第02話 風は、スキルじゃない ①
道を、二度間違えた。
一度なら偶然で済ませていい。二度なら、前提の方が間違っている。
「カイ、そっちじゃない」
「分かってる」
「今、完全に曲がろうとしてたけど」
「確認しただけだ」
「何を」
「道を」
「間違ってることを?」
「結果的には」
少し前を歩いていたセラが笑った。森の外で会ってから、まだ数時間しか経っていない。その短い間に外套を貸されて、道を二度訂正されている。どう考えても助けられている側だ。
そこは分かりやすい。分かりにくいのは、セラ本人がそれをほとんど恩として扱っていないことだった。
魚と煙と人の匂いが混ざっている。見たことのない町のはずなのに、ところどころ妙に見覚えがあった。
港湾都市なら、市場は海側だ。工房は煙と音を嫌われるから風下へ寄る。宿泊区は港の騒音から離れる。そこまで組み立てて、カイは角を曲がった。
そこにあったのは、大きな共同洗濯場だった。
水路から引かれた水が石の洗い場を流れて、何人もの女が布を洗っている。軒下の洗濯物には、白いものも普通に混ざっていた。
カイは一瞬だけ視線を逸らす。
「どうしたの」
「いや」
「今止まったよね」
「予測と違った」
「何の」
「町の構造」
「……?」
説明しても伝わらない。そのまま歩いた。
二度目は、広場があるだろうと思った場所だった。あったのは小さな鍛冶工房と細い水路で、広場はどこにもない。
カイは頭の中で作り始めていた地図を、一度消した。
建物も道具も道路幅も、見覚えのあるものばかりだ。だが置かれている場所が違うし、人の流れも違う。同じ部品が揃っていても、同じ町にはならない。
似ているだけだ。知っている場所ではない。
当たり前のことなのに、安心した。町の形まで一致していたら、その方が怖い。
「着いたよ」
セラが足を止めた先は、小さな建物だった。入口には乾燥させた薬草が吊られ、窓際には洗った布が並んでいる。扉を開ける前から、青臭い匂いがした。
「診療所?」
「そう」
「歩けるけど」
「歩けるかどうかは聞いてない」
「……」
それはそうだ。セラと話していると、たまに、ものすごく簡単な理屈で負ける。
「そこ座って」
中にいたのは五十歳前後の女だった。派手な法衣も宝石の付いた杖もなく、薄いシャツの袖を肘までまくって、洗った治療道具を布の上へ並べている。ゲームで見慣れた治癒職の記号からは、かなり遠い姿だった。
カイは足を止めた。
同じ言い方を知っている。もっと短くて、もっと容赦のない言い方だった。断れたことは一度もない。
「聞こえてる?」
「……聞こえてる」
「なら座る」
「はい」
素直に腰を下ろす。横にいたセラがこちらを見たが、何も聞かなかった。それがありがたかった。
「包帯取るよ」
「ああ」
布が外れると、思っていたより赤い。傷の周囲も腫れていた。
「よくこれで歩いたね」
「傷は浅い」
「そういう人が一番悪化させるの」
「……」
「何」
「何でもない」
「じゃあ洗うよ」
水が傷へ触れた瞬間、息が詰まる。
「痛い?」
「痛い」
「なら正常」
「基準が雑じゃないか」
「痛くない方が怖い時もあるよ」
もっともだったので、黙った。
洗浄が終わると、治療師が傷の周囲へ手を添えた。カイはその手元をじっと見る。
ゲームなら、ここで光る。白か緑の光が走って、回復音が鳴って、HPバーが戻って傷が消える。そういうものだった。
だが、何も光らない。よく見れば手の周囲で空気がごくわずかに揺れているだけで、あとは暖かい。それだけだ。やがて滲んでいた血が止まり始め、赤く膨らんでいた部分も少しずつ落ち着いていく。
それでも、傷そのものは残っていた。
「……治った?」
「治ってないよ」
「?」
「治りやすくしただけ」
「……治すんじゃないのか」
治療師が新しい布を巻きながら言う。
「治すのは、あんたの身体」
カイは傷を見た。
結果を直接作っているわけではない。身体が元々持っている働きへ、少しだけ力を足している。治すのではなく、治る方向へ押している。
ゲームでは回復は結果だった。HPが増えて、それで終わり。こっちは違う。
「面白いな」
「怪我人が何を面白がってるんだい」
「仕組みが」
「そういうのは治ってから考えな。あと今日は右腕使わない」
「動く」
「動くかどうかじゃない」
後ろでセラが吹き出した。
「何だ」
「ううん」
「笑っただろ」
「ちょっとだけ」
「何がおかしい」
「ちゃんと怒られてるなって」
治療師まで頷いた。
「この子、放っとくと悪化させるタイプだね」
「分かります?」
「見れば分かる」
二対一。状況、不利。ここは撤退だ、とカイは黙った。
「で。支払い」
治療が終わった直後に言われた。
カイは止まる。腰のポーチへ手をやる。装備はある。だが、金はない。
「……ない」
