第十七章
十一月。
銀杏並木が黄金色の絨毯をキャンパスに広げ、
冷たい木枯らしが、冬の足音を確実に運んできた頃。
東京大学の歴史ある重厚な図書館内は、
暖房の微かな稼働音と、ページをめくる音だけが響く、
知と静寂の空間であった。
高い天井まで届く本棚の並ぶ奥の閲覧席で、
雅由美は、膝の上に広げたフランス文学の原書から、
静かに鳶色の瞳を上げた。
向かいの席に座る親友の瑞希の様子が、
ここ数日、どうにもおかしかったのだ。
普段であれば、分厚い学術書に目を輝かせて没頭し、
何時間でも読み耽っているはずの彼女が、
今日はもう三十分以上、同じページを開いたままである。
「……はぁ」
分厚い眼鏡の奥の瞳は焦点が合っておらず、
時折、ひどく重く、辛そうなため息を漏らしている。
その白い頬は以前よりも随分と痩せこけ、
目の下には、隠しきれない濃い隈が浮かんでいた。
(……ただの学業の疲れでは、ありませんわね)
雅由美は、音を立てずに本を閉じると、
瑞希の冷えきった細い手に、そっと自分の手を重ねた。
「瑞希さん。……少し、お外の空気を吸いに行きませんこと?」
「えっ……あ、神龍寺さん。ごめんなさい、私……」
「いいえ。温かいお紅茶でもいただきながら、
少しお話をいたしましょう。あなたのそのお顔を見ていると、
私まで悲しくなってしまいますわ」
雅由美の優しく、しかし有無を言わせぬ温かな声に、
瑞希は力なく頷き、ゆっくりと席を立った。
キャンパスの喧騒から少し離れた、静かなアンティークカフェ。
暖炉の火がパチパチと心地よい音を立てる個室で、
二人の前には、香り高いアールグレイが注がれたカップが置かれていた。
「さあ、瑞希さん。温かいうちに召し上がって」
「……ありがとうございます」
瑞希は震える両手でティーカップを包み込むように持ち、
一口だけ紅茶を飲んだ。
しかし、その表情は少しも晴れることなく、
やがて、カップを持つ手からポツリ、ポツリと、
透明な涙がテーブルへと零れ落ち始めた。
「瑞希さん……」
「ごめんなさい……っ、神龍寺さんの前で、こんな……っ」
瑞希は顔を覆い、しゃくり上げるように泣き始めた。
雅由美は席を立ち、瑞希の隣に座ると、
その震える華奢な肩を、優しく、温かく抱きしめた。
「謝る必要など、どこにもありませんわ。
私でよければ、あなたの心の重荷を、少しだけ分けてくださらない?」
雅由美の、母の慈愛にも似た温もりと優しい声に包まれ、
瑞希は堰を切ったように、心の内に秘めていた苦悩を語り始めた。
「……私の父は、小さな貿易会社を営んでいるんです。
先日、欧州から高級車を輸入する、大きな取引が決まって……」
「欧州のお車……それは、素晴らしいことですわね」
「最初は、父もとても喜んでいました。
でも……それは、巧妙に仕組まれた罠だったんです……っ」
瑞希の声が、悔しさと恐怖に震える。
「輸入の契約は『十台』のはずでした。
何度も確認して、父もその通りにサインをしたはずなのに……
後日送られてきた正式な書類は、巧妙に細工されていて、
輸入の台数が『五十台』に改ざんされていたんです……!」
「……五十台」
「はい……っ。そんな台数、うちの会社の資金で
買い取れるはずがありません。でも、契約書には、
契約不履行の場合、莫大な違約金と、五十台分の納車費用を
相手の会社に支払わなければならないと書かれていて……」
瑞希は両手で顔を覆い、身をよじって泣き崩れた。
雅由美は何も言わず、ただ優しく彼女の背中を撫で続ける。
「父は今、寝る間も惜しんで金策に奔走しています……っ。
このままでは会社が倒産するだけでなく、
私たちがずっと住んできた、あの家まで……
家を担保に入れてでも、違約金を払わないと、
相手の会社がどんな恐ろしい手段に出てくるか分からないって……」
「……」
「お父さん、もう何日もまともに眠っていなくて……
ご飯も喉を通らなくて……私、お父さんが倒れてしまうんじゃないかって、
怖くて、怖くて……っ!」
善良な父親が、悪辣な詐欺に遭い、家族の思い出の詰まった家まで
奪われようとしている。
その絶望と恐怖が、どれほど十八歳の少女の心を
苛み、すり減らしていたことか。
雅由美は、瑞希の背中を撫でながら、
鳶色の瞳から一切の温度を消し去り、静かに、そして冷たく細めた。
(……人の善意を踏みにじり、私の大切な親友の目に
これほどの涙を浮かべさせるとは。
