第05話 帰る先に、席がない ②
夕方、アルノー工房の扉をセラが先に開けた。
「ただいま」
奥から少し間を置いて、父親の声が返ってくる。カイもその後ろから入った。
木を削った匂い。機械油。熱を持った金属。奥の台所から流れてくる夕食の匂い。
数日前までなら、まとめて知らない建物の匂いでしかなかった。今は、作業台は油、壁際は乾いた木、炉は鉄の熱、夕方はそこへ食事が混ざる、と勝手に分かれて入ってくる。
いつ覚えたんだ、と思う。覚えようとした記憶はない。
セラはそのまま奥へ向かう。カイだけ、入口で足を止めた。
行政庁。漂界者。帰還記録。さっきまで頭の中を占めていた言葉と、目の先にある夕食が、どうにも噛み合わない。
靴を脱ぎ、荷物を置き、手を洗って席につく。もう、その順番に迷わない。
三人で食卓を囲む。父親はスープを一口飲んでから、何でもないように言った。
「役所は何だった」
「漂界者かもしれないって」
セラは特に考えるでもなく答えた。父親の手が、一瞬だけ止まる。それだけだった。
カイは父親を見た。
もっと何か聞かれると思っていた。どこから来た。何者なんだ。危険はないのか。このまま泊めていて大丈夫なのか。
だが父親は一度カイを見ただけで、次にこう聞いた。
「食うのか、食わんのか」
「食う」
「なら食え」
それで話は終わった。父親は普通に食事へ戻って、セラもパンをちぎってスープへ浸している。
行政では、身元不明、出身照会、魔力反応確認、記録、分類。この家では、飯を食う。
こっちの方が楽だな、とカイは思った。
漂界者という言葉を否定されたわけでも、大丈夫だと言われたわけでもない。ただ、食うなら食え。
夜、工房の上階。カイは借りている部屋のベッドへ腰を下ろしていた。
机の上には臨時補助票、地図、ロープ、替えの布。自分の物と、借りたままの物が混ざっている。最初の日には何もなかった。
背中からベッドへ倒れて、天井を見る。木目。小さな傷。何度か見た天井。
帰還したと確認できた記録はありません。
確認されていないだけだ。帰れないとは言っていない。そこは重要だった。
ただ、数字にするとかなり悪い。
昔から眠れない時は何かを数えた。時間、距離、残り、歩数。数えていれば、分からないものの輪郭が少し狭くなる。
一。二。三。四。
何を数えても帰還例は増えない。分かっている。それでも十まで数えた。
いつの間にか、夢を見ていた。
黒い空間。どこかで聞いた起動音。地図、装備欄、名前。どれも輪郭が曖昧で、近づくほど形が変わる。見たものなのか、夢が組み直しただけなのか、区別できない。
ただ、一つだけ崩れないものがあった。
KAI
4,617:32:18
CHARACTER LOST
その三つだけが、最後に見たものと同じだった。
枠のいくつかは選べた。触れば形が変わって、別の何かへ切り替わる。KAIの場所だけが動かない。触れても反応しない。
やがて、その枠までゆっくり消えていった。
「……」
カイは目を覚ました。
右腕が上がっていた。何かを掴もうとした形で、肘から先が宙にある。
下ろすまでに、少しかかった。
まだ朝ではない。部屋は暗く、窓の向こうには夜の港の灯りがいくつか残っている。
身体を起こして、自分の右手を見た。握る。開く。動く。引きつる。森で裂いた傷は、まだ完全には治っていない。
俺はここにいる。それは間違いない。痛いし、腹も減るし、眠くなるし、歩けば疲れる。
ただ、向こうのKAIはLOSTのままだ。何と呼ばれる現象でも、そこは変わらない。
カイは窓の外を見る。暗い海。灯り。眠っている町。
戻れたとして、と考えて、そこで思考が止まった。
帰る。どこへ。EIDOLON FRONTIER。
拠点は残っている。壁一面の地図も、装備棚も、ユナが並べていた治療道具も、たぶん全部そのままだ。消えたのはKAIだけだ。
戻る場所に、俺の席がない。
帰れるかどうかより前に、戻った先で自分がどこにいるのかが分からない。
カイの口の端が動いた。帰る方法を探す前に、席の確認からか。
笑える話ではない。実際、笑いは続かなかった。
遠くで鐘が鳴る。朝だ。結局、あまり寝ていない。それでも身体を起こして、顔を洗って装備を取った。
朝の冒険者ギルドには、昨日と同じように人がいた。依頼掲示板の前では何人かが紙を見比べ、受付では職員が帳簿を開いている。
カイは大きな地域地図の前に立っていた。港町。周辺の街道。海。山。さらに外側には、見たことのない地名と知らない土地。
全部、知らない。
当然だ。この世界の地図だ。似た地形はあっても、帰る方向はどこにも書いていない。
「何見てるの」
横から声。セラだった。
「地図」
「それは見れば分かる」
セラが隣へ立つ。
「何探してるの」
「帰れそうな場所」
口に出してから、妙だと思った。地図にあるはずがない。この世界のどこかへ行けば戻れる、そんな情報はない。それでも見ていた。
セラの足が止まる。
「……あった?」
「ない」
「そっか」
それきりだった。
カイはまた地図を見る。セラも隣で見る。ただ、二人が見ている場所は違った。
カイは町と街道と港、似た地形、帰る手掛かりになりそうな場所。
セラは地図の端。まだ記載の薄い地域と、その横に貼られた掲示。
固定パーティ登録
構成員全員Eランク以上
その下には遠征帰還報告、他地域地図、長期依頼。
セラの目が、一瞬だけ固定パーティ登録の紙で止まった。でも申請窓口へ行くわけではなく、何も言わずに地図の端へ視線を戻す。
「ここ」
セラが指した。
「ほとんど載ってないんだよね」
「知らないからか」
「うん」
「危険そうだな」
「多分ね」
「じゃあ何で見てる」
セラが笑った。
「見たことないから」
「……」
それで見るのか。
知らないなら警戒する。危険なら避ける。長く生きるにはそれが正しい。セラは違う。知らないから見る。
変だ。最近は、そこまで嫌でもない。
今日の依頼は簡単だった。沿岸部の地図確認。崩れた道、消えた標識、潮で削れた海岸線。
受付係が依頼票と補助票を見比べる。
「セラさん。補助者、カイさん」
「ああ」
返事をしたあと、カイは受付を見た。
「何です?」
「いや」
名前で呼ばれた。それだけだ。
前は未登録で身元不明で、セラについてきた男だった。今はカイさん。大した違いではない。
少しずつ増えるな、と思う。帰る方向は、まだ地図のどこにもない。
町を出る。セラが先に門を抜けて、一度だけ振り返った。カイを見て、何も言わずまた前を向く。
カイもそのまま歩いた。
向こうには机も地図も装備棚も残っている。座る場所だけがない。
こっちには、帰る場所がない。
ただ、今日の依頼票の下の方には、補助者としてカイと書いてある。昨日も書いてあった。明日も書くことになる。
席の数だけなら、増えている方だった。




