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LOST LOG 4617 Re:Log  作者: 臥裳斗真


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第03話 名前がない ②

 翌日、カイは港町冒険者ギルドの中にいた。


 まず目につくのは大きな依頼掲示板だ。採集、護衛、荷役、調査、討伐。紙の大きさも色も揃わないまま、空いた場所へ継ぎ足されている。奥に長い受付台があって、その向こうは帳簿棚と小さな引き出しが壁一面だった。


 右手の壁には何十枚もの木札。名前と、等級らしい記号が入っている。


 名前が縦に並んだ壁を、前にも見たことがある。向こうの拠点にも、七人の名前を書いた紙が貼ってあった。


 この壁に、カイの札はない。


 昨日までは、それで困らなかった。依頼を受けたのはセラで、報酬を受け取るのもセラだ。カイは働いただけで、紙のどこにも入っていない。


 今日は受付台の正面に立っている。たった一歩だが、昨日よりこの場所の中へ入っていた。紙の方へ、という意味で。


 受付係の女性が、机の上に広げた書類を一枚ずつ確かめていく。後ろでまとめた髪に、白いシャツと濃色のベスト。声も表情も柔らかいが、書類を扱う手には迷いがない。


 昨日の水路調査報告、簡易地図、セラが書いたらしい補足。最後に帳簿を開いて、印を押す。ぽん、と乾いた音がした。


「水路調査、完了です」


 受付係は帳簿へ何かを書き込んで、小さな革袋を机に置いた。ちゃり、と中で硬貨が鳴る。


 セラが袋を受け取ると、受付係は報告書を達成済みの束へ移して、そのまま次の帳簿へ手を伸ばした。


 カイは待った。何となくではなく、次に自分の分が出てくると思っていたからだ。


 一秒、二秒。受付係はもう別のページを開いている。


 横にいたセラの方が先に気づいた。


「あの、カイの分は」


 受付係のペンが止まる。


「カイさん、ですか」


「はい」


「申し訳ありません。登録がないので、記録には残りません」


 返事が早かった。その早さからして、たぶん珍しい問題でもないのだろう。


 カイは帳簿を見た。依頼番号、水路調査、達成、受注者セラ、報酬。そこに自分の名前はない。


 昨日、確かに働いた。水路の沈みを見つけて、漏水箇所を探して、点検道を使って、水を逃がす溝を作った。その全部が、自分の中では昨日の出来事として残っている。


 だが帳簿の上では存在していない。


 働いたことと、記録にいることは別。


 これまで経験したことのない種類の障害だった。敵なら倒せる。罠なら避ける。地形なら読む。だが紙は。


 かなり殴りにくいな、と思った。


「じゃあ登録すればいいんだよね」


 セラが言う。カイも頷いた。それで解決する。その時点では、本当にそう思っていた。


 差し出されたのは一枚の申請書だった。上には小さなギルド章、下にはいくつもの記入欄がある。


 氏名または通称。出身地。現住所。所属。身元照会先。保証人。


 多いな、とは思った。ただ、内容そのものはおかしくない。EIDOLON FRONTIERにも登録画面はあったし、所属や拠点を設定する項目もあった。


 だから最初の欄に関しては迷わなかった。


 カイ。一文字ずつ、紙へ書く。


 問題は、その次だった。


 出身地。ペン先が止まる。森。違う。あそこは目を覚ました場所であって、出身地ではない。EIDOLON FRONTIER。もっと違う。国でも町でも村でもない。


 空欄。


 次は現住所。昨夜はアルノー家の工房の二階に泊めてもらったが、それを自分の住所と呼んでいいかは別の話だ。少なくとも、勝手に書くものではない気がする。


 空欄。所属、なし。身元照会先、なし。保証人、なし。


 最後まで来たところで、カイはペンを置いた。


 置いたつもりが、指が軸から離れなかった。何か書き足せるものがあるんじゃないかと、もう一度上から読み直している自分に気づいて、やめた。


 上に、カイ。その下に白紙が五行。


 紙が思っていたより重い。そんなことがあるはずはないのに、持ち上げるのが億劫だった。


 昨日までだって、ないものは分かっているつもりだった。家がない。仕事がない。金がない。この世界で知っている人間もほとんどいない。


 だが紙に項目として並べられると、さらに増える。出身。住所。所属。照会先。保証人。


 ないものって、数えると増えるんだな。


 妙な感心をしている場合ではないのだろうが、本当にそうだった。


 紙を受け取った受付係が、そこで止まった。まず紙、次にカイ、もう一度、紙。口にされる前から分かる程度には、分かりやすい反応だった。


「身元照会先は、どなたも」


「いない」


「この町の方でなくても構いません。どこの町の、どなたでも」


 そこだけ、一瞬、答えが遅れた。


 レイン。ミア。ガレス。ノエル。エリオ。ユナ。


 いる。いや、いた。自分を知っていた人たちだ。名前だけではない。どんな場所で足を止めるか、怪我を軽く見る癖、地図のどこを先に見るか、撤退判断を出す時の声。それくらいまで知っていた。