どこの不作法なネズミか存じませんが、万死に値しますわね)
極道の会頭としての、氷のような冷徹な怒り。
しかし、瑞希へと向けられる言葉と手は、
どこまでも甘く、そして温かいものであった。
「……瑞希さん。もう、泣かなくても大丈夫ですわ」
「神龍寺さん……?」
雅由美は、ハンカチを取り出し、瑞希の頬を濡らす涙を
そっと、丁寧に拭い去った。
「あなたのお父様は、何も悪いことはしておりません。
ですから、あなたの家も、ご家族の笑顔も、
絶対に奪われるようなことはありませんわ。私が、保証いたします」
「でも……相手は欧州の大きな会社で、弁護士を立てても、
契約書がある以上、勝てないって……」
「世の中には、弁護士よりも頼りになる解決法というものが、
ほんの少しだけ、存在いたしますのよ。
……あなたは、ただ温かいお茶を飲んで、ゆっくりお休みになって。
あとは、私に任せてくださる?」
雅由美の、根拠はないはずなのに、全てを委ねたくなるような
絶対的な安心感と、気高い微笑み。
瑞希は不思議と心が落ち着いていくのを感じ、
こくりと、小さく頷いた。
「ありがとう……ございます。神龍寺さんにお話ししたら、
なんだか、少しだけ息ができるようになりました……」
「ええ。あなたは、私の大切な親友ですもの。
あなたの涙は、私が必ず拭い去ってみせますわ」
雅由美は再び瑞希を優しく抱きしめながら、
秋の夕暮れが迫る窓の外へと、冷ややかな視線を向けた。
欧州の闇と、日本の外資系ディーラー。
法の網の目を潜り抜ける卑劣な悪を裁くため、
「完璧な令嬢」の裏に潜む「龍」が、静かにその牙を研ぎ澄ましていた。
瑞希とのカフェでの語らいから数時間後。
すっかり日が落ち、冷たい夜風が木々を揺らす神龍寺本邸の奥座敷。
雅由美は、白地に冬牡丹が描かれた着物に身を包み、静かに香を焚いていた。
その背後で、分厚い調査報告書の束を持った竜也が、深く頭を下げる。
「……お嬢。水無月様のお父上を騙した、欧州の貿易会社の素性が知れました」
「ご苦労様でした、竜也さん。……それで、どこの不作法なネズミでしたの?」
雅由美が振り返ることなく問いかけると、竜也の低い声に怒気が混じった。
「フランスのマルセイユを拠点とする、新興の悪辣なマフィアです。
彼らの手口は実に巧妙かつ卑劣。正規の輸入取引を装い、
車のフレームやシートの奥に、高価なダイヤや違法薬物を隠して密輸するのです」
「……なるほど。密輸の隠れ蓑(片棒担ぎ)として、
瑞希さんのお父様の会社をダミーに使おうとしたのですね」
「はい。最初から五十台もの車を買い取らせる気などなく、
違約金を盾にして、日本にある彼らのフロント企業……
都内の高級外資系ディーラーに、車をそのまま引き上げさせる算段です。
そうすれば、日本の税関を怪しまれることなくスルーし、
密輸品と違約金の両方を、安全に手に入れることができますから」
竜也の報告を聞き終えた雅由美は、香炉の灰を静かに均した。
善良な市民を騙し、友の家族を破滅の淵に追いやり、
さらには日本の地に、薬物という毒を持ち込もうとしている。
「……実に、反吐が出るほどお行儀が悪い方々ですこと」
雅由美の鳶色の瞳に、氷のような、絶対零度の殺気が宿った。
「お嬢、すぐに若い衆を連れて、その日本側のディーラーを制圧いたしますか?」
「ええ。日本にある車と毒は、私たちが片付けます。
……ですが、それだけでは不十分ですわ、竜也さん」
雅由美はゆっくりと立ち上がり、竜也を見据えた。
「日本の支店を潰しても、欧州にある大本のマフィアが、
あの改ざんされた契約書を盾に、瑞希さんのお父様に違約金の請求を続ければ、
ご家族の平穏は戻りません。……根本から、断ち切る必要がありますわ」
「し、しかし……欧州の法を潜り抜けるマフィア相手に、日本からどうやって……」
雅由美はふわりと微笑むと、着物の袂から最新型のスマートフォンを取り出した。
そして、夏に豪華客船で命を救ったイタリア人老夫婦、
ヴィンチェンツォから渡された手書きの番号を、迷いなくタップする。
国際回線のコール音が数回鳴った後。
『……Si。ヴィンチェンツォだ』
重厚で、深い威厳に満ちた老紳士の声が響いた。
雅由美は流暢なイタリア語で、優雅に言葉を紡ぐ。
「ごきげんよう、ヴィンチェンツォ様。……神龍寺雅由美です」
『おお、雅由美! イタリアの太陽のように美しいお嬢さん!
