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第一章



二月の底冷えする風が、首筋をすっと撫でていく。

金曜日の夕刻。茶道と華道の稽古場が入る静謐な建物から外へ出ると、

街は週末特有の解放感と喧騒に包まれていた。神龍寺雅由美(ミヤユミ)は、

少し癖のある鳶色のロングレイヤーヘアを風から守るようにそっと押さえ、

耳元のスマートフォンに静かな声を落とした。


「お母様。……ええ、お茶とお花の稽古、たった今終わりましたわ」


「はい。これからお祖父様のお屋敷へ向かいます。本日は泊まりますね」


「お父様にもよろしくお伝えくださいませ」


「ええ、ご心配なく。お迎えの方も来てくださっていますから。それでは」


通話を終え、艶やかな端末を鞄に仕舞う。

鳶色の瞳を伏せ、一つだけ静かに息を吐いた。

容姿端麗と周囲から持て囃される美貌には、一切の驕りがない。

質実剛健を重んじ、自分に厳しく他者に優しく。

それが彼女の矜持だった。背筋を伸ばし、凛とした立ち姿で待つ彼女の視線の先には、

街の景色から切り離されたような重厚な黒塗りの高級車が、

エンジン音さえ立てずに停まっていた。


後部座席のドアの傍らに立つのは、仕立ての良いダークスーツに身を包んだ二人の屈強な男たちだ。

そのうちの一人は、幼い頃から雅由美の護衛を務め、親戚の兄のように慕っている幹部組員の男だった。

周囲へ鋭い警戒の視線を走らせていた彼は、雅由美の姿を認めると、ふっと口元を和らげた。


「お嬢、お疲れ様です。お車へどうぞ」


「ありがとう。……今日も冷えますわね」


「ええ。ですが、車内は暖かくしてあります。どうぞ中へ」


「いつも気を配っていただいて、感謝しますわ」


雅由美が足取りも軽く車内へと乗り込むと、分厚いドアが重い音を立てて閉められた。

外界の喧騒がふっと遠のき、高級な革の匂いと深い静寂が車内を満たす。

車が静かに発進し、窓の外を流れる夕暮れの街並みを、雅由美は静かに見つめていた。


「お茶のお稽古は、いかがでしたか?」


「ええ、とても有意義でしたわ。春に向けてのお道具組みを学びましたの」


「お嬢が点てたお茶なら、さぞ美味いんでしょうね」


「ふふ、お世辞が上手になりましたこと。今度、一服お持ちしますわ」


彼女が向かう先は、都内でも有数の高級住宅街の奥深くに鎮座する、

広大な敷地を誇る邸宅である。高くそびえる白壁の堅牢な塀に囲まれたその場所は、

全国の裏社会を束ねる「龍神連合会」の会頭、神龍寺虎一朗の自宅だった。


堅牢な鋼鉄製の門扉に黒塗りのセダンが近づくと、重低音を響かせて

車幅ぎりぎりの絶妙な間隔で門が音もなく開く。

車が敷地内へ入り、玄関前に滑り込むように停車する。

出迎えるダークスーツの男たちの列を、雅由美は挨拶もそこそこに通り抜け、

磨き上げられた廊下を静かに進む。

屋敷の奥へ行くにつれ、微かな薬の匂いと沈香の香りが混ざり合う。

退院して自宅療養に入ったという祖父の体調が、雅由美は気がかりだった。


静寂に包まれた廊下を進み、祖父の寝室へと向かう。

庭の枯山水に落ちる夕影が、障子越しに部屋を薄暗く染めている。

襖を開けると、傍らには優しく見守る祖母の姿があった。

雅由美はいつもの穏やかな孫娘として、自ら慣れた手つきで茶を点てる。

茶道師範代級の淀みない美しい所作が、静かな部屋に心地よいリズムを刻む。

和やかな空気が流れる中、湯呑みを受け取った祖父が、静かに口を開いた。


「雅由美。……お前には話しておこう。実は……わしの命は、長く見積もってあと二年だ」


突然の余命宣告。

最愛の祖父の言葉に、雅由美の時間は止まったかのように感じられた。

点てたばかりの茶の香りが、ひどく遠くに思える。

しかし、祖母の静かな眼差しと、祖父の穏やかな顔を見て、

雅由美は持ち前の質実剛健さで己の感情を統制した。

悲しみを胸の奥底に厳重に封じ込め、わずかに震えそうになる唇を結び、祖父を見つめ返す。


「…………お祖父様」


「心配はいらん。ただ、お前には嘘をつきたくなかった。それだけだ」


祖父の大きく温かい手が、畳の上で力強く握りしめられている。

雅由美は言葉を飲み込み、ただ深く、深く一礼をした。


祖父との面会を終え、一度部屋を辞した雅由美は、

祖母に頼まれた用事を済ませてから、再び寝室へと向かう廊下を歩いていた。

襖へ手を掛けようとした直前、中から低く押し殺したような男たちの声が漏れ聞こえる。

いつもは威風堂々たる大幹部たちが、ひどく狼狽し、焦燥に駆られている。

そのただならぬ気配に、雅由美は息を潜めた。


「会頭が倒れられれば、跡目争いで必ず血の雨が降る」


「ああ、分かっている。だが誰が跡目を継ぐ? まとまるわけがねえ」


「他の組が黙っちゃいねえ。龍神連合会はバラバラになるぞ」


「このままじゃあ、俺たちの居場所も、会頭の守ってきた代紋も終わりだ」


祖父の愛した組織が崩壊し、内部抗争が起きるという凄惨な響きが、