「何が」
「金」
「え?」
セラがこちらを見た。
「持ってない」
「一枚も?」
「一枚も」
セラの視線が、顔から肩、腰、靴へ落ちて、最後にまた顔へ戻ってくる。
「……ほんとに何もないんだね」
「俺も今確認した」
「今?」
「必要になったから」
「普通、必要になる前に確認するの」
「今までは困らなかった」
「でしょうね」
セラがため息をついて、それから財布を出した。硬貨を一枚、二枚。一度数えて、もう一度数える。指先が慎重だった。
カイはその動きを見ていた。余裕があるわけではない。雑に出せる金額ではない。それでも払う。
「足りないなら――」
「足りる」
「でも」
「貸しだから」
言葉を切られる。
「返してもらうからね」
「返す」
「絶対?」
「絶対」
「どうやって?」
「……」
そこで止まった。セラが指を折り始める。
「お金ない」
「ない」
「仕事」
「ない」
「知り合い」
カイは考えた。
「……お前くらいだな」
セラの指が止まって、顔が上がる。
「……そういうの急に言うのやめて」
「?」
「なんでもない」
白々しい咳払いが挟まった。
「で、何で返すつもり?」
「働けばいい」
「仕事ないでしょ」
「探す」
「そこからなんだ」
「何とかなる」
「その自信どこから来るの」
「生きてるからだ」
セラが黙る。
目を逸らされた。何だ、と聞いたが、なんでもないと返ってきた。さっきは自分に聞いたのに、と思ったが、追わなかった。財布をしまう横顔が、さっきより少しだけ静かに見えたからだ。
診療所を出たあと、水路沿いの人通りが少ない場所でカイは足を止めた。右腕は使うなと言われたので、左を試す。
指を動かす。エリオや他の術者が低位術式を使う時の指の動き、呼吸、意識の向け方。何千回も見た。手順は一つも抜けていない。
何も起きなかった。もう一度やっても、やはり何もない。
「何してるの?」
「魔法」
「……出てないけど」
「知ってる」
「知っててやってるの?」
「確認だ」
「何の」
「使えないことの」
セラが変な顔をした。
「変なの」
「一回目は失敗かもしれない」
「二回目は?」
「再現性の確認」
「三回目は?」
「やる前提か」
「やりそうだから」
否定できない。
「……魔力、動かしてる?」
「動かす?」
「……そこから?」
「何をどう動かすんだ」
そこで、セラの顔から呆れが消えた。
「ほんとにどこで育ったの?」
「遠く」
「便利だね、その遠く」
「説明しなくて済む」
「それ、信用なくすからね」
「今さらじゃないか」
「それもそう」
納得された。思ったより切り替えが早い。そういうところは、見ていて飽きない。
港へ戻ると、荷揚げ場には木箱と滑車と縄が並んで、作業員たちが絶えず荷を動かしていた。
歩いているだけなのに、カイの目は自然と構造を追っている。単滑車が二つに補助が一つ、荷重は分散されていて、縄の太さも支点の位置も、見た限りでは問題ない。
その時、ギッ、と嫌な音がした。
視線が一本の縄へ向く。表面の繊維がほつれている。まずい、と思った次の瞬間、バツン、と縄が切れた。
「危ない!」
吊られていた木箱が傾く。真下には子供と母親。距離を測るまでもなく、間に合わない。走っても飛び込んでも、二人まとめて巻き込まれる。
その瞬間、セラの手が上がった。
風が走る。強くはない。カイの髪と服の裾、それから地面の砂が横へ流れる程度。それでも落下していた木箱は、横へずれた。
止めない。浮かせない。落下そのものを消すのではなく、落ちる場所だけを変えている。
ドンッ、と石畳が震えて、木箱は子供のすぐ横へ落ちた。
「大丈夫!?」
母親が駆け寄る。セラもすぐしゃがみ込んだ。
「どこか痛い?」
子供が首を振ると、セラは笑った。礼を言わせもしなかった。
カイはその横顔を見て、すぐ箱へ視線を戻す。
止めるなら大きな力がいる。だが、落下方向を変えるだけなら、必要な力はずっと小さい。さっきの治療が頭をよぎった。治すのではなく、治る方へ押す。これも似ている。
「……今の」
「何?」
「風」
「うん」
「魔法か」
「そうだけど」
「スキルじゃないのか」
「……スキル?」
失言だった。
「何それ」
「いや」
「また、いや」
「言葉が違うだけかもしれない」
「故郷の言葉と?」
「多分」
「そこは否定してよ」
セラが立ち上がる。カイは木箱を見た。元の軌道、落下地点、ずれた距離。
「効率いいな」
「……」
「何だ」
「今の褒めてる?」
「かなり」
「それが?」
「かなり」
「もっと分かりやすくできない?」
カイは少し考えた。
「わぁすごい」
「急に雑」
「難しいな」
「褒め方が?」
「ああ」
「……ふふ」
セラが笑う。さっきより嬉しそうだった。褒められるのは嫌いじゃないらしい、と覚えておく。今のところ使い道はない。




