第十八章
十二月。
色づいていた木々の葉はすっかり落ち、東京の空には
灰色の雪雲が低く垂れ込める季節となった。
しかし、龍神連合会の本邸――その広大な敷地の奥深くにある
百畳敷きの大広間には、冬の寒さを完全に凌駕する、
圧倒的で重厚な熱気が張り詰めていた。
「……お嬢。間もなく、お見えになります」
床の間に背を向け、上座に静かに座る雅由美の傍らで、
竜也が極度の緊張に顔を引き攣らせながら報告した。
今日、この大広間には、関東一円の極道だけでなく、
世界の裏社会の歴史がひっくり返るほどの、超大物が足を踏み入れるのだ。
「ええ。お茶の温度は、丁度良く保たれていますわね」
雅由美は、純白の絹地に、金糸と銀糸で天へ昇る龍が刺繍された、
最高級の豪奢な振袖を身に纏っていた。
完璧な令嬢としての美しさに、極道の会頭としての絶対的な威厳。
その二つが完全に融合した彼女の姿は、息を呑むほどに神々しい。
やがて、静寂を破るように、重厚な襖がゆっくりと開かれた。
「雅由美! 美しい日本の雪景色に負けない、見事な姿だ!」
まず姿を現したのは、豪奢な毛皮のコートを羽織った老紳士。
欧州連盟のトップ、ヴィンチェンツォと、その妻ソフィアである。
客船での一件以来、そして先日のフランス・マフィアの件での共闘を経て、
彼らは雅由美に会うためだけに、極秘裏に日本へ飛んできたのだ。
「ヴィンチェンツォ様、ソフィア様。ようこそ、日本の冬へ。
遠路はるばるお越しいただき、心より歓迎いたしますわ」
雅由美が三指をついて優雅に頭を下げると、ソフィアが嬉しそうに微笑んだ。
「まあ、なんて美しいお辞儀なのかしら。本当に、あなたは特別なお嬢さんね」
しかし、驚くべき客は彼らだけではなかった。
ヴィンチェンツォたちに続き、大柄で屈強な黒服たちを従えて現れたのは、
伝統的な黒の長袍に身を包んだ、白髭の偉丈夫。
香港の巨大シンジケート『九龍会』のドンであり、
美玲の祖父である、王龍その人であった。
「……ほう。この小娘が、美玲が惚れ込んだという、日本の若き龍か」
王龍が、値踏みするように鋭い眼光を雅由美へと向ける。
その身から放たれる気迫は、まさに百戦錬磨の老いた飛龍。
並の極道であれば、視線を合わせられただけで気絶しかねないほどの圧力だ。
だが、雅由美は全く動じることなく、涼やかな微笑みを返した。
「お初にお目にかかります、王龍様。お孫様には、いつも仲良くしていただいておりますの」
「ふん。肝の据わった小娘だ。……美玲から話は聞いている。
上海の件では世話になったそうだな」
世界の裏社会を牛耳る、欧州のドンと、香港のドン。
そして、日本の龍神連合会八代目会頭。
百畳敷きの大広間に、三つの巨大な権力が一堂に会したのである。
周囲を固める竜也や幹部たちは、その歴史的瞬間に立ち会い、
息をするのも忘れるほどの緊張に包まれていた。
「さて、ヴィンチェンツォ様。先日のフランスの件では、
多大なるお力添えをいただき、本当にありがとうございました。
お陰様で、親友の瑞希さんのお父様の会社は、違約金の苦境から完全に脱し、
今では笑顔を取り戻しておりますわ」
「はっはっは! 安い御用だよ、雅由美。
あの小悪党どもは、私の名において欧州の土を踏めないようにしてある。
あなたの大切な親友が救われたなら、私も本望だ」
ヴィンチェンツォが、出された最高級の玉露を味わいながら豪快に笑う。
そのやり取りを静かに聞いていた王龍が、低く重い声で口を開いた。
「……神龍寺の娘よ。欧州の老獅子を動かし、我が九龍会の姫を動かす。
