第05話 帰る先に、席がない ①
ロープは、使える方だった。
工房の床へ伸ばして、泥を落として、水気を抜いて、指先で繊維を撫でていく。毛羽立ち。局所的な潰れ。少し伸びた部分。昨日、支点へ強く荷重をかけた辺りが特に擦れていた。
切断寸前というほどではない。ただ、新品と同じように扱う気にはならなかった。
「まだ使うの」
後ろからセラの声がした。
「使える」
「替えた方がよくない?」
「用途による」
カイは擦れた部分を持ち上げる。
「人を吊るなら替える」
「昨日、人吊ったけど」
「昨日は他になかった」
「じゃあ今日、人吊ることになったら」
「使わない」
セラが首を傾げた。
「ちゃんと怖がってるんだ」
「何を」
「ロープ」
「怖がってない。危険だから使わないだけだ」
「それ、怖がってるのと何が違うの」
「……」
危険を認識して避ける。その判断を怖がると呼ぶなら、たぶん違いはない。
セラも隣へしゃがみ込んで、傷んだ箇所を覗き込む。指で触れようとして一度止まり、結局つまむ程度で離した。
「これ、昨日曲がったピトンのところ?」
「荷重のかかり方なら、その辺りだ」
セラは笑って、それからロープへ目を戻した。
「……次は、こうならない方がいいね」
「そうだな」
ロープの話だ。たぶん、それだけではないが、どちらもそこへは触れなかった。
「カイ」
工房の奥から低い声が飛んでくる。セラの父だった。
「手紙」
「俺に」
「他にカイはいない」
「確かに」
差し出されたのは小さく折られた封書だった。ギルド章とは違う印が押されている。紙も少し硬くて、私的な手紙より事務書類に近い。
宛名は、カイ。
「……役所?」
セラが横から覗き込む。
「行政庁だな」
父が答えた。
「何したの」
「思い当たる範囲が広い」
「その言い方怖いからやめて」
「昨日」
「洞窟」
「その前」
「ギルド登録」
「その前」
「……森から出てきた」
「多いね」
父が腕を組む。
「呼び出しだ。本人だけでも構わんらしいが、お前も行け」
「何で私」
「拾ってきた責任」
「拾ってない」
「ほぼ拾った」
「人を落とし物みたいに言わないでよ」
「近いと思う」
「カイまで言わないで」
朝からよく声が出る。それは、悪くない。
行政庁は港から少し内側にあった。石造りの二階建てで、ギルドほど人の出入りは多くない。入口に税、船荷、住民登録、港湾許可の案内が並んでいる。
依頼を探しに来る場所ではない。生活をこの町の側へ登録しに来る場所だ。
「また嫌そう」
「紙が多い」
「そこ?」
「殴れないから」
受付で名前を告げると、すぐ奥の小部屋へ通された。机が一つ、椅子が三脚、棚と小さな窓。飾りはほとんどない。
待っていたのは三十代後半から四十代ほどの男だった。服装はきっちりしているが、肩肘の張った感じはない。
「カイさんですね」
「はい」
「セラ・アルノーさん。同席は問題ありません。どうぞ」
二人が座る。机の上には見覚えのある紙が置かれていた。ギルド登録申請。氏名は通称のカイだけで、出身地から保証人まで全部が空欄のままだ。
その隣に、昨日の洞窟依頼記録。
「ギルドから、こちらへ照会が回ってきました」
「登録できなかったから?」
「それも理由の一つです。ただ、それだけなら身元不明者としての確認で終わります」
「じゃあ何で」
男は依頼記録を持ち上げて、読み上げかけて、途中でやめた。
「長いので、要点だけ」
「どうぞ」
「潮位。撤退時刻。救助」
「それで全部です」
「三語ですね」
「足りますか」
「足ります」
男が紙を置く。
「かなり慣れていますね」
「探索には」
「どこでやってたんですか」
「……」
来る。分かっていた。
「遠く」
横でセラが小さく言った。
「出た」
「便利だから」
「今日は通じないと思うよ」
「分かってる」
男の口の端が動いた。
「その遠くについて聞きたいんです」
責める声ではなかった。疑うというより、確認して分類するための声だ。その方が楽だった。
「その前に、一つ確認してもいいですか」
「何を?」
男が机の脇から小さな箱を出した。中には、透明に近い石と金属の台。
「簡易の魔力反応検査です。害はありません。触れるだけです」
「あ、それ」
セラが覗き込む。
「知ってるのか」
「子どもの頃やった。適性見る時とか」
「比較のため、まずセラさんから」
