36. 時間の問題
陸にも海にも、検問が敷かれている。
イーノックはザムル人向けの宿に泊まっていた。ユールガル人とザムル人に、身体的特徴の差異はない。イーノックはザムル訛りの北大陸語も話せる。何より現在ガーカムには、使節団と海軍を除いて正式に入国できるユールガル人はいない。イーノックが主張しなくても、周囲の人間は自然とザムル人として見る。ガーカム領兵が来た時には焦りもしたが、逃げる隙があった。何かあったのかさりげなく宿屋の主人に聞いてみたところ、イーノックが探されているようであった。宿泊客への聞き込みと、宿帳の確認をしていったということだった。
だが今検問を通る勇気はなかった。イーノックの顔を知っている人間が配されているに違いないからだ。だから検問場所に近づかず、堂々と宿泊客の顔をしていれば、数日は誤魔化せるのではないかと思った。これが当たって、今のところ怪しまれてはいない。
ツァマーグは頼れない。ツァマーグとは、単発で手を組んだだけだ。志を同じくしている同士ですらない身であれば、都合よく使われる可能性が高かった。そもそもしくじるにしても、地下階段の仕掛けが発動しない程度の話だったのだ。その場合はただツァマーグは去り、イーノックも素知らぬ顔で帰国するだけだ。発動すれば落ちた者は助からず、どちらに転んでも、イーノックの関与は露見せずに済む計画だった。リスクが限りなく低い計画だから、ほんの少しだけ手を貸したのだ。実行犯が捕まるなど想定外で、その時は何は無くとも行方をくらますことしか考えられなかった。
内陸に逃げれば目立つ。最早ザムル人に紛れて出港する他に逃亡の目はない。旅券が欲しかった。偽造屋はこの国にもいるだろうが、隠れるのが上手な彼らを見つける前にイーノックが見つかってしまうだろう。手持ちの金とて尽きる。八方塞がりだった。
そして数日のうちに帰国するだろうと目していたユールガル海軍が、まだ港にいる。何故帰らないのか。ウィンダムが死したにしても、王女を留めおくわけにはいかない筈であるのに。検問はどうなっているのか。行動範囲を広げても問題はないか。兎に角情報が欲しくて、買い付けに来た商人を装って食事処や土産物の市を巡り、ザムル人とも気安く言葉を交わす。
ユールガル海軍が余分に補給物資を仕入れていて、まだ帰国する気がないことは判った。何故かは判らない。ザムル商船の乗組員、エルトンが、常にない立入検査があり迷惑をしている、ユールガル人の密航なんて俺達になんの得があるんだ、とぼやいている。
「密航といえばよ。あんた知ってるか? 最近密航希望の美女が出没してるだろ?」
さも知ってて当然とばかりの言い方なので、イーノックは話を合わせるように頷いた。商船の用心棒だというエルトンは周囲の目を気にするように首を巡らせ、イーノックと肩を組んで顔を近づけた。職種に相応しく顔も身体も厳つい男は、近くにいるだけで圧がある。イーノックの身体は意図せず強張った。エルトンはそんな反応には慣れているのか、そのままとっておきの秘密を打ち明けるように声を潜める。
「それがユールガル使節団の人間らしいんだよ」
イーノックは驚いて細い目を見開いた。
「なんですかそれ。どこかの国の間者とか、そういう話ですか」
「な。その美女グルバハル人だからよ、そう思うよな。でもどうもそうじゃないらしい。逆にそれを疑われて身の危険を感じるから、グルバハルにいるうちにこっそり逃げ出したいんだと」
イーノックの反応に気をよくしたエルトンは口の滑りがより良くなった。
イーノックは、それはヌースラだと直ぐに理解した。こういったことが起これば真っ先に疑われる立場だ。だが話がおかしい。
「疑われているのに、外、自由に出歩けているんですか?」
「あー、潔白だって、一応は解ってもらえたんだってよ。それでも出たいってんだから、まだなんか雲行き怪しいんだろ。一度でもそんな疑いかけられたら、元通り仲良しこよしとはいかんだろうよ」
それはそうだとイーノックは思った。ヌースラは一度、ハニートラップを疑われていたのだから。あれも、動機は突飛だったが、潔白だった。二度あることは三度ある。行動原理が異なるから、本人の意図しない疑いがいつ発生してもおかしくはない。いくらウィンダムに恩を感じているといっても、疑われ続ければ嫌気も差すだろう。それに当のウィンダムが死んでしまえば、義理立てする必要もなくなる。
