待った!
午前九時二十分。
ジャポネ北部、旧研究施設跡。
ぱちん。
将棋の駒が盤上に置かれた。
「……王手じゃ」
「…………」
黒瀬迅は、盤面を見つめていた。
向かいには、小柄な白髪の少女。
ロージャ。
いつも通り、涼しい顔をしている。
「……なあ、師匠」
「何じゃ?」
「俺、今何手目?」
ロージャは少し考えた。
「……十七手目じゃの」
「…………」
迅は盤面を見た。
自分の王将。
その周囲には、敵の駒がずらりと並んでいる。
逃げ道がない。
「……詰みじゃ」
ロージャが言った。
迅はゆっくりと顔を上げた。
「……待った」
「駄目じゃ」
「まだ何も言ってねぇだろ!」
「言ったではないか」
「いや、そうだけどよ!」
ロージャは小さく笑った。
「……ふふ」
迅は盤面を指差した。
「今の一手、なし!」
「駄目じゃ」
「じゃあ、その前の一手!」
「駄目じゃ」
「その前の前!」
「駄目じゃ」
迅は腕を組んだ。
「……師匠」
「何じゃ?」
「将棋って、こんなに難しかったっけ?」
「お主が考えずに指すからじゃ」
「考えてるって!」
「何をじゃ?」
迅は少し黙った。
そして。
「……どうやったら師匠に勝てるか」
ロージャは頷いた。
「……それはよい」
迅の目が輝いた。
「おっ!」
しかし。
「じゃが、目の前の一手しか見ておらぬ」
「…………」
「三手先を考えよ」
迅は眉をひそめた。
「……三手?」
「そうじゃ」
「……一手じゃ駄目?」
「駄目じゃ」
「……二手」
「三手じゃ」
迅は頭をかいた。
「……めんどくせぇ」
ロージャは静かに言った。
「戦いも同じじゃぞ」
迅が顔を上げた。
「……あ?」
「速く動くことばかり考えておると、相手の罠に気づかぬ」
「…………」
「一歩先を見て、二歩先を考え、三歩先に備える」
迅は盤面を見た。
そして。
「……なるほどね」
ロージャは頷いた。
「……うむ」
迅はにやりと笑った。
「……じゃあ、もう一回!」
「よかろう」
ロージャは駒を並べ直した。
迅も手を伸ばす。
「……今度こそ勝つ!」
「そうかの」
「絶対勝つ!」
「……ふむ」
ぱちん。
対局開始。
五分後。
「……詰みじゃ」
「待った!!」
「駄目じゃ」
「早すぎんだろ!!」
廃墟に、迅の叫び声が響いた。
午前十時四十分。
旧研究施設、休憩室。
迅は机に突っ伏していた。
「……くそっ」
将棋、十二連敗。
最後の対局に至っては、わずか十一手で敗北した。
「……おかしいだろ」
ロージャは隣でお茶を飲んでいた。
「……何がじゃ?」
「師匠、強すぎ」
「そうかの」
「絶対なんかズルしてるだろ」
ロージャは首を傾げた。
「……しておらぬぞ」
「……本当か?」
「本当じゃ」
迅はじっと見つめた。
ロージャも見つめ返した。
数秒の沈黙。
そして。
「……まあ、いっか」
迅は椅子にもたれた。
ロージャは小さく笑った。
「……ふふ」
そのとき。
ぐうううう。
迅の腹が鳴った。
「……腹減った」
ロージャは顔を上げた。
「……そうか」
「おう」
「……ふむ」
ロージャは少し考えた。
そして、机の下から小さな包みを取り出した。
「……ほれ」
迅の目が輝いた。
「……お!」
包みの中には、肉まんが入っていた。
湯気が立っている。
「……マジ!?」
「食うがよい」
迅は笑った。
「師匠、最高!」
肉まんを受け取る。
そして。
「いただきまーす!」
大きくかじった。
「…………」
数秒後。
迅の動きが止まった。
「…………」
ロージャは静かにお茶を飲んでいた。
「……どうじゃ?」
迅はゆっくりと顔を上げた。
「…………」
そして。
「……かっっっっら!!」
絶叫した。
「辛ぇぇぇぇ!!」
椅子から飛び上がる。
「水! 水!!」
ロージャは小さく笑った。
「……ふふ」
迅は机の上の水筒を掴んだ。
蓋を開ける。
一気に飲む。
「……っはぁ!!」
ようやく息をついた。
「……師匠!!」
ロージャは首を傾げた。
「……何じゃ?」
迅は肉まんを指差した。
「何入れた!?」
ロージャは静かに答えた。
「……唐辛子じゃ」
「入れすぎだろ!!」
「少しだけじゃ」
