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第二十章



二月下旬。

東京の夜を包む空気はまだ凍てつくように冷たく、

しかしその鋭い寒気の中に、ふわりと微かな春の気配が混じり始めていた。

都心の喧騒から完全に隔離された、高い黒塀に囲まれた静寂の空間。

そこは、総理大臣や財界のトップのみが足を踏み入れることを許される、

完全紹介制にして予約不可の超高級料亭『山月さんげつ』である。


石畳の敷かれた門前には、ハイヤーが静かに滑り込み、

黒服の男たちが一切の物音を立てずに車のドアを開けた。


「……冷えるな。風邪を引かんようにしろ、雅由美」


重厚な和装に身を包み、威風堂々たる風格を漂わせる白髪の老翁。

龍神連合会の七代目会頭であり、雅由美の祖父が、

夜闇に響くような深く渋い声で、孫娘へと声をかけた。


「お気遣いありがとうございます、お祖父様。ですが、心配には及びませんわ」


ハイヤーから降り立った雅由美は、凛とした声で応じ、優雅に微笑んだ。

今日、彼女が身に纏っているのは、漆黒の正絹に、

月光に浮かび上がるような白梅が見事に描かれた、格調高い訪問着であった。

帯は鈍く輝く銀糸の袋帯で、鳶色の髪は美しく結い上げられ、

一輪の白梅を模した鼈甲べっこうの簪が挿されている。


「七代目。そして、八代目。お待ち申し上げておりました」


出迎えた老舗料亭の女将や仲居たちが、一斉に深々と三指をついた。

彼女たちは政財界の大物を見慣れているはずだが、

雅由美の放つ、息を呑むような完璧な美しさと、

その奥に秘められた絶対的な「会頭」としての凄みに、

一瞬、微かに肩を震わせたのを雅由美は見逃さなかった。


「……行くぞ」


「はい、お祖父様」


香が焚き染められた静謐な廊下を、音も立てずに進む。

通されたのは、庭の白梅がライトアップされて美しく浮かび上がる、

最も奥まった特別室であった。


「おお、七代目。随分と待たせたじゃないか。……そして、そちらが」


上座にどっしりと腰を下ろしていたのは、

和装に羽織を着流した、一見するとただの好々爺のような老人だった。

しかし、その細められた目の奥には、底知れぬ狡猾さと、

国家を裏から動かす者特有の、血の匂いすら漂う圧倒的な権威が宿っている。

彼こそが、政財界の裏で糸を引く「裏政財界のドン」、

祖父の長年の盟友でもある、御堂筋みどうすじ翁であった。


「……紹介しよう、御堂筋。我が孫娘であり、龍神連合会八代目を継いだ雅由美だ」


「お初にお目にかかります、御堂筋様。神龍寺雅由美と申します」


雅由美は、寸分の狂いもない美しい所作で正座をし、深く頭を下げた。


「ほう……。なるほど、これは驚いた」


御堂筋翁は、持っていた扇子で手のひらをポンと叩き、

感嘆の息を漏らした。


「七代目が、まだ学生の小娘に跡目を継がせたと聞いた時は、

老いぼれて血迷ったかと思ったが……撤回せねばならんな。

その若さで、これほどの胆力と『龍』の気迫を纏っておるとは」


「お褒めにあずかり、光栄に存じますわ」


雅由美がふわりと微笑んで顔を上げると、

御堂筋翁は探るような、鋭い視線を彼女の鳶色の瞳に向けた。


「……先月、お前さんがとんでもない大立ち回りを演じたという噂は、

私の耳にも届いておるぞ。

欧州の老獅子、ヴィンチェンツォ。そして香港の古龍、王龍。

あの化け物どもと渡り合い、強固な『世界三大同盟』を築き上げたそうだな」


