第03話 名前がない ②
翌日、カイは港町冒険者ギルドの中にいた。
まず目につくのは大きな依頼掲示板だ。採集、護衛、荷役、調査、討伐。紙の大きさも色も揃わないまま、空いた場所へ継ぎ足されている。奥に長い受付台があって、その向こうは帳簿棚と小さな引き出しが壁一面だった。
右手の壁には何十枚もの木札。名前と、等級らしい記号が入っている。
名前が縦に並んだ壁を、前にも見たことがある。向こうの拠点にも、七人の名前を書いた紙が貼ってあった。
この壁に、カイの札はない。
昨日までは、それで困らなかった。依頼を受けたのはセラで、報酬を受け取るのもセラだ。カイは働いただけで、紙のどこにも入っていない。
今日は受付台の正面に立っている。たった一歩だが、昨日よりこの場所の中へ入っていた。紙の方へ、という意味で。
受付係の女性が、机の上に広げた書類を一枚ずつ確かめていく。後ろでまとめた髪に、白いシャツと濃色のベスト。声も表情も柔らかいが、書類を扱う手には迷いがない。
昨日の水路調査報告、簡易地図、セラが書いたらしい補足。最後に帳簿を開いて、印を押す。ぽん、と乾いた音がした。
「水路調査、完了です」
受付係は帳簿へ何かを書き込んで、小さな革袋を机に置いた。ちゃり、と中で硬貨が鳴る。
セラが袋を受け取ると、受付係は報告書を達成済みの束へ移して、そのまま次の帳簿へ手を伸ばした。
カイは待った。何となくではなく、次に自分の分が出てくると思っていたからだ。
一秒、二秒。受付係はもう別のページを開いている。
横にいたセラの方が先に気づいた。
「あの、カイの分は」
受付係のペンが止まる。
「カイさん、ですか」
「はい」
「申し訳ありません。登録がないので、記録には残りません」
返事が早かった。その早さからして、たぶん珍しい問題でもないのだろう。
カイは帳簿を見た。依頼番号、水路調査、達成、受注者セラ、報酬。そこに自分の名前はない。
昨日、確かに働いた。水路の沈みを見つけて、漏水箇所を探して、点検道を使って、水を逃がす溝を作った。その全部が、自分の中では昨日の出来事として残っている。
だが帳簿の上では存在していない。
働いたことと、記録にいることは別。
これまで経験したことのない種類の障害だった。敵なら倒せる。罠なら避ける。地形なら読む。だが紙は。
かなり殴りにくいな、と思った。
「じゃあ登録すればいいんだよね」
セラが言う。カイも頷いた。それで解決する。その時点では、本当にそう思っていた。
差し出されたのは一枚の申請書だった。上には小さなギルド章、下にはいくつもの記入欄がある。
氏名または通称。出身地。現住所。所属。身元照会先。保証人。
多いな、とは思った。ただ、内容そのものはおかしくない。EIDOLON FRONTIERにも登録画面はあったし、所属や拠点を設定する項目もあった。
だから最初の欄に関しては迷わなかった。
カイ。一文字ずつ、紙へ書く。
問題は、その次だった。
出身地。ペン先が止まる。森。違う。あそこは目を覚ました場所であって、出身地ではない。EIDOLON FRONTIER。もっと違う。国でも町でも村でもない。
空欄。
次は現住所。昨夜はアルノー家の工房の二階に泊めてもらったが、それを自分の住所と呼んでいいかは別の話だ。少なくとも、勝手に書くものではない気がする。
空欄。所属、なし。身元照会先、なし。保証人、なし。
最後まで来たところで、カイはペンを置いた。
置いたつもりが、指が軸から離れなかった。何か書き足せるものがあるんじゃないかと、もう一度上から読み直している自分に気づいて、やめた。
上に、カイ。その下に白紙が五行。
紙が思っていたより重い。そんなことがあるはずはないのに、持ち上げるのが億劫だった。
昨日までだって、ないものは分かっているつもりだった。家がない。仕事がない。金がない。この世界で知っている人間もほとんどいない。
だが紙に項目として並べられると、さらに増える。出身。住所。所属。照会先。保証人。
ないものって、数えると増えるんだな。
妙な感心をしている場合ではないのだろうが、本当にそうだった。
紙を受け取った受付係が、そこで止まった。まず紙、次にカイ、もう一度、紙。口にされる前から分かる程度には、分かりやすい反応だった。
「身元照会先は、どなたも」
「いない」
「この町の方でなくても構いません。どこの町の、どなたでも」
そこだけ、一瞬、答えが遅れた。
レイン。ミア。ガレス。ノエル。エリオ。ユナ。
いる。いや、いた。自分を知っていた人たちだ。名前だけではない。どんな場所で足を止めるか、怪我を軽く見る癖、地図のどこを先に見るか、撤退判断を出す時の声。それくらいまで知っていた。
ただ、ここにはいない。
「いない」
受付係はそれ以上追及せず、代わりに一番上の欄を見た。
「お名前は、本名でよろしいですか」
そこで、思考が止まった。
