第01話 表示されない ③
カイは左手を軽く上げた。インベントリを呼び出す癖だ。当然、何も出ない。
知っていて手が動いたことに、腹が立った。
服の内側から清潔な方の布を裂いた。水で洗って、圧迫してから巻く。結び目は傷の真上を避ける。手は迷わなかった。
(ユナなら二十秒で終わってる)
思ったところで、手が遅れた。
「……」
ユナはいない。レインも、ミアも、ガレスも、ノエルも、エリオも。
「……今考えても仕方ない」
声に出した。そうしないと、その先まで考えてしまいそうだった。
包帯を巻いた腕を動かすと、ずきと痛みが走る。反射的に右上を見そうになって、途中でやめた。
「……痛い」
数字ではない。ただ痛い。それだけだった。
朝日の位置。木々の密度。斜面の向き。小さな水の流れ。
順番に確認した。
水が集まる場所があるなら、人が住んでいる可能性も上がる。
「水は下」
立ち上がる。
「水路があるなら、人もいる」
一歩、右腕が痛む。二歩、身体が少し重い。三歩目で歩けると判断して、歩いた。
森を下る。途中で何度か止まって、傷を見た。体温、呼吸、意識。数字がないので全部推測だ。
HPバーというのは、なくなって初めてありがたみが分かる。
疲れれば重くなるし、出血すれば寒くなる。当たり前のことなのに、妙に新鮮だった。
やがて木々が薄くなって、視界の先が明るくなる。森を抜けた。
「……」
カイは足を止めた。
「町」
遠くに港町が見えた。海と帆船。煙。石造りと木造りの建物。水路。工房らしき煙突。
思っていたより大きい。
NPCか、と反射的に考えて、すぐ消した。まだ何も確定していない。
行ってみるしかなかった。
十分ほど進んだところで、足が重くなった。
「……まずいな」
街道脇の木へ手をつく。包帯を見ると赤い。血が滲んでいて、指先も少し震えている。
歩ける。ただ、かなり怪しい。ここで倒れたら、さすがに笑えない。
カイは街道脇へ座り込んだ。
「……寒い」
その時、遠くから人影が来た。金色の髪の少女で、大きな荷物を背負っている。
向こうもこちらへ気づいたらしく、足が少し速くなった。走るほどではないが、明らかにこちらへ向かってきている。
十メートル。五。三。
少女はカイの前でしゃがみ込んだ。
「……生きてる?」
「たぶん」
「たぶんって何」
会話は通じる。最初に確認したのがそこだった。我ながら、かなり色気がない。
少女の視線が右腕へ落ちる。
「うわ」
「酷い?」
「酷いっていうか」
包帯を見て、結び目を見て、それからカイを見た。
「巻き方だけ妙に上手いのが怖い」
「褒めてる?」
「褒めてない」
「そうか」
「ちょっと残念そうにしないでよ」
「いや」
「今、ちょっと残念そうだった」
表情に出ていたらしい。自分では無表情な方だと思っていたので、意外だった。
「血、まだ出てるじゃん」
「止血はした」
「止まってないじゃん」
「減ってはいる」
「そういう問題?」
「多分」
「また多分って言った」
少女が呆れたように息を吐いて、それからカイの手へ触れた。
「うわ。結構冷えてる」
「そうらしい」
「自分のことでしょ」
少女は荷物を一度地面へ置いて、自分の外套の留め具を外した。
「待て」
「何」
「血で汚れる」
「洗えば落ちる」
「お前が寒くなる」
「今寒いの、どっち?」
「……」
止まる。
「俺」
「じゃあ着てて」
見ず知らずの人間で、助ける義務もない。外套を貸せば自分が損をする。合理的ではない。
なのに、肩へ掛けられた外套はひどく暖かかった。
「……ありがとう」
「うん」
少女はそれ以上、何も言わなかった。恩を売るでもなく、大したことをした顔もしない。
変なやつだな、というのが多分、一番近い。
「さっきから何?」
「いや」
「すごい見られてる気がする」
「確認してた」
「何を?」
「……」
カイは反射的に、少女の頭上を見た。
何もない。名前。所属。レベル。職業。好感度。
当然、何一つ表示されていない。
だから、仕方なく、という言い方も変だが、カイは少女を見た。ちゃんと。初めて。
金色の髪は、よく見ればところどころ跳ねている。額には薄く汗が浮いて、頬には小さな土汚れ。荷物を背負って歩いてきたせいか、呼吸も少し乱れていた。
