第6話 親父、あんたって人は…
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あれほど大きな話が決まったというのに、翌朝になれば世界は妙にいつも通りだった。朝日は昇るし、廊下は磨かれているし、使用人たちはいつもの時間に動いている。人の人生がひっくり返るような決定の翌日でも、朝食はちゃんと出るし、紅茶も冷める。世の中はそういうところが妙に律儀だ。ありがたいのか薄情なのか、少し判断に困る。
あのあと、屋敷の空気は変わった。
いや、正確に言えば、変わったというより、何か大きなものがひび割れたまま静止している感じだった。使用人たちは余計なことを言わず、足音すら控えめになる。父レオンハルトはいつも通りに振る舞っていたが、その“いつも通り”が前よりずっと冷たく感じられた。母エレノアは静かだった。静かだが、その静けさの奥に怒りのようなものが沈んでいるのが、アルトにもわかった。
フィオナとルカは、あの日以降、父の前でほとんど声を出さなくなった。
泣くこともある。夜中に目を覚まして、怯えたようにアルトの服をつかむこともある。けれど、父の名を出すことはほとんどなかった。わかってしまったのだろう。あの人は自分たちを守ってくれる存在ではないのだと。
アルトはそれがたまらなく悔しかった。
だからこそ、やることは決まっていた。ルーウェンへ行き、五年で結果を出す。そのために必要な準備を、今はひとつずつ進めるしかない。
もっとも、父が与えたものは少なかった。
驚くほど少なかった。
「侯爵家の紋章の入っていない馬車を一台」
父は書類から目を上げもせず言った。
「最低限の荷と路銀」
「……はい」
「それ以上は出さん」
アルトは一瞬、耳を疑った。いや、父ならそのくらいやるとも思っていた。思ってはいたが、思っていたものを本当に現実へ出されると、人は少しだけ遠い目になる。
辺境へ行けと言っておいて、渡されるのは紋章なしの馬車と少しばかりの金。侯爵家次男の門出としては、だいぶ寂しい。いや、寂しいを通り越してだいぶ嫌がらせ寄りである。父の中では合理性なのだろうが、受け取る側としては「もう少し何かありませんか」と聞きたくなる程度には薄い。
けれど聞いたところで増えないこともわかっていた。父はそういう人だ。だったら、あるもので組み立てるしかない。
ただ、そんな状況でもついてきてくれる人はいた。
まずサラだ。
「わたくしは同行いたします」
そう言ったときのサラは、いつもの穏やかな侍女の顔だった。けれど声音には一片の迷いもなかった。
「サラ、ですが…」
アルトが言うより先に、サラはきっぱり続ける。
「双子様のお世話も、アルト様のお支えも、ここで投げ出すつもりはございません」
強い。
いや知っていたけれど、やっぱり強い。生活力の人は決意まで強いらしい。
「ありがとうございます、サラ」
「はい。ですので、今後もちゃんとお食事は召し上がってくださいませ」
「そこに繋がるんですね」
「とても大事なことですので」
その通りだったので、アルトはうなずくしかなかった。
次に、正式な許可は出ていないのに当然のようについてきたのがミレイアとガレスである。
「やはりついてきて正解ですね」
ミレイアは荷造りを見ながらさらりと言った。
「ここまでの才を逃がすつもりはありません」
「先生、それだと僕が珍しい水棲生物みたいです」
「才能はだいたい貴重な生き物のようなものです」
「そうなんですね」
「ええ。見つけたら保護し、育てるものです」
保護対象扱いされている気もしたが、ありがたいのは本当だった。
ガレスはもっと単純だった。
「鍛えがいのある子を途中で放っておけませんな」
「ありがとうございます」
「それに、辺境での立ち回りも教えられます」
「助かります」
「ハハッ! なに、まだまだこれからですぞ」
こういう大人がいてくれるのは、本当にありがたい。父のように冷たく切り分ける人ばかりだったら、人はたぶん途中で折れる。少なくともアルトは、今のこの状況でひとりだったらかなりきつかったと思う。
もっとも、戦力としてはまだ心許なかった。
馬車は一台。同行者はサラ、ミレイア、ガレス。それにアルトと双子。これで辺境へ行くのは、正直少し不安である。いや、少しではない。だいぶ不安だ。人数の問題もあるし、護衛戦力が足りない。ミレイアもガレスも強いが、だからといって全部をどうにかできるわけではない。
