6話
始業式が終わってから、あっという間に数日が経ち、気がつけば週末の金曜日だった。
(……ほんと疲れた)
9月は嫌いだ。無駄に暑さが残ってるくせに、しっかり学校は始まるし。まあ、疲れの大体の原因は――間違いなく千亜希なんだけどね。
あの後、あれやこれややらされて、そのたびに百合にウザがられて。
最終的には――
『……いい加減にして』
(……はい、俺もそう思います)
──あの時の笑顔。
笑ってるのに、声は凍るほど冷たかった。内心、ブチ切れてたんだろうな。
――そんな金曜日の夜。
「おりゃっ!」
リビングのテレビに繋いだ野球ゲーム。
俺の投げたボールがバットに弾かれ、乾いた快音が鳴った。
――カキーン!
綺麗な放物線を描いた白球は、無情にもスタンドへ突き刺さる。
「……あっ」
コントローラーをぎゅっと握ったまま項垂れると、隣の弟――幸人がニヤリと口角を上げた。
「兄ちゃん、弱すぎ」
「……舐めやがって、このガキ」
悔しさを込めて構え直し、幸人のバッターに投げ込む。
結果――三者連続三振。
「ふっ……兄の威厳は、まだ保たれたな」
俺が得意げに腕を組むと。
「四球、四球、四球、四球……からのホームラン撃たれてる時点で、威厳も何もないでしょ」
後ろのソファから、妹――由紀恵が冷ややかに言い放った。
「ごもっともで……」
こうやってこいつらとダラダラしてる時間が、一番落ち着く。
ふと壁の時計を見ると、思ったより時間が経っていた。
(そろそろ晩飯、作らないとな……)
そう思った矢先、幸人がこっちの隙を突くみたいにポンポン投げてくる。
「おいコラ、ずりぃぞ――」
言いかけたところで、横から由紀恵が俺のコントローラーをグイッと奪い取った。
「見てられない。私がやる」
(助かるよ、由紀恵……)
「ええ……姉ちゃん下手いからやだあ」
「下手じゃねえよ、この野郎」
──小学生相手にムキになるなって。
俺は苦笑いしつつ、キッチンへ向かった。
食べ盛りの幸人が満足できて、由紀恵にもちゃんと食べてもらえて、母さんの負担も増やさない。
罪悪感がなくて、身体にも良くて、財布にも優しい――
(……豆腐ハンバーグで決まりだな)
冷蔵庫を開け、材料をワークトップに並べる。
「よし。それじゃ――始めますか」
しばらくして、味噌汁の香りが漂い始めた頃。
リビングから軽い足音が近づいてきた。
「どうした、由紀恵?」
「何か手伝うことないかなって」
髪を指でくるくるしながら、のぞき込むように顔を出す。
眠そうだし、たぶん暇なんだろう。
「あらかた終わったよ。幸人は?」
「ストレートとフォーク織り交ぜてボコしたら、姉ちゃんとはもうやらないって」
「ええ……」
小学生相手に容赦ねーな。
俺は苦笑いしつつ、種をフライパンに落として焼き始める。ジュウ、と香ばしい音。湯気が立ちのぼった。
「ねえ、兄」
「……ん?」
「最近、なんかあった?」
「別に。なんで?」
「いや、なんか……楽しそうだなって」
「……楽し……そう?」
楽しいどころか、酷い目に遭いまくってるんだが。
「うん。充実してる顔してる」
――悪い意味で充実してるよ。ほんとに。
「全然。全く。微塵もこれっぽっちもっ!」
俺は豆腐ハンバーグを勢いよくひっくり返した。
ジュウッ、と油が弾けて、顔に少しだけ熱気がかかる。
「……そ、そうなんだ」
由紀恵は困ったように苦笑いして、ぽつりと言った。
「私てっきり、兄に彼女でもできたのかなって」
「……」
──沈黙。
キッチンに響くのは、焼ける音だけだ。ジュウウウ……。
「……今ので、だいたいわかった」
