41. ただでは頷かない
一時海が荒れた為に目標より数日遅れではあったが、一隻も欠けることなく帰国を果たした。ウィンダムの体調は悪くはなっていなかったが、良くもなっていなかった。埠頭近辺の宿で船旅の汚れを落とし、体裁を整えて王都への道を行く。一行はウィンダムに合わせてゆっくりと進んだ。暑さや船からの解放で身体が楽になった者ばかりではなく、体調を崩す者も出たので、適した速度であったとも言える。ナディーンも二つ目の領に入った際に寝込んでいる。タインは非番になると、ウィンダムの部屋を訪れていた。
ウィンダムは陸に上がり滋養面が改善され、体力は回復している。肋骨や鎖骨の痛みもなくなって、身を起こしている時間が長くなった。足の外傷の経過も良いと見立てられ、歩く練習を始めている。タインはこれを手伝っていた。きつく固定されている右足はまだ痛み、筋力の落ちた身体は思うように動かず、杖の使い方も慣れていない為力の込めどころが定まっていない。まだ長くは歩けなかった。
「骨折というものは、厄介なものだな」
タインに支えられながら長椅子に腰を下ろし、ウィンダムはもどかしいように息を吐いた。タインも勧められて、隣に腰を下ろす。
「どの怪我も同じですよ。治っても寝込んだ分の苦労があるものです」
艦内では海が荒れた日に限らず、寝台から転がり落ちないように縛り付けられていたのだから尚更なのだろうと、タインは少々気の毒に思う。軽い床ずれにもなったのだ。食材の限られる船旅で、悪化しなかったのが幸いである。
「貴女にも寝込む程の怪我の経験が?」
「ええ、まあ。私の時は骨は無事でしたが、まあまあ酷かったので傷痕が残りました」
タインにしてみれば過ぎたこと、特別感傷もなく口にすると、ウィンダムの顔色が悪くなった。タインははっとする。夫婦となれば、肌を晒すのだ。ウィンダムはそれを目にすることになる。想定していなかったことであるから失念していたが、ウィンダムの反応で急に思い出した。貴族女性としては、良い縁談がなくなるほどのことなのだ。気軽に口にしていいものではなかった。さしものウィンダムも、醜い傷痕を見ては怯むだろう。触れる気も、失せるかもしれない。好意を示し続けられていたからいつの間にかそれが当たり前のような感覚になっていたが、その好意を失う可能性に思い至った。
「日常で目にすることはない場所なので迷惑をかけることはないと思いますが……矢張り、身体に傷痕のある女は好ましくないですよね」
取り繕うタインの声は沈み、目線が落ちる。
「何を言っている。残るほどの傷を負っても生き残ってくれたから、私は貴女に出会えたのだ。私はそんな、表面的なことで貴女を厭うことなどない」
では何故そんな顔を、と問おうとしたタインの口が止まった。ウィンダムの表情が険しく、妙な迫力があったのだ。
「タイン。すまない。貴女の意思はできる限り尊重したい。だが矢張り、私は耐えられそうにない。結婚を機に、退役してほしい」
ウィンダムの手がタインの手を掴む。無遠慮とも言える力の強さに戸惑いながらも、タインは理解した。ウィンダムは、この先また、タインが大怪我をする可能性に顔色を変えたのだ。肯定以外は受け入れないとばかりの眼力を真っ向から受けて、タインは暫し息を止め、やがて力を抜くように息を吐いた。そうして帰国するまでにゆっくりと固めていった決断を、音にする。
「わかりました」
ウィンダムは眉間の皺はそのままに、未知の言語に出会ったかのような顔をした。
「なんですか、その顔」
タインは思わず笑みをこぼした。
「い、や。そう簡単に頷くとは思っていなかったのだ。その、本当に?」
タインの手を握る力が緩み、拍子抜けも露わにウィンダムの眉頭が開いた。タインは宥めるように重なっているウィンダムの手を二度叩いて、そっと手を抜く。
「ええ。ですが、時期は第一王女隊の解散時です」
「それは、ああ、構わない。何事もなくば殿下の婚姻は一年程で纏まるだろう。その間に特別危険な公務など入れない筈だ。使節団への参加も、もう必要ない。今回で十分役目を果たしてくださった」
「その代わり」
気を緩めたウィンダムを、タインは声を鋭くして制した。タインの本題はこれからなのだ。
「貴方の護衛の仕事を私に分けてください」
「……どういうことかな」
「国内は譲ります。ですが国外へは私を伴い、警護を任せてほしいんです。特別任務の時と同じです。夫婦という近い位置にいれば、護れる範囲も増えますよね」
「それでは大して変わりが……いや、より危険になる。何故そうなるんだ。私は護衛が欲しくて貴女と婚姻を結ぶのではない」
困惑を滲ませながらも、ウィンダムの拒否は明確だ。タインは表情筋だけで微笑んだ。
「解っています。でも私は、腹を立てているんです」
「……うん?」
「貴方の無茶に」
ウィンダムが固まった。
「いえ、必要だったのだろうことは解っています。ですからそこではありません。それについて行くことが許されない状況に腹を立てていました。似たようなことがあれば、貴方はまた、同じ選択をするのでしょう。また同じ思いをさせられるのかと思うと、腸が煮えくり返ります」
タインの微笑みはただの微笑みではない。凄みを隠しもしない笑みだ。ウィンダムはたじろいで、身体を引いた。
「途中で投げ出されることに怯えて過ごすのは不愉快なので、自力で阻止することに決めました」
