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第二章



一夜明け、土曜日。

雲一つない冬晴れの空から、柔らかな陽光が降り注いでいる。

祖父母と和やかな昼食を済ませた雅由美は、迎えの車に乗り込み、屋敷を後にした。

昨日と同じ、黒塗りの高級セダンである。

帰路につく車内には、運転席で寡黙に前方を見据える組員の男と、

後部座席に並んで座る護衛の竜也、そして雅由美の三人がいた。


窓の外では、土曜日の午後の穏やかな街並みが流れていく。

暖かな車内で、雅由美は膝の上に置いた鞄の縁を、長い指先でゆっくりとなぞっていた。

何かを躊躇うような、静かな沈黙が続く。

言うべきか、言わざるべきか。いや、後戻りはできない。

やがて、彼女はふっと息を吸い込み、隣に座る竜也へと顔を向けた。


「あの、ねえ。……日本一と謳われる彫師の方に、連絡を取ってくださる?」


絵画や美術品の話かと勘違いした竜也は、少し首を傾げた。


「彫師、ですか? また渋い趣味ですね。仏像か何かで?」


「……いいえ」


雅由美は窓辺に視線を戻し、冬の陽だまりを見つめながら涼しい顔で告げる。

その声は、春の風のように穏やかで、しかし鋼のように冷たかった。


「私の背中から腰の深い位置にかけて……」


「……はい?」


「日光を浴びて天を目指す昇り龍を、彫っていただきます」


「……え?」


「卒業式までに完成させなければなりません。一月で仕上げるよう、手配をお願い」


数秒の空白の後、竜也の悲鳴のような声が車内に響き渡った。


「いや、いやいやいや! お嬢!? 東大に入るお嬢の綺麗な背中に、何を!?」


運転席の組員も驚きで肩をビクッと跳ねさせ、ルームミラー越しに目を剥いている。


「痛いのは承知の上ですわ。けれど、時間がないの」


「そういう問題じゃありません! 会頭が知ったら、俺たち全員消されますよ!」


「お祖父様には、完成するまで内緒です。私の、個人的な我儘ですから」


「我儘のスケールが違いますって! 考え直してください、お嬢!」


パニックに陥り頭を抱える竜也をよそに、雅由美の表情は凪いだ水面のように穏やかだった。

窓の外を流れる冬の柔らかな光が、彼女の白磁のような横顔を静かに照らし出していた。

振り返ることは、もうない。



その日の夕方。

逢魔が時の下町は、オレンジ色の夕陽に赤く染まっていた。

竜也の必死の説得も虚しく、雅由美は古い日本家屋の前に立っていた。

「伝説」と謳われる彫師の工房である。

引き戸を開けると、薄暗い室内には独特の墨の匂いと古い木の香りが漂っていた。


「……お嬢ちゃん。遊び半分なら帰んな。ここは見世物小屋じゃねえ」


胡座をかいて煙草を吹かしていた白髪の彫師は、冷ややかな視線を向けた。

その言葉に、竜也がほっとしたように息を吐き、雅由美を制しようとする。


「お嬢、お聞きになりましたか。やはりこんな真似は……」


「……」


雅由美は竜也の言葉を静かに手で制止し、一歩、板間の奥へと足を踏み入れた。

冬の冷たい空気が流れ込む板間で、彼女は微かな躊躇いさえも見せず、

纏っていた上質なコートをゆっくりと脱ぎ捨てる。


「お、お嬢……!?」


竜也が息を呑むより早く、雅由美は制服のリボンを解き、

ブラウスのボタンを一つ、また一つと外していく。

薄暗い工房の中に、衣擦れの音だけが響く。

やがて、ハッとするほど美しい、傷一つない白磁の背中があらわになった。

夕闇が迫る室内で、彼女の無垢な肌は発光しているかのように白い。


「私の覚悟は、この肌に刻んで証明いたします」


鳶色の瞳が、真っ直ぐに彫師を射抜く。

そこにあるのは、決して揺るがない圧倒的な気迫と、

血の雨を止めるという悲壮なまでの決意だった。

彫師はゆっくりと煙管を置き、深く息を吐き出した。