そんなとき、ミレイアが言った。
「途中で護衛を増やすべきでしょう」
「やっぱりそうですよね」
「ええ。できれば、近接戦に慣れた者が一人は欲しいところです」
ガレスも腕を組む。
「戦闘奴隷を買う、という手もあります」
アルトは少し黙った。
奴隷。
この世界では珍しくない制度だ。戦争捕虜、罪人、借金、あるいは生まれでそうなる者もいる。理解している。見聞きもしてきた。けれど、納得しているかと言われれば、それはまた別だった。前世の感覚が残っているぶん、どうしても胸の奥が引っかかる。
だが、今は理想だけでは双子を守れない。
「……行きましょう」
アルトは言った。
「必要なら、ちゃんと選びます」
ミレイアがわずかにうなずいた。
「ええ。それがよろしいでしょう」
そうして出立の日の前に、一行は王都近くの奴隷商へ向かった。
そこは、あまり気分のよい場所ではなかった。
建物自体は妙に整っている。客を迎えるための表向きの清潔さもある。だが、その奥にあるものの気配がどうしても重い。アルトは馬車を降りた瞬間から、じわじわとした嫌な感覚を覚えていた。
順転の鍛錬を続けるうち、アルトは魔力の流れを読む感覚がかなり鋭くなっていた。いわゆる前世の記憶で言うところのステータス画面ほどの詳細は分からないが、ある程度の強さや状態はなんとなくわかるようになったのだ。
魔力の流れが淀んでいるか、よく巡っているか。無理をしている体か、傷が深いか。内側に力があるか、表面だけか。そうした“生き物としての状態”は、かなり読めるようになっていた。
だから、奴隷商の奥へ入った瞬間に、アルトは眉をひそめた。
「……嫌な感じがします」
「どう見えます?」
ミレイアが小声で訊く。
「疲れてる人が多いです」
アルトは視線を巡らせた。
「あと、傷が治りきってない人も」
「なるほど」
「強い弱いまでは、なんとなくしかわかりませんけど」
「それで十分な場合もあります」
ミレイアの声は静かだった。
奴隷商の主人は、脂ぎった笑みを浮かべる男だった。
「ようこそお越しで! 戦闘奴隷をお探しで?」
「ええ」
ミレイアがまず応じる。こういう場のやり取りは大人に任せたほうがいい。アルトはそう判断していた。
「若くても構いません。実戦経験があり、近接に強い者を」
「ほうほう、それならいくらかおりますよ」
男は愛想よく案内した。だが、その目があまり好きになれなかった。値踏みする目だ。人を品物として見る目。もちろん、ここではそれが商売なのだろう。わかってはいる。わかってはいるが、好きにはなれない。
並べられた奴隷たちを見ながら、アルトはそっと感覚を伸ばした。
魔力の流れを見る。筋肉の使われ方を見る。傷の深さを見る。外見だけではなく、その内側の張りを探る。
そして、ひとりの男に目が留まった。
少し離れた檻の前で、奴隷商の部下らしい男が乱暴に腕を引いている。引かれているのは、十六歳前後だろうか。ぼろぼろの服に、痩せた体。髪も乱れ、顔には汚れがついている。だがその目だけは死んでいなかった。
反抗的な目だ、と商人は吐き捨てた。
「こいつはねえ、顔はいいが、目つきが悪いんですよ」
言いながら、部下が腹へ蹴りを入れる。
少年の身体がくの字に折れた。
アルトの中で何かが冷えた。
「やめてください」
思ったより先に声が出ていた。
奴隷商がぎょっとしたように振り返る。
「は?」
「その方に、今、何をしたんですか」
普段のやわらかい敬語のままだった。けれど自分でも少しだけわかった。声の温度が下がっている。
男はへらりと笑った。
「いやぁ、お気になさらず。商品教育でして」
「商品教育」
「ええ、反抗的でしてね。買われても扱いにくいと困るでしょう?」
「……そうですか」
アルトは少年を見た。
魔力の流れが見える。
表面は荒れている。傷も多い。疲労も深い。けれど、芯のところが折れていない。むしろ、かなり強い。粗く削られながらも、まだ内側に厚いものが残っている。きちんと休ませ、治し、扱い方を誤らなければ、かなりの戦力になる。
いや、戦力というだけではない。
この少年は、本来もっとましな場所に立てたはずだ。
「その人にします」
アルトは言った。
奴隷商が目を丸くする。
「え?」
「彼を買います」
「いやいや、坊ちゃん。もっと素直で扱いやすいのが」
