第04話 戻らない方が正しい ②
二人で迂回路へ移る。水面から時間を置いた場所で、セラが小さく言った。
「次から、言う」
「何を」
「先に行く時」
カイは何も言わなかった。
「自分で見た方が早いと思った」
「ああ」
「でも」
間を置いて、続けた。
「退路、潰した」
「そうだな」
「そこは否定してくれてもよくない?」
「違うのか」
「……違わない」
「なら」
「ほんと、そういうところ」
いつもより小さい声だった。それでも、言い訳はしない。失敗を自分で認めるところは、嫌いじゃない。
「次から言えばいい」
「うん」
性格を直す、という話ではない。先に動くこと自体は悪くない。昨日、点検道はセラが見つけた。自分一人なら出なかった答えだ。問題は、共有しないことだけだった。
足元の水が、いつの間にか変わっていた。さっきまで乾いていた場所に薄い流れができて、靴底を濡らす。壁の水跡の色と高さと音も、少し変わっている。
「時間がない」
「潮?」
「ああ」
水位の上がり方が予想より早い。最初の崩落が水路を変えて、流れを速くしているのだろう。
「撤退」
「水脈は見えた」
「なら十分だ」
「入口側の割れ目だけ見れば、原因まで――」
「見ない」
「でも」
「依頼は水脈確認と安全調査だ。水脈は確認した。危険も確認した。終わり」
セラは奥を見ていた。近い。あと半歩だ。だからこそ危ない。
「……分かった」
今回は進まない。それだけで、違う。
迂回路を戻る。通路は狭く、カイが先、セラが後ろ。
足元の水が、さっきより確実に増えている。泥が柔らかくなって、亀裂に水が入り込んでいた。崩落で荷重が変わって、潮が上がって、地盤が緩んでいる。
急ぎたい。だが一人幅の足場が濡れている以上、走れば転んで余計に遅くなる。
「足元」
「分かってる」
「右壁」
「うん」
「次、段差」
「見えてる」
「……」
「何」
「ちゃんと見えてるなと思った」
「どういう意味」
「さっきは先に行った」
「それ根に持ってる?」
「持ってない」
「絶対ちょっと持ってるでしょ」
話しながら進む。声がある。後ろにいる。それだけで位置が分かる。
少し広い場所を抜けると、次は細い足場だった。右は壁、下は暗い。
「俺が先」
「ああ」
一歩、二歩、三歩。体重を安全側へ移して、振り返る。
「来い」
セラが一歩踏み出した瞬間、上から小石がぱらりと落ちた。
「……待て」
天井の亀裂を見る。泥と濡れが増えている。
「走れ!」
「え」
「今!」
セラが踏み出したその瞬間、岩が動いた。
今度は誰かが何かをしたわけではない。ただ水と亀裂と重さが、足場をまとめて落とした。
「――っ!」
音が大きくなって、洞窟全体が震える。砂と岩と水と土煙。カイは反射で前へ、安全側へ動いた。セラは反対側。その間に岩が落ちて、積もって、壁ができる。
視界が消えた。
「カイ!」
向こうから声がする。
「怪我!」
「ない! 動ける?」
「動ける!」
「今いるところ、水来てるか!」
「まだ! 足場も広い!」
「上へ逃げられるか!」
「少しなら!」
「どれくらい上がれる」
「頭の高さくらい!」
カイは一度、息を吐いた。
まだ時間はある。今すぐ死ぬ場所ではない。それが確認できた。
「そこで待て!」
「分かった!」
自分側の出口方向を確かめる。ここは崩落で迂回した先で、今いる位置からなら出口側へ戻れる。
頭の中に手順が勝手に並ぶ。外へ出る。ダンとミロはもう外か、その手前にいる。ギルドへ伝わるのも遅くない。人手、道具、縄、支点。
ただ、来た連中はこの中を知らない。
一度目の崩落の位置。迂回路の幅。二度目で落ちた足場の形。水位の上がり方と、上がる速さ。セラが今いる場所と、そこから何歩で高い側へ移れるか。