「少しの量じゃねぇって!!」
ロージャは小さく笑った。
「……ふふふ」
迅は目を細めた。
「……お前、わざとだろ」
「…………」
ロージャは少し黙った。
そして。
「……すまぬ」
軽く頭を下げた。
「すまぬ、すまぬ」
「軽っ!!」
ロージャはもう一度頭を下げた。
「……すまぬ、すまぬ」
「回数増やせばいいってもんじゃねぇぞ!」
「……すまぬ、すまぬ、すまぬ」
「そういうことじゃねぇ!!」
ロージャはとうとう声を出して笑った。
「……ふふっ」
迅は数秒黙った。
そして。
「……ははっ!」
つられて笑った。
「……ったく、しょうがねぇ師匠だな!」
ロージャは目を細めた。
「……そうかの」
迅は肉まんを見た。
「……これ、どうすんの?」
「食うがよい」
「無理だろ!!」
ロージャは机の下から、もう一つ包みを取り出した。
「……では、こちらじゃ」
迅は眉をひそめた。
「……また辛ぇやつ?」
「今度は普通じゃ」
「……本当か?」
「本当じゃ」
迅は疑いながら受け取った。
小さくかじる。
「…………」
甘辛い肉汁。
柔らかい生地。
普通の肉まんだった。
「……うめぇ」
ロージャは頷いた。
「……そうじゃろ」
迅は笑った。
「……最初からこっち出せよ!」
「それでは面白くなかろう」
「俺は面白くねぇんだよ!!」
ロージャは小さく笑った。
「……ふふ」
迅も笑った。
「……ははっ!」
しばらく、二人の笑い声が続いた。
そして。
迅はふと、ロージャを見た。
「……なあ、師匠」
「何じゃ?」
「……お前、結構悪戯好きだよな」
ロージャは少し考えた。
「……そうかの」
「絶対そうだろ」
「……ふむ」
迅は肉まんをかじった。
「……でも、まあ」
ロージャが顔を上げる。
「……何じゃ?」
迅は笑った。
「……面白ぇから、いいけどな」
ロージャは少しだけ目を細めた。
そして。
「……そうか」
静かに頷いた。
「……それは良かったの」
同日。
午後零時三十分。
ジャポネ無宗教軍、第七駐屯基地。
「……おい、聞いたか?」
食堂の一角。
数人の兵士たちが、声を潜めて話していた。
「……何を?」
「三軍合同演習の話だよ」
「……ああ、あれか」
「どうやら、本当に動いてるらしいぞ」
「マジか?」
「まだ正式発表じゃねぇけどな」
その会話を、ラフバ・エラーが聞いていた。
「…………」
ゆっくりと振り返る。
「……おい」
兵士たちが顔を上げた。
「……何だ?」
ラフバは笑った。
「……合同演習って、いつだ?」
兵士は肩をすくめた。
「知らねぇよ。まだ噂だ」
「……そうか」
ラフバは少し考えた。
そして。
「……楽しみだな!」
兵士は苦笑した。
「お前、何が楽しみなんだよ」
ラフバは拳を握った。
「強ぇ奴と戦えるだろ!」
「……まあ、そうかもしれねぇけど」
ラフバは笑った。
「ははっ! 最高じゃねぇか!」
そのとき。
「……ラフバ」
背後から声がした。
振り返ると、アギが立っていた。
「……何だ?」
アギは端末を見せた。
「……少し、気になることがあります」
ラフバは首を傾げた。
「……何が?」
アギは静かに言った。
「合同演習についてです」
「……お?」
ラフバの目が輝いた。
アギは続けた。
「どうやら、軍の上層部でも話し合いが進んでいるようです」
「……マジか!?」
「まだ確定ではありませんが」
ラフバは笑った。
「……よっしゃ!」
アギはため息をついた。
「……ただし」
「ん?」
「合同演習は、単なる戦闘訓練ではありません」
ラフバは首を傾げた。
「……そうなのか?」
アギは頷いた。
「三軍の連携確認や、情報共有、戦術の検証なども目的になります」
ラフバは少し考えた。
そして。
「……つまり?」
アギは静かに答えた。
「……協力するための訓練です」
ラフバは笑った。
「なるほどな!」
アギは少し安心した。
「……分かってくれましたか?」
ラフバは拳を握った。
「じゃあ、協力して強ぇ奴を倒すんだな!」
「……違います!!」
食堂に、アギの声が響いた。
同日。
キリスト教軍、東方方面軍本部。
巨大な会議室。
白を基調とした軍服を着た将校たちが、円卓を囲んでいた。