まさかあなたから連絡をくれるとは、ソフィアも喜ぶだろう。
……だが、その声のトーン。どうやら、私の助けが必要な事態が起きたようだね』
百戦錬磨の欧州のドンは、雅由美の僅かな声色から即座に事情を察した。
雅由美は事の顛末――親友の父親がフランスのマフィアに騙され、
密輸のダミーにされた挙句、破滅の危機に瀕していること――を、
簡潔に、しかし真実を込めて伝えた。
『……なるほど』
電話の向こうの空気が、一変した。
好々爺の温かな声から、欧州の裏社会を統べる「老獅子」の、
底知れぬ凄みを帯びた声へと変わる。
『フランスの小娘の真似事のような三流マフィアが、
極東で、私の大切な命の恩人の友人に牙を剥き、涙を流させたというのか』
「ええ。日本の支店は私が片付けますが、欧州本国にある彼らの会社と、
その不当な契約書を、どうにかしていただけないかと思いまして」
『雅由美。安心しなさい。その契約書とやらは、明日の朝には灰になっているだろう。
フランスのネズミどもには、このヴィンチェンツォが直接、
欧州連盟の恐ろしさを骨の髄まで教えておく』
「ありがとうございます。……ところで、日本に届く五十台のお車の中には、
彼らの『忘れ物』が積まれているようなのですが」
『ほう……ダイヤと薬物か。薬物は海へ捨ててしまうがいい。
ダイヤは……雅由美、あなたが迷惑料として、好きになさい。
私の名において、全て許可しよう』
「まあ。ヴィンチェンツォ様の寛大なご処置に、心より感謝いたしますわ」
『ふふっ。あなたのその優雅な声を聞いていると、私まで若返るようだ。
……近いうちに、ソフィアと共に日本へ遊びに行こう。
その時に、また美しい顔を見せておくれ』
通話が切れ、雅由美はスマートフォンを静かに卓上へと置いた。
竜也は、雅由美が電話一本で、欧州を牛耳るトップから
完全なお墨付きと支援を取り付けたことに、戦慄と深い敬意を抱いて平伏していた。
「……さあ、竜也さん」
雅由美が、鳶色の瞳を細め、艶やかに微笑む。
「今夜は、その外資系ディーラーへ『お車の下見』に参りますわよ。
……少々、派手なお掃除になりますから、準備をしてちょうだい」
「はっ! 直ちに!」
親友の涙を拭うため、そして日本の庭を汚す悪を排除するため。
欧州の老獅子の後ろ盾を得た若き龍が、
静寂の夜を引き裂いて、華麗なる成敗へと向かおうとしていた。
深夜、零時。
港区の一角に佇む、全面ガラス張りの外資系高級車ディーラー『ル・セルパン』。
月明かりに照らされたショールームには、数千万を超える最新鋭のスポーツカーが、
磨き上げられた金属の光沢を放ちながら、静かなる獣のように並んでいた。
その静寂を破るように、ショールームの裏手にある整備ドックから、
数人の男たちの荒々しい怒声と、金属がぶつかり合う音が漏れ聞こえてきた。
「早くしろ! 夜明けまでには全車両から『荷物』を回収しなきゃならねえ」
「分かってますよ。だが、この新型のシート、裏側の構造が複雑で……」
フランス・マフィアの日本支店を自称する武装構成員たちが、
瑞希の父の会社に押し付けた五十台の車から、密輸品のダイヤと薬物を
回収しようと必死になっていた。
彼らの手には、およそ整備には似つかわしくない無骨な自動拳銃が握られている。
その時、閉ざされていたはずの正面入り口の自動ドアが、
音もなく左右に開いた。
「……随分とお忙しいようですけれど。
深夜の残業は、あまりお勧めいたしませんわ」
静寂を引き裂く、凛とした、しかし氷のように冷たい声。
男たちが一斉に振り返った先。
