37. 脆い均衡
イーノックは宿屋の二階の窓から、通りを見下ろしていた。市の立つその四叉路は、どの時間も人通りが多い。グルバハルの女性は貫頭衣の上から日除けの長い布を被っていて、上からではその人相は確認しにくい。それでもグルバハル人だらけであるから、日除け布の下に見えるユールガルのシュミーズドレスは目について、ヌースラの判別は簡単だった。ヌースラはイーノックが指定した四叉路の角の一つに立ち止まり、何かを探すように首を巡らせる。イーノックはそれを確認して、暫くは人の流れを探っていた。第一王女隊の隊服は見かけない。
接触時、エルトンに聞き出してもらったところ、使節団は領主邸で実質軟禁状態にあるのだが、グルバハル人であるヌースラなら比較的自由な行動を許されたので、海軍の伝令と落ち合う為に定時に出されるのだという。その後の時間を少し、自分の為に使っているのだと。それを聞いた時、イーノックは胸を撫で下ろしたものだ。自分の足で探さなくて正解だったと。イーノックの顔を知っているとは限らないが、伝令兵との鉢合わせは嬉しいことではない。
伝令兵や近衛騎士と思しき者が後をつけている様子もないと判断すると、イーノックは借りていた部屋を引き払って外に出る。目的の人物に歩み寄り視認した顔は、確かにヌースラだった。
「ヌースラさん」
そっと声をかけると、ヌースラは身を引いたので、イーノックは咄嗟に手首を掴んだ。逃げられては困る。
「イーノッ」
「しっ、貴女に危害を加える気はありません。少し話を聞いていただけませんか。僕達は今後の身の振り方の件で、協力し合えることがあると思うんです」
慌てたイーノックは片手でヌースラの口を塞ぎ、その耳に潜めた声を早口に流し込む。ヌースラは逡巡するような間を置いて、頷いた。
「手荒な真似をしてすみません」
イーノックはほっとして、それでも警戒を残したままゆっくりとヌースラを解放した。
「いいえ。不用意に叫ぼうとした私が悪いのですわ」
ヌースラは自由を取り戻した手で日除けの布を取り払い、すっかり姿形を現した。
「こうすればよかっただけですのに」
それが合図であったかのように、売り子や通行人の一部が急に俊敏に動いた。男達は慣れた身のこなしでイーノックの両腕を取らえ、地面に押し倒す。
「お話、たっぷり聞かせてくださいな」
日除けの布を被り直しながら、ヌースラは嫣然と微笑んだ。イーノックは縄をかけられながら、呆然とそれを見上げるしかなかった。
イーノックは一般人に扮したガーカム領兵に連行され、領主邸で待つ第一王女隊に引き渡された。取調べは第一王女隊が行うことで合意している。専用の部屋は用意できない為、隊の宿泊している棟の一部屋を拘留場所兼取調室として代用している。
イーノックは喋らなかった。拷問はできない。食事も抜けない。船旅を控えているから、極端に消耗させるようなことはできないのだ。グルバハルにいるうちは口を割らせることは難しいように思えた。クレイグが空の食器を下げる為にイーノックが繋がれている部屋に入った時も、警戒するように目で動作を追うだけで、何を語ろうという気もない様子だった。だが三度目に同じ作業に入った時、イーノックの口が動いた。
「貴方は僕に、恩があるんじゃないですか」
クレイグは食器に伸ばした手を止めた。イーノックは追い詰められた者の目をしているが、光は失っていない。
「なんの話だ」
クレイグは取調べには加わっていないが、会話を禁じられているわけではない。警戒を凝縮した眼差しで応じる。
「恋敵を葬って差し上げたんです。貴方の恩人では」
クレイグの眉が跳ね上がった。イーノックは、この期に及んで逃亡の機会を窺っている。懐柔が可能な相手と見做されたことに、クレイグの矜持が甚く刺激された。
「馬鹿にするな。国益を損ねる輩に感じる恩などない」
ウィンダムが生きていることは匂わせなかった。イーノックがそれを知らないということは、取調べ担当者がこれから尋問に使う手札として温存しているかもしれないからだ。
「貴方は! 嬉しくないんですか! 欲しいものに手が届くようになったんですよ!? 貴方だって、あの人さえいなければ、あの立場にあの人さえいなければ、そう思っていたんじゃないんですか! 思ってたでしょう、ねえ! 隠してたって解りますよ! 本当は嬉しいでしょう! 嬉しいはずですよ!」
イーノックは息を呑んだかと思うと急に立ち上がり、箍が外れたように捲し立てた。同じ場所に引き摺り込もうとでもいうようにクレイグの腕を掴む。クレイグは激昂を堰き止めるように口を閉じ、眼光だけで語った。怒気しかない顔に怯んだイーノックは、すぐに手を離し、勢いを失って元の椅子に座り込んだ。
「国益は、損ないませんよ。僕に任せてください。あの人の代わりは、僕が務められます。そうするつもりだった。そうなる筈だった! ……今からだって遅くない。出港できずに、困っているんでしょう? 僕に交渉させてください。だってもう、僕しかいないじゃないですか」
イーノックは分が悪いと見るや、交渉方法を変える判断力は失っていないようだった。だが、合間で感情と本音が噴出する様は精神の均衡が崩れていることを物語っている。僕しかいない、そう口にするイーノックの顔は笑みの形だ。縋るような、媚びるような、恐れるような、哀しいような。安心して仕事を任せられる人間の顔ではなかった。
クレイグはイーノックの向かいの椅子に腰を下ろした。何かあったのかと顔を覗かせた見張りに食器を任せ、取調べ担当者を呼びに行かせる。苛烈な責め苦を与えずとも、この男は落ちる。犯した罪の重さ、若しくは、ウィンダムの命の重さという責め苦で、潰れそうになっているのだ。