その若さで、己の力を何のために使う。
金か? 権力か? それとも、この裏の世界を力で平らげるためか」
それは、裏社会の頂点に立つ者としての、冷徹な試問であった。
大広間が、水を打ったように静まり返る。
雅由美は、鳶色の瞳を静かに伏せ、そして、真っ直ぐに王龍を見据えた。
「……私の望みは、極めてありふれたものですわ、王龍様。
ただ、私のお庭が平穏であること。
愛する家族と、大切な親友たちの笑顔が、理不尽な悪意に脅かされないこと」
「……」
「その平穏を脅かす不作法な者がいれば、私は容赦なく掃除をいたします。
しかし、そこに義理と人情がある限り、私は誰も傷つけるつもりはありません。
……力とは、大切な者を守り、平和を愛するためにこそ、存在するのですもの」
一切の虚飾のない、凛とした気高い宣言。
それは、血で血を洗う裏社会を生きてきた老ドンたちの心に、
清らかな風のように吹き抜けた。
数秒の静寂の後。
「……かっかっかっ! 見事な答えだ!」
王龍が、腹の底から響くような声で大笑いした。
「義理と人情、そして平和のための力か。
美玲があなたを『最高の盟友』と呼ぶ理由が、よく分かった。
この王龍、あなたのその気高い心意気に、深く敬意を表しよう」
「ええ、私も同感だ。雅由美、あなたは本当に素晴らしい。
……どうだろう。この日本の若き龍を交え、我々で新しい約束を結ばないか?」
ヴィンチェンツォが身を乗り出し、王龍へと視線を向けた。
王龍もまた、鷹揚に頷く。
「……異存はない。神龍寺雅由美。我が九龍会と、欧州連盟。
そして龍神連合会。この三つの組織で、強固な同盟を結ぼうではないか」
歴史が、動いた瞬間であった。
竜也が震える手で、三つの盃を用意し、最高級の日本酒を注ぐ。
上座に並んだ三人のトップが、ゆっくりと盃を持ち上げた。
「……世界に、平穏と秩序を」
「義理と人情に、乾杯を」
「ええ。……私たちの大切な、平和なお庭のために」
三つの盃が交わされ、ここに『世界三大同盟』が正式に締結された。
日本の極道の令嬢が、その圧倒的な器量と気高さをもって、
名実ともに世界の裏社会を統べる「三頭の龍」の一角へと登り詰めたのだ。
数日後。東京大学のキャンパス。
木枯らしが吹く中庭のベンチで、雅由美は温かいココアを手に、
親友の瑞希と穏やかな午後を過ごしていた。
「神龍寺さん。本当に、本当にありがとうございました……っ。
お父さんの会社、匿名の篤志家から信じられない額の寄付があって、
違約金も、相手の会社が突然『全て白紙にする』と連絡してきたんです」
「まあ。それは、本当に奇跡のようなお話ですわね」
「はい! お父さん、泣いて喜んで……。
私、またあの家に住めるんです。神龍寺さんが話を聞いてくださったお陰で、
私に運が向いてきたみたい……!」
瑞希が、分厚い眼鏡の奥で、涙ぐみながらも太陽のような笑顔を見せる。
その笑顔こそが、雅由美にとって何よりも価値のある、最高の報酬であった。
「……ふふっ。神様は、瑞希さんのような頑張り屋さんを、
決して見捨てたりはなさいませんわ。これからも、一緒にたくさん本を読みましょうね」
「はいっ!」
世界の裏社会を揺るがす巨大な同盟を結んだことも、
悪辣なマフィアを一人で制圧したことも、この親友は生涯知ることはないだろう。
冷たい冬の風が、雅由美の鳶色の髪を優しく揺らす。
完璧な令嬢と、極道の会頭。
二つの顔を使い分けながら、彼女の日常は、
どこまでも優しく、そして華麗に続いていくのだった。