そこには、漆黒のシルクのパンツスーツに身を包んだ雅由美が立っていた。
長い鳶色の髪を高い位置でポニーテールにまとめ、
普段の令嬢の温かさを完全に封印した、冷徹な「会頭」の姿である。
「なんだてめえ……。ここは立ち入り禁止だ、失せな!」
「失礼。私は、友人の涙の代償を、少しばかり査定しに参りましたの」
雅由美は、ショールームの壁にディスプレイされていた、
ずっしりと重い真鍮製の記念レンチを、優雅な手付きで手に取った。
「女一人で何ができる! ぶち殺せ!」
男の一人が銃口を向けた瞬間、雅由美の身体は弾かれたように動いた。
鏡のように磨かれた大理石の床を、一切の迷いなく滑るように進む。
銃弾が放たれるよりも早く、雅由美は男の懐へ潜り込み、
真鍮のレンチを、男の拳銃を持つ手首へと的確に叩きつけた。
「がぁっ……!」
「銃というものは、心根の卑しい方が持つには重すぎますわ」
雅由美はそのまま男の腕を取り、円を描くような流麗な動きで、
ショールームの隅にある頑丈な柱へと男を投げ飛ばした。
驚愕する残りの男たちが次々と襲いかかる。
だが、雅由美は展示されている数億円の高級車に、
指先一つ、服の端一つ触れさせることはなかった。
彼女の動きは、まるで月光の下で踊るワルツのように優雅で、
それでいて、雷撃のような鋭さを秘めている。
振り下ろされる刃物を、手に持ったレンチで軽やかに受け流し、
相手の力を利用して、次々と床へと沈めていく。
「ひ、ひっ……! な、何なんだよ、あんたは!」
最後に残ったリーダー格の男が、腰を抜かして後ずさった。
背後のガラスに追い詰められた男に対し、雅由美はゆっくりと歩み寄り、
レンチを男の喉元へピタリと突きつけた。
その鳶色の瞳には、慈悲など微塵も存在しない。
「……私の庭を汚し、友人の平和を脅かした罪。
その命をもって償わせたいところですが……。
あいにく、今日は素晴らしい『お土産』を用意していただいているようですわね」
制圧した男たちを、竜也が連れてきた組員たちに引き渡した後。
雅由美は、ショールームの奥に並んだ五十台の車の一台へと歩み寄った。
竜也が手際よくシートの裏側を剥がすと、そこから現れたのは、
まばゆい輝きを放つ大量の原石――ダイヤモンドと、
そして、どす黒い欲望の象徴である、大量の違法薬物の袋だった。
「……これが、彼らの隠し持っていた『毒』と『毒の代償』ですわね」
雅由美は、薬物の袋を冷たい目で見下ろすと、竜也へと短く命じた。
「薬物は全て、ヴィンチェンツォ様の仰った通りに処分なさい。
一粒たりとも、この国の土に触れさせてはなりませんわ」
「はっ! 直ちに!」
「そして、このダイヤは……」
雅由美は、掌に乗った一粒のダイヤを月の光に透かした。
その輝きは、瑞希が図書館で流した涙と同じように、清らかで、悲しい。
「ヴィンチェンツォ様から『好きにしてよい』とお墨付きをいただいています。
これを、瑞希さんのお父様の会社へ、匿名の寄付として送り届けなさい。
……家族の家と、誇りを守るための、正当な慰謝料として」
「承知いたしました。……水無月様のお父上も、これで救われます」
「ええ。……さあ、帰りましょう。
明日の朝には、瑞希さんの顔に、太陽のような笑顔が戻っているはずですわ」
雅由美はレンチを元のディスプレイへ、指紋一つ残さず静かに戻した。
深夜のショールームに、再び静寂が戻る。
ガラス越しに差し込む月光は、戦いの跡を隠すように、
美しいスポーツカーの曲線を、優雅に、そして優しく照らし出していた。
親友を救い、悪を裁いた若き龍の、完璧なる査定が幕を閉じた。