 ただ、ここにはいない。


「いない」


 受付係はそれ以上追及せず、代わりに一番上の欄を見た。


「お名前は、本名でよろしいですか」


 そこで、思考が止まった。


 本名。最初に浮かぶのは、やはりカイだった。KAI。四千六百十七時間以上、呼ばれ続けた名前。


 それ以外。何かあるはずだ、と探す。


 だが、何も出てこない。忘れているという感覚とも違って、ただ、そこに置けるものがない。


「カイでいい」


 受付係の顔が変わった。驚いたというより、頭の中に新しい確認項目が一つ増えたような顔だった。


 申請書を持って受付台の奥へ消えていく後ろ姿ではなく、カイは机に残ったインク跡を見ていた。カイ、と一行。その下は白紙。


 入ってきた時に、掲示板の端で見た紙を思い出す。


 身元不明者・漂着者に関する照会


 あの時はほとんど他人事だった。この町にはそういう人間もいるのだろう、その程度。でも今、紙にすると分かりやすい。


 どこから来たのか証明できない。誰なのか証明できない。誰に聞けば自分が自分だと証明できるのか、それもない。


 俺も、そっちか。


「ねえ」


 セラが覗き込む。申請書の控えを見て、黙った。


「……全部空いてる」


「ああ」


「全部?」


「名前以外」


 セラが笑いかけて、途中でやめた。たぶん、紙を見たせいだ。


 その時、受付係が戻ってきた。


「駄目だった?」


 セラの方が先に聞く。予想通りだったので、カイは驚かなかった。


「申し訳ありません。このままでは登録できません」


 受付係は困ったように、それでもはっきり言った。


「名前だけでは、身元の確認にならないんです」


 それはそうだ、とカイは思う。


 カイ。紙に書けるし、呼ばれれば振り向く。だが、その名前がどこで生まれ、何をして、誰と繋がっている人間なのかは何も証明しない。名前だけでは足りない。当然の話だった。


 それなのに、引っかかった。


「保証人がいればいいの?」


 セラが聞いた。その瞬間、顔が変わる。分かりやすく、何かを思いついた顔だった。


「父さん」


 カイは止めなかった。止めても行くだろう、というのは、この二日で分かっていた。


「保証人になって」


「駄目だ」


 早かった。工具を動かす手すら止まっていない。


「まだ最後まで言ってない」


「最後まで聞いても同じだ」


「昨日も働いたし」


「働いたな」


「借りも返そうとしてる」


「知ってる」


「変なこともしない」


 そこでようやく父の手が止まった。


「それはまだ分からん」


「そこは信じてよ」


「会って二日だぞ」


「……」


 父は工具を置いて、今度は正面からカイを見た。


「それと。働くことと、身元を保証することは別だ」


 また、別だ。昨日は働いたことと記録、今日は信用と身元保証。別が多いな、この世界は。


 だが、理屈は分かる。


「悪いやつだと言ってるわけじゃない」


 父は続けた。


「知らない、と言ってる」


 拒絶ではない。嫌っているわけでもないし、信用していないと決めつけているわけですらない。ただ、知らない。だから保証しない。かなり筋が通っている。


「それが普通だと思う」


 カイが言うと、セラが勢いよく振り返った。


「なんであんたまでそっちなの」


「そっち?」


「断られてる側でしょ」


「だから?」


「普通、ちょっとは嫌じゃない?」


 少し考える。


「一晩泊めただけの相手を、身元まで保証する方がおかしい」


「ほらな」


 父が言う。


「本人が一番分かってる」


「二人とも理屈っぽい!」


「お前が雑なんだ」


「今それ関係ないでしょ!」


 声は大きいが、空気は悪くない。本気で険悪なら、こんな速度で会話は続かないだろう。


 途中で一度、セラがカイを見た。怒っている。父に。カイにも。でも、そもそも自分のために怒っている。


 何でそこまで、と考えて、すぐに一つの答えが浮かんだ。


 ついで、か。本人がそう言っていた。なら、たぶんそういうことだろう。


 工房を出たあと、セラはしばらく不満そうに歩いていた。


「……ごめん」


「何が」


「父さん」


「正しいだろ」


「でも」


「俺でも断る」


「自分なのに?」


「俺が何者か、俺も説明できない」


 口にしてから、引っかかった。自分のことなのに説明できない。変な話だ。


 セラも歩く速度を落とした。


「……それ、平気なの」


「何が」


「誰も、カイのこと知らないって」


「……」


 その言葉だけは、すぐには返せなかった。


 誰も知らない。違う。レイン。ミア。ガレス。ノエル。エリオ。ユナ。知っていた。名前を、仕事の癖を、判断を、怪我を隠すことを、地図のどこを見るかを。何を嫌い、何なら任せられるかを。


 同じ拠点へ戻って、同じ地図を見て、同じ時間を使った。それは、なくなったことにはならない。


 ただ、ここには誰もいない。


「今困ってるのは、仕事を受けられないことだ」


 セラがこちらを見る。


「そういう話にするんだ」


「今はな」


「……そっか」


 聞くのはやめた。


 大丈夫、とも言わない。寂しいのか、とも。帰りたいのか、とも。ただ、それまで半歩前を歩いていたセラの速度が、落ちて並んだ。


 カイも何も言わなかった。ありがたい、とは思わなかった。ただ、歩きやすくなった。そういうことにした。

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