雅由美の耳にこびりつく。雅由美は声も立てず、ただ静かに佇んでいた。

自分の愛する居場所が、足元から崩れ去ろうとしている。

その事実が、氷のように冷たく彼女の胸を刺した。



しばらくして幹部たちが部屋から退出していくのを物陰でやり過ごし、

雅由美は何事もなかったかのように再び寝室へと入り、祖父の傍らに座る。

彼女は膝の上でそっと両手を握り合わせ、少しだけ伏し目がちに尋ねた。


「お祖父様。……人の上に立ち、皆を束ねるには」


「……ん? どうした、雅由美」


「何が一番、必要なのでしょうか……」


躊躇いを孕んだ問いかけだった。虎一朗は、孫娘の鳶色の瞳の奥に宿る

確かな熱を感じ取った。彼女の真っ直ぐな視線を受け止めながら、

静かに、しかし力強く答える。


「……ふむ。そうさな。それは圧倒的な覚悟であり」


「代紋の重さと痛みを受け入れる、強さだ」


「……圧倒的な、覚悟」


「ああ。誰よりも泥を被り、誰よりも血を流す覚悟がなければ、人は従わん」


その言葉を、雅由美は魂の奥深くへ刻み込んだ。


その後、祖父の部屋で少し遅い夕食が始まった。

割烹仕込みの祖母の豪勢な手料理が並ぶ。雅由美は先ほどの重い空気を

一切感じさせず、極めて明るい調子で学校の出来事や友人の話をした。


「お祖母様、この甘鯛の松笠焼き、本当に絶品ですわ」


「そうかい? 雅由美が来るからって、腕によりをかけたんだよ」


「ええ、もう毎日でもいただきたいくらい。それにこのお吸い物も……」


「お嬢、お代わりならいくらでもありますからね!」


給仕をする気さくな若手女組員の早苗が、おひつを抱えて笑顔を見せる。


「ありがとう、早苗さん。でも、あまり食べ過ぎると制服がきつくなってしまうわ」


「またまたぁ。お嬢はいくら食べても全然太らないじゃないですか」


「そんなことないのよ? これでも色々と気を使っているのですから」


「そういえばお嬢、学校はどうですか? また下駄箱に手紙が山盛りとか?」


早苗のからかうような言葉に、雅由美は少しだけ困ったように微笑んだ。


「もう、早苗さんったら。山盛りだなんて大袈裟ですわ」


「でも、後輩の女の子たちからの人気もすごいって聞いてますよ?」


「ただ、今日のお稽古のあとにね、少し変わったご相談を受けまして……」


「えっ、どんな相談ですか?」


「飼っている猫ちゃんが家出をしてしまって、一緒に探してほしい、と」


「ええっ? お嬢に猫探しを頼んだんですか、その子!」


「ふふ、放課後に少しだけお付き合いしたのだけれど、無事に見つかったわ」


「まったく、雅由美は昔から頼まれると断れない性質だからねえ」


祖母が呆れたように笑い、祖父も目を細めて孫娘の明るい声に耳を傾けている。

部屋には絶えず温かな笑い声が響いていた。

祖父母を安心させるため、悲しさを心の奥底に厳重にしまい込み、

完璧な令嬢にして愛らしい孫娘を演じ切る。誰にも悟られることのない、

彼女だけの孤独な戦いが、この小さな食卓の笑い声の中にあった。



夕餉が終わり、泊まり用の自室に戻った雅由美。

扉を閉め、一人きりになった静寂な部屋で、張り詰めていた糸が少しだけ緩む。

まつ毛を伏せると、限界まで堪えていた一滴の涙が、頬を伝って零れ落ちた。

しかし、彼女はすぐさま両手で自分の頬をパンッと叩き、気合を入れる。


(泣いている暇なんてないわ。私がお祖父様の居場所を守る)


迷いを断ち切った彼女は、入浴の支度をして部屋を出た。

通されたのは、大理石が贅沢に敷き詰められた豪奢な浴室である。

高い天井からは柔らかな間接照明が降り注ぎ、湯船からは豊かな湯気が

白く立ち上っていた。


身を包んでいた衣服を一枚ずつ丁寧に脱ぎ、籠へと綺麗に畳んで収めると、

雅由美は静かに大きな鏡の前に立った。

そこには、傷一つない白磁のような無垢な肌が映し出されていた。

容姿端麗と謳われる彼女の、まだ何の色にも染まっていない純白の背中。

雅由美はその背中を鏡越しに見つめ、静かに息を吸い込んだ。


(圧倒的な覚悟。痛みを受け入れる、強さ……)


静かな水音を立てて、湯船へと身を沈める。

適度な温度の湯が、冷え切っていた体を芯から温めていく。

湯気に包まれながら、雅由美は目を閉じた。

祖父が愛し、守り抜いてきたもの。それを継ぐためには、ただの令嬢のままではいられない。

血の雨が降るというのなら、私がその雨を止めてみせる。


この白く滑らかな背中から、腰の深い位置にかけて。

そこに、決して消えることのない覚悟を刻み込む。

それは想像を絶する痛みを伴うだろう。

東大へ進学する優等生としての、平穏な未来を一部切り捨てる行為でもある。

しかし、雅由美の心に迷いはなかった。湯の温もりに抱かれながら、

彼女は確かな決意と共に、水面の下で強く両手を握りしめた。



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