「気の毒だよなぁ。使節団にいるってことはユールガルの為に働いてんだろ? なのにグルバハル人だから疑われるなんてな、ひでぇ話だよ。だから船長も同情しちまってよ。でもそのまま乗せるわけにもいかねぇだろ。立入検査されたら一発なんだからよ。そしたらその美女、自分で別人の旅券用意するときたもんだ」
使節団内に疑心暗鬼が生じているのであれば、統率も行き届かなくなっている状況も考えられる。もっと情報が欲しい。どのように探ればいいか悩むイーノックの意識が、急にエルトンの言葉に引き戻される。
「旅券を?」
「そういう伝手があるんだろうな。元は地元民なんだろ」
ヌースラの故郷はガーカムではなかった筈だ。だが交易の盛んな場所は様々な部族が行き来している。どうにかして都合をつけられても、おかしなことではないのかもしれない。
「でもよ、結構な数の船に声かけてるみたいなんだよな。旅券用意する前に捕まっちまわないかな。心配だわ」
エルトンは吐息して、イーノックの肩を解放した。
「こうやって噂を広めていたら、余計捕まりやすくなっちゃうでしょうね」
暗に口を閉じた方がいいと含めると、エルトンは、うわ、そうだわ、と今更ながらに口を片手で覆った。
ヌースラはこういったことに慣れていないのだろう。エルトンの言う通り、こんなやり方では明日にでも捕まってしまう。イーノックはその前に接触できないかと思った。ヌースラは違法な手段を使ってまで逃げようとしているのだ。過酷な尋問なり受けたか何か、そういったことがあって、使節団を恨むとまでいかずともそれに近い心情にはなっているのではないだろうか。そうであるなら、交渉次第ではイーノックに味方をしてくれる可能性がある。旅券が手に入るかもしれない。
ヌースラの目撃時刻は夕方だというので、イーノックは日が傾きかける前に埠頭に向かった。ユールガル海軍が停泊している場所は知っている。入国時にも使った、湾口に一番近い桟橋だ。使節団を受け入れたとはいえ、軍艦を入れるのだ。航路も停泊場所も定められている。陸での行動も制限されているから、海軍の目を避けるのは容易である。
何せ海が陸地深くに入り込むこの大きな港湾は、受け入れられる船の数も多い。商船の荷を保管する倉庫が広範囲に渡って並び、荷車や人夫が忙しく行き来している。ユールガルで着ていた襟のある上衣ではなく、南大陸の気候に適した貫頭衣を着て、ザムル人がグルバハルでよく使っている生成りの頭巾を巻いている今、湾口付近に近寄りさえしなければそうそう目にはつかないだろう。噂を集めたところ、ヌースラも湾口には近づいていないようだ。
だがここまできて、探し歩こうとする足は止まる。
ヌースラはどう理由をつけて、埠頭に出ているのか。本当に疑いは晴れているのか、泳がされているのではないか。
疑問を解消できるほど、情報を集めきれていなかった。だがこれを逃せば、旅券を手に入れる機会は二度とないかもしれないのだ。裏を取る時間がない。イーノックは精神的に追い詰められていた。逃亡者になるなど、初めてのことである。堂々としていれば不必要に怪しまれはしないと解ってはいても、腰に曲刀を佩いたガーカム領兵を見ると心拍数が上がり、神経が削られる。
結局イーノックは埠頭に背を向けた。代わりにザムル人向けの大衆食堂で、エルトンを探す。仲間とカードゲームをしている厳つい男は、直ぐに見つかった。エルトンの活躍の場は船上なので、陸にいる間は大体暇なのだ。エルトンもイーノックに気付き、気さくに声を投げる。
「よお兄弟、商品になりそうなもんは見つかったか」
「ええ、まあぼちぼち」
イーノックはほっと気を緩める。確かエルトンは、怖いものは海上の嵐だけだと言っていた。ならばイーノックが恐れる細々としたことにも、怖じることはないだろう。ひと勝負終わったところを見計らって、耳打ちをした。
「例の美女、やっぱり可哀想なんで、船の都合をつけてあげようと思うんです。でも警戒が厳しくなってる埠頭で会うのは怖いので、呼び出してもらえませんかね」