完璧ではない。ゲームのキャラクターメイクみたいに、どこから見ても整っているわけではない。
生活している顔だった。さっきまで、自分とは何の関係もなかった人間の顔。
「……何?」
少女がもう一度、眉を寄せる。
「……綺麗だなと思って」
「…………は?」
何で言った。言った本人が一番分かっていなかった。
町までの距離。治療できる場所。ここがどこなのか。聞くべきことはいくらでもあるのに、よりによってこれだ。
少女の目が大きくなって、頬に赤みが差した。
「……歩ける?」
話を変えられた。かなり露骨に。何の判定に失敗したのかは分からないが、失敗したらしい。
「七割くらい」
「何の七割」
「歩行可能率」
「そういう意味じゃない」
立つ。一瞬、身体が傾いた。少女の手が伸びる前に、カイは近くの木へ手をついた。
「立てた」
「七割じゃないでしょ、それ」
「歩行可能なら」
「はいはい」
少女が荷物を持ち直す。
「町まで案内する」
「仕事の途中じゃないのか」
「帰り道」
「荷物」
「ついで」
「怪我人の案内」
「それもついで」
親切を過小申告する癖でもあるのか、と少し気になった。
「名前は?」
「セラ」
少女は歩き出しながら答える。
「セラ・アルノー。そっちは?」
「カイ」
「カイね」
それきりだった。
どこから来たのか。なぜ森から出てきたのか。なぜ怪我をしているのか。セラは聞かなかった。
ありがたかった。説明できることが一つもない。
町へ近づくにつれて人が増えた。魚籠を運ぶ男。荷車。洗濯物。煙。子供。職人。船員。
水路沿いには規格の揃った木製部材が積まれて、工房の前では金属部品が箱ごとに分けられている。排水路があり、滑車を組み合わせた荷揚げ機がある。
思ったより整っていた。
それ以上に気になったのは住民だった。
誰も、自分のためには動いていない。魚を運ぶ。値段を交渉する。子供を叱る。こちらを見もしない人間の方が多い。
NPCにしては、とそこまで考えて止まった。
違う。自分が、まだそういう見方をしているだけだ。
「カイ」
前から声がした。
「こっち」
セラだ。表示ではない。頭上に名前が浮かんだわけでもない。人の声で、自分の名前を呼ばれた。
なぜか、引っかかった。
「何?」
「いや」
「今日、いや、多くない?」
「そうか」
「それも多い」
「……」
「今、黙ればいいと思ったでしょ」
「思った」
「正直だなあ」
セラが笑う。声を上げるほどではなく、楽しそうに。
二人はそのまま丘へ上がった。やがて視界が開けて、港町の全体が見えた。海。市場。工房。帆船。煙。人。
その景色を見た瞬間、カイの頭へ別の場所が浮かんだ。
壁一面の地図。レイン。ミア。ガレス。ノエル。エリオ。ユナ。
誰かがいた場所で、戻ればいると思っていた場所だった。
ゲームだからではない。そこが自分の帰る場所だったから、そう思っていた。
カイの足が止まる。セラはそのまま一歩、二歩、三歩と先へ進んで、途中で振り返った。
「カイ?」
「……」
「来ないの?」
カイは町を見て、セラを見て、それから癖で右上を見た。
何もない。目的地も、クエストも、マーカーも、正解も。
なら、自分で決めるしかない。
「……行く」
カイは歩き出した。少し前には金髪の少女、肩にはその少女から借りた外套。右腕は痛い。町は知らない。世界も知らない。
異世界転生、ね。まだ分からないし、かなり雑な仮説だ。
ただ、一つだけは分かる。
ここはEIDOLON FRONTIERではない。
町へ入る。魚を売る声。荷車の音。船員の怒鳴り声。子供の笑い声。
どれも、自分とは何の関係もない音だった。
「カイ」
前でセラが振り返る。
「置いてくよ」
「怪我人なんだけど」
「七割歩けるんでしょ?」
「……覚えてたのか」
「自分で言ったじゃん」
「そうだった」
「ほら。遅い」
カイは足を速めた。
また右上を見る。何もない。KAIという文字も、HPも、生存時間も、目的地も、何一つ表示されていない。
四千六百十七時間、生き残ったキャラクターは、もう消えた。そう表示された。
なのに。
「カイ」
もう一度、前から呼ばれる。
「今行く」
死んだはずの名前が。
この世界では。
ちゃんと誰かに呼ばれている。
それが。
妙に悪くなかった。




