21話
バタン。
扉が閉まる音が、玄関に小さく響いた。
家に入る前――百合には外で待つように伝えてある。百合は少し驚いたような、それでもどこか安堵したような顔で、小さく頷いていた。
彼女を家に入れたくない理由。別に、見られて困るものがあるわけじゃない。――ただ、
(……あいつら、もう帰ってるな)
玄関に並んだ由紀恵と幸人の靴を見て、俺は小さく息をついた。
廊下の奥から、テレビの小さな音が漏れてくる。
(……よし)
これなら、あいつらに『俺が女の子を連れてきた』ってことがバレずに済む。
母さんも仕事で帰りは遅いだろうし、さっさと着替えて出たい。
とはいえ、このまま出ていったら――母さんが帰ってきてから、晩飯も片づけも全部ひとりで回すことになる。
『ちょっと出かけてくる。今日の家事できない』
そう連絡すれば、母さんのことだ。『わかった』の一言で終わるだろう。
……でも。
仕事でくたくたの母さんに、それを押しつけるのは、なんか違う。
せめて晩飯だけでも――って思うのに。
(……百合を待たせる羽目になる)
――こうなったら、あれしかない。
「ただいま」
俺は靴を脱いで、リビングへ向かった。
「あっ、兄ちゃんおかえり〜」
リビングに入るやいなや、テレビの前に座っていた幸人が、こちらを見ずに声をかけてくる。
由紀恵もソファに座ったまま、挨拶代わりに軽く手を振った。
幸人が、ようやく俺のほうに顔を向ける。
「兄ちゃん」
「ん、なに」
「んっ」
短く息を鳴らすみたいに言って、持っていたコントローラーを差し出してきた。
「……悪い。今日は無理」
「ん?」
「今から用事。だから、ちょっと出ないといけない」
俺はズボンのポケットに手を突っ込んだ。
財布を引っぱり出して、中身を一瞬だけ確認する。
――五千円札。
俺はそれを一枚抜いて、幸人の前にすっと差し出した。
「これで、今日の晩飯。なにか頼め」
「……っ」
幸人が固まった。
次の瞬間、逃げるみたいにソファの由紀恵のところへ駆け寄り、顔を寄せて小声で話し始める。
「ね、姉ちゃん……あのケチな兄ちゃんが五千円渡してきたぞ」
「……そうね」
「何かいいことあったんじゃないか?」
「逆よ、逆。何かバレたらまずいことがあるから」
「バレたら困ることって……?」
由紀恵は視線だけ俺に向けて、淡々と言い切った。
「女よ、女。女の感がそう言ってる」
「……っ、兄ちゃん」
「聞こえてんぞ」
俺は小さくため息をついた。
さっき差し出した五千円札を、いったん財布に戻す。
代わりに、もう一枚。
――一万円札。
「ん」
「「…………っ!?」」
二人の反応が、露骨に跳ねた。そりゃそうだ。小・中学生にとってこの額は、うちだとお年玉枠の代物だ。
俺はそのまま二人のところまで行って、
「……釣りはいらん」
由紀恵の手に、無理やり押し込むみたいに一万円札を渡した。
「お、お……」
由紀恵は震える手でそれを掲げる。
幸人もつられて目を輝かせた。
(――よし。完了)
「じゃ、あとはよろしくな」
それだけ言って、俺はさっさとリビングを出た。
(……着替えるか)
自分の部屋へ向かう。
◇◇◇◇
和泉くんが家の中に入って、もう数分。
『俺ん家まで来てくれない?』
そう言われたから、てっきり――家の中に『どうぞ』されるんだと思って。
勝手にいろいろ想像しちゃったけど……。
『すぐ着替えてくるから、ここで待ってて』
和泉くんはそれをさらっと言って、そのまま玄関の向こうに消えていった。
「う〜、う〜……」
(……っ、恥ずかしい)
何をひとりで勘違いしてるんだ、私。
玄関の向こう――家の中から、時おり声が漏れてくる。
それだけで、さっきの恥ずかしさが蒸し返される。
(落ち着け、私……)
ただ着替えてくるだけ。
それだけ。深い意味なんて、あるわけない。
……あるわけないのに。
男の子の家に来るなんて、生まれて初めてで。
しかも私は今、玄関の前でひとりで待ってる。
心臓がうるさい。
息が浅くなる。
(……っ)
緊張と恥ずかしさが混ざって、胸の奥がぎゅっと苦しかった。
やっぱり今日は、一日いろいろありすぎる……。
楓たちにもみくちゃにされて、西村先輩には強引に迫られて、
そのうえ――和泉くんの家の前にいるなんて……。
アニメや漫画だって、ここまで一日にイベント詰め込まないよ……。
はあ……早く、出てきて……。
――そのとき。
「……あの」
「ひゃっ……!?」
背後から声をかけられて、私はびくっと肩を跳ねさせた。
飛び跳ねるみたいに振り返ると――スーツ姿の女性が立っていた。
「……うちの前で、どうかしました?」
「……え……」
思わず言葉が詰まる。
女性はきょとんとした顔をして、すぐに困ったみたいに笑った。
「あ、ごめんなさいね。びっくりさせちゃったよね」
それから、私と玄関の扉を見比べるみたいに視線を動かして、
「……えっと。あなた、敏之と同じ学校の制服よね」
「えっ……」
私は動揺しながらも、女性の顔を見た。
どことなく――和泉くんの面影がある。目元とか、輪郭とか。
(……和泉くんのお母さん?)