「その人にします」
今度ははっきり言った。商人は少しだけ目を細めたが、最終的には金になるならよいと思ったのだろう。すぐに手続きを進めにかかった。
近くで見ると、少年は思っていたより若かった。十六くらいだろう。ぼろぼろで痩せているせいで実年齢より上に見えるが、顔立ちそのものは驚くほど整っている。汚れを落とせばかなり目立つだろう。なるほど、これで目つきまで悪いとなれば、買った側が「なんか怖い」と返したくなる気持ちもわからなくはない。わからなくはないが、その理屈で売られ続ける人生はひどすぎる。
少年はアルトを睨むように見た。
「……主はおまえだ」
低い声だった。警戒と諦めと、それでもまだ残る反骨が混ざっている。
「命令でもなんでもすればいい」
アルトは一瞬だけ黙って、それから言った。
「わかった」
短い返事だった。もっと気の利いたことを言うべきかとも思ったが、今この場で下手に優しいことを言っても、たぶん信用されない。むしろ薄っぺらく響くだけだろう。だったらまずは、無理に飾らないほうがいい。
奴隷商は契約魔法の準備を始めた。
戦闘奴隷用の契約魔法は、主への反逆を禁じる。命令への服従と、一定の保護を組み合わせた、ひどく一方的な術だ。必要だと理解しながらも、アルトはその術式陣を見るのが好きではなかった。
「名は?」
アルトが尋ねると、少年は少しだけ沈黙してから答えた。
「……カイル」
「そうですか」
アルトはうなずいた。
「僕はアルトです」
カイルはそれには何も返さなかった。だが、その視線は一瞬だけ揺れた。主に名乗られることを、あまり想定していなかったのかもしれない。
やがて術式が起動し、淡い光がカイルの足元から立ち上る。拘束と服従の印が刻まれる。戦闘奴隷の契約は、こうして結ばれた。
それを見届けながら、アルトは胸の内で静かに決めていた。
今はまだ、完全な意味では救えない。
この場で契約を結ぶことしかできない。けれど、少なくともこの人を、これ以上雑に壊させはしない。
双子のために必要な戦力として選んだのは間違いない。けれどそれだけではなかった。目の前で踏みにじられるものを見て、見て見ぬふりをするのは、アルトには無理だった。
契約が終わると、カイルは低く言った。
「……アルト、様」
その声はまだ固い。信用も何もない。ただ、契約に従っただけの声だ。けれど、それでいい。今はまだ、それでいい。
馬車へ戻る道すがら、ミレイアが小さく言った。
「良い選択でした」
「そうでしょうか」
「ええ。荒れていますが、芯は強い」
「やっぱり、そう見えますか」
「あなたほど細かくは読めませんが」
ミレイアはアルトを見た。
「鑑定魔法に届かずとも、十分すぎる感知です」
「曖昧ですけどね」
「曖昧でも、見えるものはあります」
ガレスも短くうなずく。
「戦える目をしている」
「……それなら、よかったです」
サラは馬車のそばで双子を見守っていた。フィオナとルカは、戻ってきたアルトの後ろに立つカイルを見て、少し緊張した顔をしている。
アルトはしゃがみこんで、ふたりへやわらかく言った。
「大丈夫だよ」
ルカが小さく言う。
「この人、つよい?」
「強いと思う」
フィオナはじっとカイルを見たまま、小声で尋ねた。
「……こわい人ですか?」
「ううん」
アルトは首を横に振った。
「たぶん、いっぱい痛い目にあってきただけ」
フィオナの表情が少しだけ変わる。聡い子だ。余計な説明をしなくても、だいたい察したのだろう。
「そっか」
ルカも小さくうなずいた。
そのやり取りを、カイルは無言で見ていた。
まだ何も始まってはいない。信頼もない。情もない。ただ契約でつながっただけだ。けれど、アルトは不思議と、この出会いが無駄にはならない気がしていた。
出立の日は近い。
父が与えたものは少なく、持てるものも限られている。けれど、同行してくれる人がいる。守りたい双子がいる。そして、新たな剣も拾った。
それで十分だと、今はまだ言い切れない。
けれど、少なくとも前へ進むには足りる。
アルトは馬車へ乗り込む前に、一度だけ空を見上げた。春の終わりの空は高く、青かった。そこに続く辺境の道が、これから自分たちをどこへ運ぶのかは、まだわからない。
けれどもう、引き返す気は少しもなかった。
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