本名。最初に浮かぶのは、やはりカイだった。KAI。四千六百十七時間以上、呼ばれ続けた名前。
それ以外。何かあるはずだ、と探す。
だが、何も出てこない。忘れているという感覚とも違って、ただ、そこに置けるものがない。
「カイでいい」
受付係の顔が変わった。驚いたというより、頭の中に新しい確認項目が一つ増えたような顔だった。
申請書を持って受付台の奥へ消えていく後ろ姿ではなく、カイは机に残ったインク跡を見ていた。カイ、と一行。その下は白紙。
入ってきた時に、掲示板の端で見た紙を思い出す。
身元不明者・漂着者に関する照会
あの時はほとんど他人事だった。この町にはそういう人間もいるのだろう、その程度。でも今、紙にすると分かりやすい。
どこから来たのか証明できない。誰なのか証明できない。誰に聞けば自分が自分だと証明できるのか、それもない。
俺も、そっちか。
「ねえ」
セラが覗き込む。申請書の控えを見て、黙った。
「……全部空いてる」
「ああ」
「全部?」
「名前以外」
セラが笑いかけて、途中でやめた。たぶん、紙を見たせいだ。
その時、受付係が戻ってきた。
「駄目だった?」
セラの方が先に聞く。予想通りだったので、カイは驚かなかった。
「申し訳ありません。このままでは登録できません」
受付係は困ったように、それでもはっきり言った。
「名前だけでは、身元の確認にならないんです」
それはそうだ、とカイは思う。
カイ。紙に書けるし、呼ばれれば振り向く。だが、その名前がどこで生まれ、何をして、誰と繋がっている人間なのかは何も証明しない。名前だけでは足りない。当然の話だった。
それなのに、引っかかった。
「保証人がいればいいの?」
セラが聞いた。その瞬間、顔が変わる。分かりやすく、何かを思いついた顔だった。
「父さん」
カイは止めなかった。止めても行くだろう、というのは、この二日で分かっていた。
「保証人になって」
「駄目だ」
早かった。工具を動かす手すら止まっていない。
「まだ最後まで言ってない」
「最後まで聞いても同じだ」
「昨日も働いたし」
「働いたな」
「借りも返そうとしてる」
「知ってる」
「変なこともしない」
そこでようやく父の手が止まった。
「それはまだ分からん」
「そこは信じてよ」
「会って二日だぞ」
「……」
父は工具を置いて、今度は正面からカイを見た。
「それと。働くことと、身元を保証することは別だ」
また、別だ。昨日は働いたことと記録、今日は信用と身元保証。別が多いな、この世界は。
だが、理屈は分かる。
「悪いやつだと言ってるわけじゃない」
父は続けた。
「知らない、と言ってる」
拒絶ではない。嫌っているわけでもないし、信用していないと決めつけているわけですらない。ただ、知らない。だから保証しない。かなり筋が通っている。
「それが普通だと思う」
カイが言うと、セラが勢いよく振り返った。
「なんであんたまでそっちなの」
「そっち?」
「断られてる側でしょ」
「だから?」
「普通、ちょっとは嫌じゃない?」
少し考える。
「一晩泊めただけの相手を、身元まで保証する方がおかしい」
「ほらな」
父が言う。
「本人が一番分かってる」
「二人とも理屈っぽい!」
「お前が雑なんだ」
「今それ関係ないでしょ!」
声は大きいが、空気は悪くない。本気で険悪なら、こんな速度で会話は続かないだろう。
途中で一度、セラがカイを見た。怒っている。父に。カイにも。でも、そもそも自分のために怒っている。
何でそこまで、と考えて、すぐに一つの答えが浮かんだ。
ついで、か。本人がそう言っていた。なら、たぶんそういうことだろう。
工房を出たあと、セラはしばらく不満そうに歩いていた。
「……ごめん」
「何が」
「父さん」
「正しいだろ」
「でも」
「俺でも断る」
「自分なのに?」
「俺が何者か、俺も説明できない」
口にしてから、引っかかった。自分のことなのに説明できない。変な話だ。
セラも歩く速度を落とした。
「……それ、平気なの」
「何が」
「誰も、カイのこと知らないって」
「……」
その言葉だけは、すぐには返せなかった。
誰も知らない。違う。レイン。ミア。ガレス。ノエル。エリオ。ユナ。知っていた。名前を、仕事の癖を、判断を、怪我を隠すことを、地図のどこを見るかを。何を嫌い、何なら任せられるかを。
同じ拠点へ戻って、同じ地図を見て、同じ時間を使った。それは、なくなったことにはならない。
ただ、ここには誰もいない。
「今困ってるのは、仕事を受けられないことだ」
セラがこちらを見る。
「そういう話にするんだ」
「今はな」
「……そっか」
聞くのはやめた。
大丈夫、とも言わない。寂しいのか、とも。帰りたいのか、とも。ただ、それまで半歩前を歩いていたセラの速度が、落ちて並んだ。
カイも何も言わなかった。ありがたい、とは思わなかった。ただ、歩きやすくなった。そういうことにした。