翁の言葉に、祖父が満足げに目を細めて杯を傾ける。


「日本の極道が、海を越えて世界を動かす。

歴代の会頭でも成し得なかった偉業を、この若き令嬢がやってのけたのだ。

私は、お前さんのその圧倒的な器量と手腕を、高く評価しておる」


「もったいないお言葉です。……ですが、あれは偶然の賜物。

大切な親友の涙を拭うために動いた結果、素晴らしいご縁に恵まれただけですわ」


「ふん、謙遜は無用だ。運も実力のうちよ」


御堂筋翁は、仲居に注がれた熱燗をきゅっと飲み干し、

ニヤリと、まるで老獪な狸のような笑みを浮かべた。


「……どうだ、雅由美。

日本の裏社会をまとめ上げ、世界と渡り合う若き龍よ。

お前になら、この私が、政界からの全面的な支援を約束してやろう」


「……政界からの、ご支援ですか」


雅由美の鳶色の瞳が、極わずかに光を帯びる。


「そうだ。龍神連合会のシマは、警察も政治家も一切手出しさせん。

さらに、お前の父親の表のビジネス……あの貿易や不動産などの企業群も、

国を挙げて、法的なバックアップと有利な利権を回してやろう」


それは、裏社会の組織にとっても、表の企業にとっても、

想像を絶するほどの破格の提案であった。

国家権力そのものを後ろ盾にするということだ。

祖父も黙って、孫娘がこの提案にどう応えるかを見守っている。


「……身に余る光栄なお話、心より感謝申し上げますわ」


雅由美は、白梅の模様が美しい袖を僅かに直し、

冷たく冴え渡る冬の夜空のような声で、静かに言葉を返した。


「ですが、御堂筋様。

国家の裏を統べるあなたが、見返りもなしにそのような甘い蜜を

お与えになるとは、到底思えません。

……私に、何を望まれますの?」


その言葉に、御堂筋翁は数秒だけ目を丸くし、

やがて、腹の底から響くような声で低く笑い始めた。


「……くっくっく。見事だ、本当に見事な小娘だ。

甘い餌に無闇に飛びつかず、裏にある毒を見抜くその冷静さ」


翁の顔から笑みが消え、底知れぬ暗闇のような威圧感が部屋を包み込む。

庭の梅の香りが、一瞬、血の匂いのように濃く感じられた。


「……そうだ。支援の代償として、お前には『三つの条件』を飲んでもらおう」


「……三つの条件、でございますか」


雅由美は、膝の上でそっと両手を重ねたまま、静かに問い返した。


「そうだ。一つ。お前が築いた『世界三大同盟』の強大な国際情報網を、

我が国の諜報機関と一部共有すること。

二つ。私が目をかけている、次代を担う若き改革派政治家がおる。

その男の『裏の護衛』を、龍神の力で請け負うことだ」


ここまでは、極道の組織として、そして同盟の長として、

十分に許容できる範囲の要求であった。

しかし、御堂筋翁の老獪な瞳が、蛇のように細められたのは次だった。


「そして三つ。……私の長年の政敵であり、国を腐らせている汚職政治家を、

お前たちの手で『物理的に排除』することだ。

……暗殺しろ、ということだよ。日本の未来のためにね」


ぴたり、と。

特別室の空気が、文字通り凍りついた。

庭で揺れる白梅の影が、障子に不気味な模様を描き出している。

傍らで杯を傾けていた祖父も、その手からピタリと動きを止め、

固唾を呑んで孫娘の横顔を見守っていた。


雅由美の脳裏で、高速の思考が駆け巡る。


(情報網の共有と、若き政治家の護衛。これは問題ありませんわ。

ですが……三つ目の条件。無闇に血を流すことは、私の美学に反します)


