19話
俺は廊下を歩く生徒の波に向けて「すみません!」を連発しながら、隙間を縫って百合先輩の背中を必死で追った。
廊下の角を曲がって、階段を下って、昇降口の方へ――。
「はあ……っ、はあ……っ」
全力で走ったせいか、呼吸がぐちゃぐちゃだ。
それでも距離が縮まらない。
(……百合先輩、見かけによらず足、速っ)
生徒会室で見せてた、あのふわっとした雰囲気はどこへやら。
迷いのない足取りで、人の流れの隙間をすり抜けていく。
――やっと、背中が見えた。
「待ってっ!」
百合先輩の声が、昇降口に飛んだ。
俺も反射で足を止める。
視線の先――昇降口の中央に、百合がいた。
そして、その手首を掴んでいるのは――西村先輩。
「……は?」
理解が追いつかない。
だって百合は、さっき松田に手を引かれるみたいにして教室を出ていったはずだ。
なのに、なんでまだここにいる。しかも、よりによって――西村先輩と。
百合は恐怖で、唇が小さく震えていた。目尻が潤んで、今にも崩れ落ちそうなのに、泣くのだけは必死に堪えている。――そんな顔だ。
……どうしたらいい。
状況が飲み込めない。目の前の光景がありえなさすぎて、頭が真っ白になって、俺は動けなかった。
「西村くん……何をしてるの?」
百合先輩だけが、落ち着き払った声で言った。いつもの優しい声――でも、語尾にほんの少しだけ棘が混じっている。
その一言で、昇降口の空気が張りつめた。
「あぁ……ちょっと、君の妹さんと遊びに行こうかなって。ね」
「ふーん。……その誘い方、ちょっと強引だと私は思うな」
「それにしても――」
百合先輩は、西村先輩の格好を一度だけ上から下まで見た。
それから、目だけを戻して言う。
「……西村くん、まだ部活中じゃないの?」
「…………」
西村先輩の口が、ぴたりと止まる。
百合先輩は、ため息もつかない。ただ、落ち着いた声のまま続けた。
「ねえ。――菜月ちゃんの手、離してくれる?」
西村先輩は一拍置いてから、渋々、手を離した。
百合は解放された手首を引いて、反射的に胸の前で抱え込んだ。
百合先輩が、半歩だけ距離を詰める。
「菜月ちゃん、大丈夫?」
百合は小さく頷く。……でも、目はまだ揺れていた。
百合先輩はその揺れを確かめるみたいに一瞬だけ見つめて――ゆっくり、西村先輩へ視線を戻した。
「……なるほど」
ぽつり、と納得したみたいに呟いて、百合先輩はゆっくり頷いた。
「最近ね。菜月ちゃんのこと、虫のおもちゃで驚かせたり、わざと黒板消し叩いたりする人がいるって聞いてたんだけど……」
そこで一拍。
「……西村くんだったんだね」
「は?」
西村先輩の声が、わずかに裏返る。
(あっ……)
俺の喉が、きゅっと縮んだ。
――百合先輩、完全に勘違いしてる。
いや、この状況を見たらそうなる。そうなるんだけど。
(……ごめんなさい。俺です。俺がやりました)
もちろん、口には出せない。
「……なんの事か知らないけど」
西村先輩の視線が百合の方に流れる。
「……だとしたら?」
肩をすくめて、軽い口調で続けた。
「俺、ちょっと悪いことしちゃったのかもね」
(えっ、なんでこの人、乗ったんだ……?)
否定しろよ。
今のは「そうです」って言ってるのと同じだろ。
百合先輩の眉が、ぴくりと動いた。
「……どうして、そんなことしたの?」
「百合さんの妹さん、可愛いからね。つい、ね……」
「菜月ちゃん、すごく嫌がってたんだよ……?」
「そっか。そりゃ、悪いことした。ごめんね」
西村先輩は、驚くほど軽い声で――菜月に向かって言った。謝ってるはずなのに、空気が全然ゆるまない。
百合は返事をしない。
代わりに、掴まれていた手首を胸の前に抱え込んで、指先をぎゅっと握りしめた。
西村先輩は困ったみたいに首を傾げたあと、百合先輩の方へ視線を向ける。
「じゃあさ。百合さん、代わりに俺と遊びに行かない?」
「……は?」
思わず声が漏れた。俺だけじゃない。百合も一瞬、目を見開く。
西村先輩は軽く微笑む。
「だってほら……妹さんはダメなんでしょ?でもそれだと、俺が可哀想じゃん?」
(……何言ってんだこの人)
理解が追いつかないまま、空気だけがずるずる前に進む。
「それにさ。知ってるでしょ?」
西村先輩が、含みのある口調で言いかけた
――その時。
「……西村くん。わかったわ」
百合先輩が、小さく頷いた。
なのに、笑ってない。声はいつも通り柔らかいのに、目が――妙に真っ直ぐで、冷静だった。
百合先輩は一歩だけ前に出て、百合の肩にそっと手を置く。百合の呼吸が、ほんの少しだけ戻るのが分かった。
そして百合先輩は、ちらっと俺を見る。
「和泉くん」
「……はい」
「菜月ちゃんのこと、お願いしてもいい?」
「……え?」
「私、ちょっと西村くんと二人で遊んでくるから」
――言葉だけ聞いたら、意味が分からない。
でも、百合先輩の目を見た瞬間、俺は察したりこれは、その場を収めるための言い方だ。
百合先輩は百合の肩から手を離すと、今度は俺の方を見て、口元だけ、わずかに緩めた。
「……お願い」
「……わかりました」
俺は百合の方へ近づく。
「……大丈夫か?」
「……うん」
返事は小さい。けど、ちゃんと聞こえた。
「……行こ。」
俺は手首じゃなく、袖を軽くつまむ程度にして促した。
百合はこくんと頷く。
俺たちは昇降口を出て、人のいる方――正門の方へ歩いた。
……正直、百合先輩がめちゃくちゃ心配だ。
でも、あの場に俺が残っても邪魔になるだけだ。
今はただ、頼まれたことをやるしかない。
(……くそ。不甲斐ねぇ)
胸の奥がじわりと熱くなる。
それにしても、さっきの百合先輩。
怒ってるのは分かった。けど、それだけじゃない。
背筋が冷えるみたいな圧――
今まで一度も感じたことのない、鋭さだった。
……さすがに、気のせいか。