「……一月で仕上げるたぁ、正気の沙汰じゃねえ。地獄の痛みだぜ」


「望むところですわ」


「……ふっ。いい面構えだ。その背中、俺に預けな」


それから数日後。

雅由美の背中には、昨夜彫り進められたばかりの昇り龍の筋彫りが、

焼けるような熱と激痛を放っていた。

高熱で視界が揺れるほどの苦痛。

しかし、完璧な令嬢である彼女は、学校では一切の不調を表に出さなかった。


放課後。

冬の枯木立が並ぶ大通りを、雅由美は竜也と共に歩いていた。

彼女の足取りは普段通り優雅で、表情には一切の苦痛を感じさせない。

竜也だけが、彼女の体調を案じて常に胃を痛める日々を送っていた。


「お嬢……お顔の色が優れません。やはり今日は、お車で……」


「平気よ、竜也さん。少し外の風に当たりたい気分なの」


強がる彼女の横顔に、竜也が深くため息をついた、その時だった。


「お姉様! 竜也お兄様!」


背後から、明るく弾んだ声が響く。

振り返ると、華やかな装いの女性が小走りで駆け寄ってくるところだった。

大幹部の娘であり、雅由美を実の姉のように慕う大宮茉莉恵である。

十七歳という年齢ながら、どこか無邪気で危なっかしい魅力を持つ彼女は、

嬉しそうに微笑んだ。


「あら、茉莉恵さん。ごきげんよう。奇遇ね」


「ふふっ、お二人でお買い物ですか? 私もご一緒していいですか?」


「ええ、もちろんよ。これから新しいお紅茶を見に行こうかと……」


三人が並んで歩き出した矢先だった。

路地裏から、ガラの悪い数人の男たちがニヤニヤと笑いながら現れた。

彼らの目は、華やかな茉莉恵の姿に下品な光を宿している。


「おいおい、姉ちゃん。俺たちと少し遊ばねえ?」


「え……? ちょっと、離してください!」


男の一人が、茉莉恵の細い腕を強引に掴む。

怯える茉莉恵を見て、竜也が舌打ちをし、上着の内側に手を入れる。

裏の人間として、穏便かつ確実に制圧しようとした瞬間だった。

それより早く、白い影がふわりと動いた。雅由美だ。


「……レディに対する無礼は、見過ごせませんわね」


静かな怒りを孕んだ、凛とした声。

背中に激痛を抱えながらも、雅由美の動きは淀みなく流麗だった。

手にした革製の鞄を盾にして男の視界を塞ぎ、腕を絡め取ると、

合気道の見事な体捌きで、流れるように男をアスファルトへと這わせる。


「い、いててて! なんだこの女!」


痛みを感じさせない、まるで舞うような美しい制圧劇だった。

残りの男たちも、雅由美の圧倒的な気迫と隙のない構えにたじろぐ。

彼らは、雅由美の後ろで冷や汗を流している竜也を見て、叫んだ。


「お、俺たちが手を出したのは、お前のカノジョかよ! 悪かったな!」


勘違いした男たちが、慌てて逃げ出そうとする。


「違います! 俺はお嬢の護衛で……!」


竜也が必死に否定するが、雅由美は天然な笑顔で小さく首を傾げた。


「あら、私たち、そんなにお似合いのカップルに見えたのかしら?」


「えーっ! お姉さま、いつの間に竜也お兄様とそんな関係に!?」


目を輝かせる茉莉恵に、竜也は頭を抱え込んだ。


「違うって言ってんだろ、茉莉恵! お嬢も変な冗談はやめてください!」


絶妙に噛み合わない三人のやり取りが、冬の夕暮れに響く。

しかし、逃げ出していった男たちの足跡を見つめる雅由美の鳶色の瞳は、

鋭く冷たい光を放っていた。

男たちが落としていった煙草の箱には、

龍神連合会の対立幹部が使う、特有の紋様が刻まれていたのだ。


「お祖父様の庭で、身内が泥を塗るような真似をしているのですね」


雅由美は、ふっと冷たく、けれど最高に美しい微笑みを浮かべた。


「……ならば、私が正しますわ」


背中の龍が、熱を帯びて咆哮を上げている気がした。




原案100%筆者。

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