力とは、善良な世界を守るためにこそ使うべきもの。

政治の泥沼の権力闘争のために、自らの手を血で染めるなど、

「完璧な令嬢」としての誇りが、そして「会頭」としての矜持が許さない。

だが、ここで単に拒絶すれば、政界からの絶大な支援を失うだけでなく、

裏政界のドンを敵に回すことになる。


数秒の、しかし永遠にも似た重い沈黙の後。


雅由美は、帯に差していた美しい扇子を静かに畳の上に置き、

極上の、息を呑むほどに艶やかな微笑みを浮かべた。


「……御堂筋様。一つ目と二つ目の条件、喜んでお受けいたしますわ。

そして三つ目の『排除』の件につきましても、承知いたしました」


「ほう。……良いのか? 若い娘が、血の匂いを背負うことになるぞ」


「ええ。ですが、翁」


雅由美は、伏せていた鳶色の瞳をすっと上げ、

老獪な権力者を真っ直ぐに射抜いた。


「私のこの扇子を、三流の汚職政治家の血などで汚すのは、少々惜しいのです。

ですから……『物理的な排除』という野蛮な真似はいたしません」


「……何だと?」


御堂筋翁の眉がピクリと動く。雅由美は一切怯むことなく言葉を紡いだ。


「私が持つ世界的な情報網と、圧倒的な資金力。

それらを全て駆使して、相手の決定的な汚職の証拠、裏金の流れ、

隠されたスキャンダルの全てを完全に洗い出します。

そして、法とマスメディア、世論の力をもって……

その方を、『社会的・政治的に完全に抹殺』いたしますわ」


雅由美の冷徹で、あまりにも洗練された提案に、

御堂筋翁は一瞬、言葉を失ったように目を見開いた。


「……命を奪えば、相手は悲劇の殉教者になりかねません。

ですが、社会的に破滅させれば、二度と政治の表舞台には立てない。

その方が、翁の手も一切汚れず、より確実で美しい『お掃除』となりましょう?」


暴力という短絡的な手段に頼らず、知力と権力をもって、

より完全な破滅をもたらすという、悪魔のように優雅な落とし処。

それは、血で血を洗う時代を生きてきた老翁の想像を、遥かに超えていた。


「……」


深い沈黙の後。

御堂筋翁の肩が小刻みに震え始め、やがてそれは、

腹の底から湧き上がるような、大音量の歓喜の笑い声へと変わった。


「かっかっかっ! あーっはっはっはっ!!」


翁は膝を叩き、涙を浮かべて笑い転げた。


「見事だ! 見事すぎるぞ、雅由美!

ただの暴力団の組長なら、二つ返事で鉄砲玉を飛ばすところを……!

より残酷で、より完璧な盤面を提案してくるとはな!」


翁は笑いおさめると、盃に残った酒を豪快に飲み干し、

祖父へと向き直った。


「……先代。とんでもない孫娘を育てたな。

この国の裏表は、いずれこの娘の掌の上で転がることになるぞ。

……雅由美。お前を大いに気に入った。私からの全面支援、約束しよう」


「ありがとうございます、御堂筋様。……今後とも、よしなに」


雅由美が三指をついて優雅に微笑むと、

老獪な狸と、若き美しき龍の間に、国を揺るがす強固な契約が結ばれた。



数時間後。

密談を終え、料亭『山月』の黒塀の外へと出た二人は、

冷たい冬の夜風と、清らかな月明かりの下にいた。


「……お疲れ様でした、お祖父様」


ハイヤーに乗り込む前、雅由美が労いの言葉をかけると、

祖父は夜空を見上げ、深く、満ち足りたようなため息をついた。


「……見事な采配だった、雅由美。

暴力に頼らず、知恵と矜持で老狸をねじ伏せおったな。

お前を八代目に選んで……本当に、良かったと心から思うよ」


厳格な祖父の口から出た、初めての、そして最大級の賛辞。

雅由美は小さく目を瞠り、やがて、花がほころぶように優しく微笑んだ。


「お祖父様が遺してくださったこの大切な『龍神』の名を、

私は決して、血の泥で汚すようなことはいたしませんわ。

……これからも、私を導いてくださいませ」


月明かりが、白梅の訪問着を美しく照らし出している。

日本の極道、世界のマフィア、そしてついに国家の政財界。

盤上はさらに広く、複雑になろうとも。

完璧な令嬢にして、無敵の会頭である彼女の優雅な舞は、

梅の香る夜空の下、どこまでも美しく、気高く続いていくのだった。




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