セラが石へ指を触れると、一瞬、石の内部が淡く揺れた。強く光るわけではない。それでも、確かに反応している。
「通常範囲です」
「知ってます」
「次、カイさん」
「ああ」
触れる。何も起きない。
一秒。二秒。三秒。
石はほとんどそのままだった。ただ、よく見ると縁にほんの一瞬、薄い揺れが走った気がする。
「……壊した?」
「触っただけだ」
「カイならありそう」
「すごい信用だな」
男が小さく咳払いをする。たぶん、笑いを止めた。
「壊れていません。反応がかなり弱いだけです」
「珍しいのか」
「珍しくはあります。ただ、前例がないわけではありません」
男が別の紙を出した。少し古い形式だ。
発見地。出身不明。所持品不明系統。言語理解。魔力反応。
欄の名前だけが並んでいて、中身はまだ書かれていない。
「こうした欄がいくつか埋まる人を、この地域では漂界者と呼ぶことがあります」
「……漂界者」
初めて聞く言葉だった。ただ、意味は何となく分かる。
「漂う」
「ええ」
「界」
「世界、境界。その辺りから来た呼び方だと言われています」
「別の場所から来た人?」
セラが聞いた。
「かなり大雑把に言えば」
「違うの」
「全員が同じ場所から来ているという証拠はありません」
「じゃあ何が分かってるの」
「確認できていないことの方が多い、というところまでです」
「身元不明者とは違うのか」
「違います」
「どこが」
男は考えた。
「身元が分からない人は、多いんです」
「漂界者は、分からない理由の方が普通じゃない」
「書くのか」
「欄があるので」
昨日、自分は身元不明だった。今日、その理由にまで名前がついた。
ないものばかり数えてきたと思ったら、今度は分類まで増えた。
「じゃあ、何をするんだ」
「保護と照会。それから必要に応じて聞き取りです」
「監視か」
「そう見える部分はあります」
即答だった。
「否定しないんだな」
「否定しても制度は変わりません」
横からセラ。
「カイ」
「何」
「今、役所の人の評価上がったでしょ」
「分かるのか」
「顔」
男まで笑った。
「それで」
カイが話を戻す。
「俺は漂界者か」
「現時点では、可能性があるという扱いです」
「確定じゃない」
「あなた自身の申告が、まだ十分ではありません」
そこへ来る。
「どこから来ましたか」
「……」
答えはある。ただ、どう言えばいいのか分からない。
「EIDOLON FRONTIER」
男が止まった。
「国名ですか」
「違う」
「都市」
「違う」
「地域」
「違う」
「では」
カイは黙って考えた。
「ゲーム」
男の眉が動いた。
「ゲーム」
「ああ」
「遊戯ですか」
「近い」
「近い?」
説明が難しい。自分にとっては当たり前だったが、ここでは前提からない。
「向こうに人間がいた」
「向こう」
「別の場所だ」
「はい」
「その人間が、KAIを動かしてた」
セラが横で黙る。男も紙を見ず、カイを見ていた。
「……でも、見てたのは俺だ」
言ってから、引っかかった。男もそこを見逃さない。
「あなたは、そのKAIなんですか」
「……」
簡単そうで、簡単じゃない。
四千六百十七時間。見て、聞いて、歩いて、戦って、逃げて、戻った。仲間がいて、最後に死んだ。その全部が自分の記憶として残っている。
「そうだと思ってる」
「思っている」
「他に説明のしようがない」
男はすぐには書かなかった。ペンを置いて、考える。
「このゲームというものに近い記録は、少なくとも私が確認した漂界記録にはありません」
「ないのか」
「はい」
「じゃあ」
「だからといって、あなたの話が嘘だとは言いません」
一拍。
「記録にないことと、存在しないことは別です」
カイは黙った。
「一つ聞きたい」
「どうぞ」
「漂界者で、元の場所へ帰ったやつはいるか」
男は紙をめくらなかった。めくらずに答えた。
「帰還したと確認できた記録はありません」
「一人も?」
セラが聞いた。
「確認できた記録としては」
「いないってこと?」
「分かりません。確認できていないだけです」
同じ言い方だ。記録にないことと、存在しないこと。
理屈は通る。情報を残せなかった可能性も、記録漏れの可能性もある。
だから帰還の可能性がゼロだとは言えない。
ただ、確認された前例もゼロだ。
「次の聞き取りは」
「こちらから連絡します。町を離れる場合は届け出を」
「分かった」




