20話
校門を抜けて少し歩いたところで、空気がほんの少しだけ軽くなった気がした。
さっきの出来事が、嘘だったみたいに遠い。
……そんなわけ、ないか。
俺は百合の横を歩きながら、小さく息を吐く。
「……さっきは、ありがと」
百合が、ぽつりと言った。
声は小さくて、まだ喉の奥が固いままみたいだった。
「……別に。俺、何もしてないよ」
あの場を何とかしたのは、百合先輩だ。
俺は百合の手元に視線を落とす。
「それより、手……大丈夫か」
「うん、もう平気」
「……良かった」
でも――
「……百合先輩、大丈夫かな」
心配しかない。
女の子一人で、あの西村先輩と二人でって――考えたくない。背中に冷たい汗が伝って、俺は無意識に歩幅を速めていた。
「……多分、大丈夫」
百合が、隣を歩きながらぽつりと言った。
「え?」
「お姉ちゃん、ああ見えて強いんだよ。昔、ちょっと武道やってたし……」
「武道?」
「柔道とか……合気道とか……」
「……え、マジ?」
「うん。前に一緒に出かけたとき、変な人に腕つかまれてさ……」
百合は思い出したみたいに眉をひそめる。
「お姉ちゃん、さらっと外して……すぐにその人投げ飛ばしてたし」
「マジかあ……」
人は見かけによらない。
……とはいえ、安心しきれるほど俺の心臓は器用じゃない。
(……やだなあ)
自分の無力感に、じわっと嫌気が差す。
ふと、俺はもう一つ気になっていたことを百合に聞いた。
「……なあ」
「はい」
百合は隣を歩きながら、ちらっと俺を見て短く返す。
「そういえばさ。お前、さっき松田と一緒に帰っただろ?」
「……うん」
「じゃあ、なんでまだ学校にいたんだよ」
一拍。
百合の歩幅が、ほんの少しだけ遅くなった。
「……楓がさ。スマホ、教室に忘れたって言い出して――」
「あぁ……なるほど」
納得した瞬間、百合は思い出したみたいにスマホを取り出した。
「……楓に、何も言ってなかった」
「あぁ……そりゃ心配するな」
いきなり消えたら、松田の事だめっちゃオーバーリアクションで動揺するだろう。
百合はスマホを操作したまま、ぽつりと言った。
「……楓から連絡、来てた」
「だろうな」
「だから……さっきのこと、軽く話した」
言いながら百合は、苦笑いしつつぽつりと付け足す。
「……和泉くんと一緒にいることは、言ってないよ」
「……ありがと」
百合は画面を見て、ふっと笑った。
「『ラジャ』だって」
「軽っ」
「で、続きに。――『北川に、部活してるとこ見てこいって言っとく』だって」
「はは……なんだそれ」
俺が笑うと、百合もつられるみたいに小さく笑った。さっきまで張り詰めてた顔が、ほんの少しだけ緩む。
(……よかった)
少しは気が楽になったのかな。
それから少しのあいだ、俺たちの間で沈黙が落ちた。
さっきまでの笑い声が嘘みたいに、足音だけがやけに大きい。
俺は隣を歩く百合に声をかけた。
「……なあ」
「……はい」
「このあと、時間あるか?」
「えっ……まあ……」
「もしよかったらだけどさ。……ちょっと気分転換、しない?」
「気分転換……?」
「いろいろあっただろ。西村先輩の件で」
菜月は一瞬、視線を逸らす。
返事が遅れるのが、逆に答えみたいだった。
「だからさ。……ちょっと、いいとこ知ってるんだよ。百合が好きそうな場所」
「私が、好きそうな……?」
「うん」
「…………」
「……どうだ?」
「……大丈夫、です」
「そっか。ありがと」
俺は少しだけ間を置いて、確認するみたいに言った。
「じゃあ一回、着替えに帰ってから行く?」
「……え。あっ、わたしはこのままでも……」
「そっか」
俺は頷いてから、言いづらそうに頭の後ろをかく。
「俺はこの格好だと、いろいろやりづらいしさ」
「……うん」
「……だから、俺ん家まで来てくれない?」
「……え?」
「ちょっと、この前の彼氏のフリの話もあるし。ついでに、って感じで」
「えっ、えっ……!?」
百合の声が裏返った。
「俺ん家、近いんだ」
「えっ、え、ええっ……!?」
「悪いけど、ちょっと付き合って。直ぐに着替えるから」
「えええぇぇぇっ……!?」




