごしていらっしゃるでしょうし」


「……っ! ハ、ハハハ……その通りでございますね。ええ、完全に沈黙していると報告を受けております」


令嬢の微笑みの奥に潜む、極道のトップとしての背筋が凍るようなブラックユーモアに、フランス大使はハンカチで額の冷や汗を拭った。


「雅由美さん! お噂はかねがね」


続いて現れたイタリア大使は、陽気な笑顔で雅由美を歓迎した。


「本国の『ヴィンチェンツォ氏』から、あなたへ労いの言葉を預かっておりますよ。『五月には、美しい桜の国へ妻と共に遊びに行く。最高のワインを開けよう』とのことです。我々大使館も、全面協力する所存です」


「ふふっ、ヴィンチェンツォ様が? それはとても楽しみですわ。お迎えの準備を整えておかなければなりませんね」


さらに、アメリカ大使とイギリス大使も加わり、雅由美を絶賛し始めた。


「今度、我々の大使館で開く内輪のパーティーにぜひ来てくれないか。君のような聡明なレディなら、いつでも大歓迎だ。紅茶に毒は入れないから安心してくれたまえ」


英国大使の洒落の効いたジョークに、雅由美は扇子を口元に当ててクスリと笑った。


「お誘いありがとうございます。ですが、もし毒が入っておりましたら、私の後ろにいる屈強な『お味見役』たちが、大使館を少しばかりリフォームしてしまうかもしれませんわ。……よろしいのかしら?」


「ワオ! それは遠慮しておこう。日本の建築費用は高いからね!」


米国大使が肩をすくめて大笑いする。雅由美が持っていた美しい和柄の巾着袋には、あっという間に各国大使のプラチナカードのような名刺が束になって収まっていった。もちろん、雅由美も自身のプライベートナンバーが記された名刺を優雅に手渡す。



やがて、会食の時間となり、参加者たちは広大なダイニングテーブルへと案内された。

しかし、指定された席に着いた父と兄は、再び完全なフリーズ状態に陥ることとなった。


雅由美を中央にし、その両脇に父と兄が座る。ここまでは良い。

だが、雅由美の真正面には、御堂筋翁。

父の真正面には、現役の『内閣総理大臣』。

そして兄の真正面には、日本経済のトップである『経団連会長』が鎮座していたのだ。


(た、助けてくれ……!! 胃に穴が空くどころか、消滅する……!!)

(帰りたい……今すぐ俺を会社のデスクに戻してくれ……っ)


運ばれてきた最高級の伊勢海老の活け造りや、口の中でとろける松阪牛のシャトーブリアンの炭火焼きといった超一流の懐石料理も、父と兄にとっては「無味無臭の消しゴム」を噛んでいるようにしか感じられなかった。


「神龍寺さんのところは、最近ますます業績を伸ばしているようだね。素晴らしい手腕だ」


「はっ! ひぃっ! お、おかげさまで……! 総理の素晴らしい経済政策の賜物でございます……!」


総理や会長から話を振られるたびに、父と兄は寿命をすり減らしながら、受け答えをするのが精一杯である。


その地獄のような緊張感の中、ただ一人、雅由美だけが春風のようなペースを保っていた。


「最近の若者は政治に無関心だとよく言われるが、雅由美嬢はどう思うかね?」


総理がワイングラスを回しながら尋ねると、雅由美は小首を傾げて微笑んだ。


「無関心なのではなく、見えないふりをして差し上げているだけですわ、総理。あまり直視すると、色々と埃や粗が見えてしまって……つい、徹底的にお掃除したくなってしまいますから。この前の黒部代議士のように」


ピタリ、と総理の手が止まる。

先月、黒部代議士を完膚なきまでに社会から抹殺した黒幕が目の前の少女であることを、このテーブルにいる者は全員知っているのだ。


「……かっかっかっ! あーっはっはっは!」


数秒の沈黙の後、御堂筋翁が腹を抱えて吹き出し、釣られるように総理と経団連会長も大声で笑い始めた。


「こりゃあ一本取られた! いやはや、全くもってその通りだ。我々も、お嬢さんに『お掃除』されないように、身の回りを綺麗にしておかなければならんな!」


「雅由美嬢、君は本当に面白い。うちの役員会議にも出て、少し活を入れてもらいたいくらいだ。古い頭の爺さんどもは、君のその天然の猛毒でイチコロだろう」


経団連会長も、目尻を下げて涙を拭っている。

雅由美は、並み居る猛者たちを相手に全く物怖じせず、完璧な国際マナーと教養をベースにしながらも、時折見せる天然なブラックユーモアと鋭い洞察力で、大物たちの心を完全に鷲掴みにしていた。


「もう、皆様ったら。私はただの、少しお掃除が好きなだけの学生ですわ」


大物たちが腹を抱えて笑うたび、父と兄は「うちの娘(妹)は、一体いつから国家のトップを脅迫まがいのジョークで大爆笑させる化け物になったんだ……?」と、泣き笑いのような表情でただ小刻みに震えるしかなかった。


会食の終盤。

総理と経団連会長は、それぞれ懐から特別な名刺を取り出し、父や兄ではなく、雅由美へと直接手渡した。


「雅由美嬢。これは私のプライベートダイヤルだ。何か困ったことや、若者の率直な……そして手痛い意見を聞かせたくなったら、いつでも連絡をくれ」


「私のも受け取ってくれないか。君のお父上や兄君のビジネスにも、これから大いに期待しているからね」


「まあ。ありがとうございます、総理、会長様。私のも、お受け取りくださいませ」


雅由美が渡した名刺の裏にも、彼女の美しい手書きでプライベートナンバーが記されている。


こうして、神龍寺家の男たちにとっては寿命が二十年は縮むような、しかし雅由美にとっては「とても楽しいブラックユーモアの交歓会」であった極秘レセプションは、滞りなく、そして大盛況のうちに幕を閉じた。



帰りのハイヤーの中。

完全に疲労困憊し、真っ白な灰のように座席に沈み込む父と兄を横目に。

雅由美は、各国大使や総理大臣の名刺でパンパンに膨れ上がった巾着袋を膝に乗せ、窓の外の東京タワーを眺めながら、天然な笑顔でふわりと微笑んだ。


「皆様、とっても気さくで良い方たちばかりでしたわね。お料理も、松阪牛がとても美味しくて大満足ですわ」


「……あ、ああ。雅由美が楽しかったなら……父さんは、もう思い残すことはない……ガクッ」


「俺も……明日から山に籠もって出家したい……」


気絶するように眠りに落ちた父と兄にそっとブランケットを掛けながら。

雅由美は、簪の桜を微かに揺らし、次なる表と裏の盤上へと思いを馳せるのであった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