こんなタイミングで!? と、とりあえず挨拶しないと……!
「わ、私は……えっと……」
喉がきゅっと詰まって、言葉が一回、空回りした。
「……和泉くんの、クラスメイトで……あの……」
自分でも何を言いたいのか分からなくなって、
視線がドアノブと女性の顔を行ったり来たりする。
「……ちょっと、待っててって言われて……その……外で……」
説明になってない。最悪。顔が熱い。耳まで熱い。
「……す、すみません……っ」
「……そうですか」
スーツ姿の女性は、こちらのしどろもどろを責めるでもなく、ふわっと表情をほどいた。口元にやわらかい笑みが浮かぶ。
「はじめまして。……私は、敏之の母です」
「あっ……!」
頭が真っ白になって、反射で背筋が伸びる。
「百合菜月ですっ! い、いつも和泉くんにお世話になっておりますっ!」
言ってから気づいた。
(――いや、クラスメイトの母親に言う挨拶じゃない)
「あら……ふふ」
笑われた。終わった。でも、その笑い方は意外なくらい優しくて。
「百合さん、ね。敏之と同じクラスの……?」
「は、はいっ……!」
「いつも仲良くしてくれてるのね。ありがとう」
「い、いえっ……!」
緊張で喉がきゅっと縮む。呼吸だけがやたら大きくて、心臓の音がずっと耳の奥で鳴っている。
(むり……落ち着けない……)
和泉くんのお母さんは、私の顔をもう一度だけ確かめるみたいに見て――ふっと、安心させるように微笑んだ。
「……ここじゃ暑いでしょ? よかったら中きでも」
「えっ……あ、い、いえ……!?」
家の中……!?
思わず声が裏返ってしまう。
でも、お母さんは急かすでもなく、自然な手つきで鍵に手を伸ばして、カチャ、と解錠する音を鳴らす。
そのままドアノブに触れて、軽く引いた。
扉が、すっと開く。
◇◇◇◇
「……よし」
いつもバイトに行くときの服装と髪型に整えて、俺は洗面所を出た。
……少し、百合を待たせすぎた。
早く出ないと。
廊下を歩いていると、リビングのほうから、
「ピザ頼もっ」
「これで欲しいコスメ買えるっ」
――って、騒がしい声が聞こえてくる。
俺はそれを聞き流しながら玄関へ向かい、靴を履いた。
扉に手をかける。
――その瞬間。
カチャリ。
鍵が開く音がして、扉がすっと内側へ動いた。
「……あら、敏之。お出かけ……?」
「…………」
息が止まった。
……なんでだ。
母さん、いつもならまだ仕事のはずだろ。
背中に、冷たい汗が滝みたいに流れる。
スーツ姿の母さんが立っていて――
その後ろに、百合の姿があった。
「あっ、いや……あっ、お、おかえり……」
口だけが勝手に動いた。
母さんはにこやかに笑っている。
なのに、その笑顔がやけに“動かない”。
「……敏之」
「……はい」
母さんは笑っていた。
なのに、その笑顔は一ミリも揺れていない。
「――リビングに行きなさいっ!!!」
「はいぃぃぃぃっ!」
クワッ、と目を見開いた母さんの一声に、
俺は飛び上がるみたいに背筋を伸ばした。
反射で踵を返し、リビングへ――
行こうとして、足がもつれそうになる。




