38. お帰りなさい
出港の期日まであと一日というところで、ウィンダムは帰還した。使節団もガーカムの人間も等しく、領主邸全体が安堵に包まれた。明け方の到着であったから、ウィンダムはナディーンの出迎えを断っていて、立哨当番であったタインも迎えることは叶わなかった。タインは非番を待って、ウィンダムの部屋を訪れる。
タインは日々やるべきことに注力するうちに、落ち着きを取り戻していた。だからウィンダムの無事を、ただ素直に喜べると思っていた。喜んで、労って、出立の時の態度を謝ろうと思っていた。寝台に沈んでいるウィンダムと対面するまでは。
ウィンダムはまた、意識を取り戻したばかりの時のように窶れていた。通常より休憩を多く挟む道程であったとしても、骨身にこたえたのだろうことは想像に易い。ただ、その窶れ具合は疲労だけが原因ではなかった。帰路で熱を出したのだ。ナディーンの出迎えを断ったのも、時刻だけが理由ではなかったのだ。
「無茶が祟ったのか、まあ、咳もしにくいですから、何か悪いものを吸い込んだままになっていたのかもしれませんね。これだけ悪条件ばかり揃っていて、悪化しなかったのが不思議なくらいですよ。もう熱は下がっていますから、後は滋養のあるものをたっぷり摂って、出港に備えるだけです」
医者は部屋を出ていく時にそうタインに説明したが、出港まで一日しかない。タインが寝台の傍らに立つと、ウィンダムは目元を緩めた。
「ただいま、タイン。その。怪我は専門外だからね。良い塩梅というものを読み誤ってしまったみたいだ」
ばつが悪そうに眉を下げ、冗談めかすウィンダムの声は存外しっかりしていた。
「タイン? お帰りは言ってくれないのかい」
タインとて、言いたかった。それを言いにきたのだ。そうして無事を喜んで、酷使した身体を労って、仕事の労を労うのだ。
「貴方は」
だがタインの開いた口からは、別の言葉が絞り出された。どこからともなく蘇ってきた身の内の激流を堪えるように、握った拳が震える。
「貴方は私の夫になるのだということを、忘れてやしませんか!」
「わ!? すれるわけがないんだが!?」
ウィンダムの声が驚きで上擦った。
「いいえ忘れてますよ! 賢いから、言語化できるものはなんでも理解したつもりになっているのかもしれませんけどね、でも実際のところは、全っ然解っていないんですよ。仕事が大事なのは解ります。ええ、私だって殿下の警護を邪魔されたら怒り狂いますよ。国を背負っているんですから、仕方がないのも解っています。手を抜いたりなんかしたら、それこそ幻滅ものですよ。でも! こんな、こん、な、ッ、全く想像する余地もなかった方向に人の人生思いっきり捻じ曲げておいて、途中で投げ出すなんて、迷惑なんですよ! どう考えても、迷惑でしょうが!」
「待て! まだ投げ…っ!」
自身の張った声で、ウィンダムは苦悶した。タインははっとして口を噤む。ウィンダムが痛みを逃す呼吸を繰り返すのを見守るうちに、激していた気持ちが急激に萎えていった。
「投げ出したりなんかしないよ、タイン。───随分、不安にさせたのだな。配慮が足りないのだということは、よく解った。私は仕事の成果も、貴女も、両方手に入れる。諦めたりはしない。その為に全力を尽くしている」
落ち着きを取り戻したウィンダムは、ゆっくりと言い聞かせるように言葉を紡ぐ。タインは奥歯を噛み締める。押し込めていたものを吐き出して、幾許か身は軽くなった。だがそれを上回る居た堪れなさが去来した。
「すみません。………八つ当たりを」
タインが漸く紡ぎ出した声は蚊の鳴くような小ささで、その弱々しさが、また羞恥心を刺激する。吐き出すにしても、もっと言い方というものがあった筈だ。タインはウィンダムの視界から消えるように床に膝を突き、ウィンダムを半分覆っている上掛けの端に伏した。歪みきった顔は、人に見せていいようなものではない。
「タイン」
ウィンダムの右手が、手探りでタインの頭を探し当てた。タインは肩を揺らしたが、それ以上は動かなかった。ウィンダムの指の背が、撫でるようにタインの頭の丸みを行き来する。
「本当は抱きしめられたらいいのだが。ままならないな」
「……早く元気になればいいんですよ」
まだ、船旅を控えている。陸路で発熱するような身体で船旅など、と言える状況ではない。
「そうだな」
「……ウェン」
「うん?」
「お帰りなさい」
「ああ、ただいま」
ウィンダムの声音が安心したように和らいだ。タインは益々顔を上げられなくなる。
「もう、こんなことはないようにします」
ウィンダムの手が止まり、再び動き出した時には、撫でる面が指の背から、腹に変わっていた。
「普段の、己を律しきった貴女は気高く、美しいよ。実に魅力的で、誇らしい。だがそうではない貴女の姿を見られるのが私だけだというのは、気分が良いな。とても」
「何を」
反省の弁に見合わない流れに、タインは眉を顰めた。
「私だけではないのかな?」
「い、いえ、そんな。誰も彼もにこんな無様を晒したりは」
タインは反射的に顔を上げた。普段から理不尽を働いていると思われるのは、甚だ心外である。だいたい、こんな状況を作り出せる人間が、そうそういるわけがない。
「なら、私の特権だ。取り上げないでくれ」
辛うじて合うウィンダムの目が妙に嬉しそうで、タインは怯んだ。
「……甘やかさないでください」
「私が甘やかさなくて、誰が甘やかすというのだ。……まさか、ベアード君とは言わないだろう?」
「まさか!」
「では、問題ないな」
問題は、あるのだ。主にタインの矜持と、羞恥心の関係で。ただ、ウィンダムが満足そうで、反論がしにくい。思いも寄らない甘やかな空気に身の置き所をなくしていると、ノックの音が響き、ロチェスターの訪れが告げられた。タインはこれ幸いと返事をし、立ち上がる。
「邪魔をしたか」
ロチェスターの言葉は形ばかりのもので、遠慮なく歩を進めている。
「いえ、どうぞ」
タインは医者が使用していた椅子を勧め、騎士の顔でロチェスターの背後に控えた。