中央には、立体映像。
三つの軍の紋章が表示されている。
キリスト教軍。
仏教軍。
無宗教軍。
一人の将校が口を開いた。
「……三軍合同演習についてですが」
別の将校が頷いた。
「……話は聞いている」
「無宗教軍から、正式な打診があったようです」
「……ほう」
将校たちは顔を見合わせた。
「……しかし、無宗教軍か」
「戦力も資金も乏しい軍だ」
「合同演習を行う価値があるのか?」
そのとき。
一人の若い将校が口を開いた。
「……私は、価値があると思います」
周囲が振り返る。
「……理由は?」
若い将校は端末を操作した。
映し出されたのは、旧市街での戦闘記録。
黒髪の少年。
赤髪の青年。
刀を持つ少女。
「……この三人です」
将校たちが画面を見つめた。
「……何者だ?」
「無宗教軍の第十三混成班です」
「……ほう」
若い将校は続けた。
「未覚醒でありながら、アリス教軍の機械兵三体を撃破しています」
「……未覚醒で?」
「はい」
将校たちの表情が変わった。
「……興味深いな」
「確かに、普通ではない」
若い将校は頷いた。
「合同演習が実現すれば、彼らの実力を直接確認できるかもしれません」
一人の将校が静かに笑った。
「……なるほど」
そして。
「……面白くなりそうだ」
会議室に、静かなざわめきが広がった。
同日。
仏教軍、中央司令部。
広大な庭園に囲まれた施設。
その一室で、数人の軍幹部が会議を行っていた。
「……三軍合同演習ですか」
一人の将校が呟いた。
「はい」
別の将校が頷いた。
「キリスト教軍、無宗教軍との共同訓練です」
「……なるほど」
将校は少し考えた。
「……悪くない話ですね」
「そうお考えですか?」
「ええ」
将校は静かに言った。
「アリス教軍との緊張が続く以上、他軍との連携は必要です」
周囲の幹部たちが頷いた。
「……確かに」
「ただし、政治的な問題もあります」
「……そうですね」
そのとき。
別の将校が端末を操作した。
画面に、一人の少女の顔が映し出される。
アギ・ハワー。
「……この者をご存じですか?」
将校が顔を上げた。
「……アギ・ハワー?」
「はい」
「……もちろんです」
将校は静かに頷いた。
「我が軍でも、非常に優秀な人材として知られています」
「現在は、無宗教軍の第十三混成班に所属しています」
「……そうでしたね」
将校は少し考えた。
そして。
「……合同演習が実現すれば、彼女の成長も確認できますね」
別の将校が頷いた。
「はい」
将校は小さく微笑んだ。
「……楽しみです」
会議は、静かに続いていった。
午後三時。
旧研究施設跡。
「……おらっ!」
迅の拳が、空を切った。
ロージャは、ほんの少し体を傾けただけで避ける。
「……遅いの」
「くそっ!」
迅は踏み込む。
右拳。
左拳。
回し蹴り。
しかし。
「……甘いの」
トン。
ロージャの指先が、迅の額に触れた。
「……うおっ!?」
迅は勢いを止められず、地面を転がった。
「……いってぇ!」
ロージャは腕を組んだ。
「……まだまだじゃの」
迅は笑った。
「……ははっ!」
立ち上がる。
「……もう一回!」
ロージャは頷いた。
「よかろう」
迅は構えた。
しかし。
今度は、すぐに動かなかった。
ロージャを見つめる。
肩。足。視線。呼吸。
そして。
「…………」
少しだけ、何かが分かった気がした。
迅はゆっくりと踏み込んだ。
ロージャの右手が、わずかに動く。
その瞬間。
迅は左へ回り込んだ。
「……そこだ!」
拳を伸ばす。
しかし。
「……ふむ」
ロージャは静かに避けた。
迅の拳が空を切る。
「……くそっ!」
ロージャは小さく頷いた。
「……今のは悪くない」
迅は顔を上げた。
「……マジ?」
「うむ」
ロージャは続けた。
「少しずつ、相手を見るようになってきたの」
迅は笑った。
「……だろ?」
「じゃが、まだ足りぬ」
「……分かってるって!」
ロージャは静かに言った。
「……よいか、迅」
「ん?」
「速さは、お主の武器じゃ」
「……おう」
「じゃが、速さだけでは勝てぬ相手もおる」
迅は少し黙った。
昨日までの戦闘。
