第02話 風は、スキルじゃない ③
町へ戻る道で、セラが聞いた。
「で、これからどうするの?」
「分からない」
「家」
「ない」
「仕事」
「ない」
「お金」
「借りた」
「私からね」
「ああ」
数歩進んだところで、セラが横目で見る。
「……ほんとに何もないじゃん」
「確認すると増えるな」
「何が?」
「ないものが」
セラが口元を押さえた。
「笑ったな」
「ちょっとだけ」
「何が面白い」
「そんな状態なのに、妙に普通だから」
「慌てても増えない」
「何が?」
「家とか金とか」
「まあ、それはそうだけど」
その時、カイの足がずれた。視界も揺れる。
「ちょっと」
「歩ける」
「その台詞、今日何回目?」
「二回目か」
「そうじゃなくて」
「聞いたのに」
「そこじゃない!」
セラが額を押さえた。
「ほんと変なとこ細かい」
カイがもう一度歩こうとすると、止められる。
「待って。……今日だけなら」
セラが迷う。息を一つ吸って、それから言った。
「工房の上、空いてる」
「工房?」
「父さんの」
「泊まれるのか」
「多分」
「いいのか」
「良くはない」
「父さん、多分文句言う」
「ならやめた方がいい」
「でも」
セラがこちらを見る。
「このまま放っといたら、また歩くでしょ」
「歩ける」
「ほら」
「?」
「そこ!」
分からない。だがセラはもう歩き出している。
「父親には?」
「今から言う」
「許可取ってないのか」
「取ったら駄目って言うから」
「それは許可じゃないだろ」
「だから先に連れてく」
「順番がおかしくないか」
「たまにね」
たまに、というより、かなりだと思う。ただ、こういう前のめりな人間をカイは嫌いではなかった。昔から何人か知っているし、止める役も何度もやった。
アルノー家の工房は、港から少し離れた通りにあった。木と石の二階建てで、一階が工房、二階が住居。入口には木材や縄、鉄板、荷役用の部品が並んで、中からは一定の間隔で金属を叩く音が聞こえてくる。
「父さん、ただいま」
「遅かったな」
奥から出てきたのは四十代ほどの男だった。太い腕、大きな手、節の目立つ指。職人だと、見れば分かる。
男はセラを見て、その後ろにいるカイを見て、そしてもう一度セラへ戻った。
「誰だ」
「カイ」
「カイです」
「そういうことを聞いてない」
完全に正しい。
「森の外で――」
「一晩だけ泊めて」
セラが遮る。
「駄目だ」
即答だった。
「そうだと思う」
「なんであんたまで!」
「普通はそうだろ」
「普通だけど!」
父親が息を吐く。慣れている。多分、こういうことが初めてではない。
「身元は」
「分からない」
「出身」
「遠く」
「仕事」
「ない」
「金は」
「ない」
父親が眉を寄せると、セラが横から言った。
「治療代は私が貸した」
視線がカイからセラへ移る。
「もう貸したのか」
「必要だったから」
「……」
長いため息。やはり、初めてではないらしい。
父親がカイを見る。包帯、顔色、立ち方、足元、視線。たぶん、職人なりに見るべきところを見ている。
間があった。
「一晩だけだ」
「やった」
「勘違いするな」
父親はセラではなく、カイを見た。
「追い出して、その辺で倒れられても寝覚めが悪い」
「助かる」
「その代わり、明日は働け」
「分かった」
即答すると、セラがこちらを見た。
「早っ」
「返せるなら早い方がいい」
父親が初めて、カイをちゃんと見た。
「何ができる」
「運搬。地図。探索補助。簡単な野営。道具の整備はものによる」
「鍛冶は」
「できない」
「そこは即答か」
「できないからな」
一拍あって、父親は肩をすくめた。
「まあいい」
警戒はまだ残っている。だが少なくとも、借りを放置する人間ではない。そこだけは伝わったらしい。
「触るなよ」
「見るだけだ」
「ならいい」
工房の中を、カイはゆっくり歩いた。工具、縄、滑車、鉄板、留め具、木箱。雑多だが、無秩序ではない。よく使うものは手前、重いものは下、同じ用途のものは同じ場所へ。
こういう場所は好きだった。何がどこにあるか見れば分かるし、必要になった時に探さなくていい。
昔の拠点を思い出す。誰かが工具を移動させてガレスが怒った。地図の上へ物を置くなと言った。治療道具だけは、誰も勝手に触らなかった。
棚の前を通る。一歩、二歩、そのまま通り過ぎて――止まった。
何かが引っかかって、一歩戻る。
棚に、小さな鉄製の金具が置かれていた。湾曲した本体、端の穴、縄を通す構造。目が止まる。手が伸びる。
「触るな」
父親の声に、手が引き戻された。
「……これ、何に使う」
「荷揚げの固定具だ」
「荷揚げ?」
「縄を通して荷を固定する」
父親は、何でもないものを見るように続けた。
「珍しくもないぞ。港じゃ、どこにでもある」
カイは金具を見る。形。穴の位置。ロープを逃がすための湾曲。
似ている。かなり。でも同じではない。材質が違うし、表面処理も厚みも細部も違う。
それでも、記憶が重なった。断崖、風、岩壁。KAIの手が金具を打ち込んで、ロープを通して、体重を預ける。探索用アンカー。何度これに命を預けたか分からない。
用途は違う。必要が似ていれば、形も似る。別々の場所でも、同じ問題へ向き合えば技術は似た答えに辿り着くことがある。偶然だ。十分あり得るし、むしろその方が自然だ。
なのに、目が離れない。
「カイ?」
後ろから名前を呼ばれて、返事が遅れた。
現在の金具と、記憶の金具が重なる。でも重なりきらない。同じではない。だからこそ、余計に気味が悪い。
「……なんで」
小さく声が落ちる。
「なんで、これがある」
父親にもセラにも、答えられるはずのない問いだった。カイはただ、金具を見ていた。