「……なんで、そんなこと聞くんだよ」
「最近、服とか髪型とか気を使ってたし。そういうの、できたのかなって思って」
ああ……なるほど。
レンタル彼氏のバイト始めてから、清潔感とか意識するようになったしな。誤解もされるか。
「……大人になると、みんなそんな感じになっていくんだよ」
「私と二つしか違わないじゃん……」
由紀恵が、じとっとした目で俺を見上げる。
――ガチャリ。
リビングのドアが開く音。
「あっ、お母さんおかえり〜」
「んかえりー」
「ただいまー」
仕事帰りの母さんは少し疲れた顔をしてたけど、それでも笑っていた。
「お母さん、今日早かったね」
「ええ。珍しく仕事が早く片付いたのよ」
……無理してるな。疲れてるの、こいつらに見せたくないんだろう。
(よし……ここは俺があの王道ネタで元気にして――)
俺はキリのいいところで手を止めて、母さんの方へ向かう。
「母さん、おかえり」
「敏之、いつもありがとね」
よし、今だ――いっちょ決めるか。
「ご――」
「……敏之。あんた今日、晩飯抜きね」
「まだ何も言ってないよ!!」
「あんたの顔見れば、大体わかるのよ」
母さんに呆れたようにため息をつかれて、俺は黙った。
……親って、やっぱ息子の考えてることくらいお見通しなのかもしれない。
いや、単に俺が分かりやすいだけか。
◇◇◇◇
夕飯も終わり、俺は母さんの隣で食器を拭いていた。母さんが洗った皿を、俺が布で拭いて食器カゴへ置いていく。
「敏之、あんたもゆっくりしてればいいのに」
「いいんだよ。俺が好きでやってるだけだから」
母さんは「……そう」とだけ言って、穏やかに微笑んだ。
――以前の俺なら、こんなことしなかったと思う。変わったのは、三年前。父さんが交通事故で亡くなってからだ。
父さんは不器用で、愛情表現も下手くそで。
由紀恵にはウザがられてたけど、俺たちはみんな父さんが大好きだった。
居眠り運転の車が原因で起きた、あっけない事故。何気なく続いていた日常が、たった一瞬で崩れ落ちた。
あの時、幸人はまだ幼くて、何が起きたのか分からない顔をしていた。由紀恵も、普段はウザがってたくせに、声を上げて泣いていた。
――そして母さんは。
俺たちの前では気丈に振る舞って、無理にでも笑っていたけど。
夜中、隠れて泣いている姿を見てしまった。あの光景だけは、今でも忘れられない。
でも、あの時の俺は――泣けなかった。
悲しくなかったわけじゃない。現実を受け止めきれなかったわけでもない。
むしろちゃんと「父さんはもういない」と理解していたのに、涙だけが出なかった。
ただ、眠るように冷たくなった父さんを、呆然と見つめることしかできなかった。
……今でも、なんであの時だけ涙が出なかったのか、分からない。
でも――あの日以降、俺は「誰かのそばにいる」ことが増えた。
別に自分の部屋でやればいいことでも、気づけばリビングにいる。
母さんたちも、たぶん同じだ。理由もないのに、リビングで過ごす時間が増えた。
……本当に同じ気持ちかは分からないけど。
それでも俺は、こうしてみんなと一緒に過ごしていたいと思う。
「敏之、電話鳴ってるよ」
「……え?」
母さんの声に顔を上げる。
あ、本当だ。誰だよ、こんな時間に……。
ズボンのポケットからスマホを取り出す。
「なに、兄ちゃん、彼女?」
「あら、敏之〜」
「違う違う、彼氏だよ、彼氏」
「チィ!」
――全面撤退。
高校卒業したら、マジで一人暮らししたい。
ヒソヒソ笑い合う二人に、舌打ちで応戦してやる。
そして、スマホの画面を見た。
(……この番号)