重力を操る超越者。
自分の拳が届かなかった相手。
「…………」
ロージャは続けた。
「だからこそ、考えるのじゃ」
迅は顔を上げた。
「……考える?」
「そうじゃ」
ロージャは小さく頷いた。
「相手が何をするのか」
「…………」
「どうすれば、届くのか」
迅は拳を握った。
「…………」
そして。
「……なるほどね」
にやりと笑った。
「……じゃあ、もう一回!」
ロージャは微笑んだ。
「……うむ」
夕暮れ。
旧研究施設跡。
ぱちん。
将棋の駒が盤上に置かれた。
「……王手じゃ」
迅は盤面を見た。
「…………」
ロージャは静かにお茶を飲んでいる。
迅は少し考えた。
そして。
「……待った」
「駄目じゃ」
「一回だけ!」
「駄目じゃ」
「頼むって!」
ロージャは小さく笑った。
「……ふふ」
迅は頭をかいた。
「……くそっ」
盤面を見つめる。
逃げ道。
相手の駒。
自分の駒。
三手先。
「…………」
迅はゆっくりと駒を動かした。
ぱちん。
ロージャの目が、わずかに動いた。
「……ほう」
迅は笑った。
「……どうよ?」
ロージャは盤面を見た。
そして。
「……悪くないの」
迅の目が輝いた。
「……お!」
ロージャは駒を動かした。
ぱちん。
迅はすぐには指さなかった。
考える。
もう一度、考える。
そして。
ぱちん。
ロージャは小さく頷いた。
「……ふむ」
数手後。
「……詰みじゃ」
迅は固まった。
「…………」
ロージャは静かにお茶を飲んだ。
迅は盤面を見た。
そして。
「……ははっ!」
笑った。
「……また負けた!」
ロージャは小さく頷いた。
「そうじゃの」
迅は笑った。
「……でも」
ロージャが顔を上げる。
「……何じゃ?」
迅は盤面を指差した。
「……今日は、結構粘っただろ?」
ロージャは少し考えた。
そして。
「……うむ」
小さく頷いた。
「……前よりは、よくなった」
迅は笑った。
「……だろ!?」
ロージャは静かに言った。
「……じゃが、まだまだじゃ」
「分かってるって!」
迅は駒を並べ直した。
「……もう一回!」
ロージャは小さく微笑んだ。
「……よかろう」
ぱちん。
新しい対局が始まった。
夕日が、廃墟を赤く染めていた。
二人の影が、長く伸びる。
迅は盤面を見つめた。
そして。
「……なあ、師匠」
「何じゃ?」
迅は笑った。
「……将棋って、結構面白ぇな」
ロージャは少しだけ目を細めた。
「……そうか」
静かに頷いた。
「……それは良かったの」
夜。
第七駐屯基地、宿舎。
「……おい、迅!」
ラフバが声をかけた。
迅はベッドに寝転がっていた。
「……ん?」
ラフバは笑った。
「合同演習の話、聞いたか!?」
迅は顔を上げた。
「……ああ」
「楽しみだな!」
迅は笑った。
「……だな」
ラフバは拳を握った。
「俺、絶対勝つからな!」
迅も笑った。
「……俺が先だろ」
「はぁ!? 俺だ!」
「俺!」
「俺!!」
二人は睨み合った。
そのとき。
「……静かにしてください!」
隣の部屋から、アギの声が響いた。
迅とラフバは顔を見合わせた。
そして。
「……ははっ!」
「……はははっ!」
二人は笑った。
まだ見ぬ強敵。
キリスト教軍。
仏教軍。
そして、世界に名を轟かせる超越者たち。
その存在を思うだけで、胸が高鳴る。
迅は天井を見上げた。
「……なあ、ラフ」
「ラフバだ」
「……俺ら、もっと強くなろうぜ」
ラフバは笑った。
「……当たり前だろ」
迅も笑った。
「……だな」
窓の外。
巨大な月が、夜空に浮かんでいた。
世界は広い。
強い奴は、まだまだいる。
そして。
その全てが、これから待っている。
迅は小さく呟いた。
「……楽しみだな」
ラフバも笑った。
「……ああ」
二人の笑い声が、夜の宿舎に響いた。
次回予告
ついに、三軍合同演習の正式な開催が発表される。
キリスト教軍、仏教軍、無宗教軍。
三つの軍が一堂に会する大規模演習。
迅とラフバは強敵との戦いを楽しみにし、アギは班長として準備に追われる。
一方、各軍では演習に向けた代表選抜が始まっていた。
そして、三人の前に新たな強敵たちが姿を現す。