「待て、決定はしていない」
「貴方はあの時、言いましたよね。配慮が足りなかったと」
「その、配慮は、そういうことでは」
「ええ、あの時は。でもこの先私が望む配慮は、そういうことです」
「いや、いや、だが、それはおかしいだろう」
「何がです? 貴方を護るということは国益を守るということでもありますから、大変遣り甲斐のある、有意義なことですよ」
「そういうことを言っているのではないことは、解っているだろう」
ウィンダムは焦るあまり有効な言葉を探し出せず、困り果てたように唸る。ややして退役の説得の為に用意していた話を思い出した。
「国内で。次世代の女性騎士を育成するのでは駄目か。これも十分、有意義なことだろう。貴女の身につけた技術も継承され、無駄にはならないのだ」
「いいですね。国内ではそうします」
タインは滑らかに頷く。両立すれば良いのだ。
「私の心の安寧は、守ってくれないのか」
「守りますよ。貴方の傍で。外敵でなくとも、病気や事故はどこにいてもあるでしょう。健康な姿を間近で確認できるんです。それに接待の女性を断る口実にだってなりますよ」
ウィンダムは何も口に含んでいないのに噎せた。
「なっ、何を! 口実などなくとも私は全て断っている!」
「ええ、解っています。諜報を警戒してのことでしょう。ですから私がいれば断るのも容易ですし、追い払います。それでも長期となると辛くなることもあるのでしょうけれど、それこそ夫婦なのですから発散も簡単にでき……」
畳み掛けるべく滑らかに動いていたタインの口が止まった。言い方がまずいことに気付いたのだ。それでも何食わぬ顔で並べ立てれば言い切れただろうが、一度意識してしまえばもう続きが出てこなかった。この場合、騎士団の環境を恨むべきか、男女の機微に触れてこなかったことを悔やむべきか。唐突にヌースラに助けを求めたくなった。ヌースラは最早王都に運ばれてゆくだけであるから、暇を持て余しているはずだ。だがより艶めいたことを伝授される結果になるだけではと思うと、それほど適切ではない気もした。
ウィンダムは呆然とした顔でタインを見ていた。
「貴女は私を性的に口説いているのか」
「…そ、うなりますね」
どう取り繕っても、閨に誘う表現だ。タインはなんとも言えない気恥ずかしさに襲われて、目を逸らした。ウィンダムは眼鏡ごと覆うように片手で額を押さえ、背を丸める。暫く沈黙した後、呻くように言葉が絞り出された。
「そういうことは結婚してからにしてくれ」
「何故ですか」
「私は我慢をしている」
タインは動揺した。そんなに深刻そうに言われると、重大な過ちを犯したかのような気分になる。だがそもそもウィンダムは、これまで幾らか身体的接触を強請ってきている。それはささやかなものではあったが、自分からであれば構わないのかと思うと、理不尽なものを感じる。ただ、我慢の理由ならば見当はつく。ウィンダムは嘗て、言ったのだ。できるだけタインの名誉を守ると。だが、この件に関してはもう手遅れである。
「私は既に傷物とされているのですが」
その手の認識が改まることはない。タインはもう吹っ切れていることを、何をそんなに拘っているのかと、素朴な疑問から出た言葉だった。
「煽っているのか」
「事実を述べたまでです」
ウィンダムの声が地を這うように低くて、タインは上官に報告する騎士の如く背筋を伸ばした。
「貴女は少し男というものを…いやいい。それでも、事実ではないのだから守らせてくれ」
ウィンダムは深く深く、疲れたように溜息をついた。意図せぬこの話題への対処は考えていなかった為に、タインは何も言えない。
「わかった」
重苦しい沈黙が続き、暫くして、ウィンダムは上体を起こした。
「だが殿下を相手に行ったような、ああいう身の呈し方は駄目だ」
ウィンダムは仕切り直すように、渋い顔でタインの目を射るように見る。
「貴方を護るためであっても?」
「私を護るためであっても。────いいかい、私は王女殿下ではないのだ。貴女を愛している、ただの男だ。愛する者を盾に生き残ったら、どんな気持ちになると思う。貴女は良いかもしれない。少なくとも、護りきったという満足感を得られるのだろう。だが残される私は? そういったことを、ちゃんと考えたかい」
「それは……」
タインは言葉に詰まった。考えた、とは言えない。タインの死を覚悟済みの家族の心情を、深く考える必要はなかった。同僚達は何かあっても、今逝くか後で逝くかの違いだと各々心得ている。悲しまないわけではない。親しい者は引きずることもあるかもしれないが、落とし所は知っているのだ。危機に瀕する度に意識していては、いざという時に遅れを取ろうというもの。ナディーンの近衛騎士として、後顧の憂えを持たぬ思考を心がけてきたのだ。
全てを解決する名案だと、すっきりしていた気持ちが萎む。
「要検討ということで」
今急に考えたところで、結論を出せるものではなかった。また、結論がどうあれ、タインの身体は咄嗟に動くように出来上がってしまっている。一朝一夕にどうなる類のものではない。目を泳がせるタインをじっと見ながら、ウィンダムは深く頷いた。
「いいだろう。説得は得意だ」
理性の範疇ではないのだと説明すべきかタインは迷ったが、結論を覆されてはかなわない。今は口を噤むことにした。