それを全部知っているのは、自分だけだ。
外へ出て案内する。それが一番早い。
(戻るな)
答えは明確だった。理由も十分にある。
戻れば、知っている人間が危険側へ移る。最悪、セラの位置を伝えられる人間が誰もいなくなる。
ずっと前、洞窟や遺跡や雪山で、道が分断されたことは何度もあった。そのたびに同じことを言った。戻るな。外へ出ろ。救援を呼べ。一人増やすな。
四千六百十七時間、危険な場所での正しい判断は、戻らないことだった。助けるなら安全側から。感情で人数を増やさない。
(外へ出ろ)
一歩、出口側へ足が出た。
「カイ!」
声に、足が止まる。
「聞こえてる!?」
「聞こえてる!」
「行ける道ある?」
「今見てる!」
「無理なら動かないでよ!」
「分かった!」
声はまだ普通で、元気で、怪我もなさそうだった。だから今、外へ出れば救援は間に合う。それが一番いい。
カイは右上を見かける癖の途中で止まった。何もない。HPも、マップも、パーティ欄も、残り時間も、位置表示も。もう知っている。
視線を横へ動かすと、岩の向こうに人がいる。
(出ろ)
一歩。
(戻るな)
正しい。
(呼べ)
正しい。
足が動かなかった。
この止まり方を、一度だけ経験している。膝から下だけが、別の指示を聞いている。
あの時は、そのあと身体が勝手に逆を向いた。
今日は、向かなかった。
足は止まったままだった。
九分の遅れ。潮、崩落、救援。全部分かっている。答えも出ている。
出口を見る。岩壁を見る。その向こうを見る。
カイは数え直した。
外へ出て、ダンを呼んで、ここへ戻るまで。九分。水位は九分で膝上まで来る。来たら、あの足場は使えない。
答えは変わらなかった。出た方が、全体の生存率は高い。
変わらないまま、もう一つ数えた。
出た場合、助かる確率が一番低いのは誰か。
セラだ。
向こうで同じ計算を何百回もした。答えはいつも、確率の低い一人を切る側だった。切って、全体を残す。それが正しい。
正しいまま、四人が落ちている。
「……今回は、やらない」
声に出した。誰にも聞こえていない。
聞こえていなくても、言ったのは自分だ。
カイは背を危険側へ向けた。足が勝手に動いたのではない。向けた。
一歩、二歩。ここまで動けば、もう止めなかった。
別の細道の先に、水が見えた。もう膝下まである。流れも強い。
カイは腰の調査ロープを外して、支点になりそうな岩を触った。表面は濡れているが中は硬く、まだ使える。携行ピトンを打つと金属音が洞窟に響いた。固定を確かめる。荷重に問題はない。
皮肉だと思う。初日に工房で見た金具と、岩壁で何度も使った道具は、似ているようで違った。今、手にしているのはこの世界の道具で、それを使っているのはKAIの手だ。
考えるな。今、必要なのは使えるかどうかだけだ。
水の中を進んで、足場を選んで、崩れかけを避けて岩壁を回る。水音が大きくなって、自分の呼吸が聞こえるほど近い。
そして、見えた。
細い足場に、金色の髪。
無事だ。でも、その後ろで水が増えて、足場の端が細かく崩れていく。パラ、と石が落ちる音。
考えるより先に、口が開いていた。
「セラ!」
声が洞窟に響く。セラが振り向いた。
一瞬、目が大きくなる。多分、名前を呼ばれたことに驚いたのだろう。今はどうでもいい。
「左!」
動いた直後、今まで立っていた場所へ小石と土が落ちた。
「ロープ!」
投げると弧を描いて届く。
「腰じゃなく腕!」
「分かった!」
「岩の右!」
「ここ?」
「もう一つ右!」
「これ?」
「それ!」
こちら側の固定は、ピトンと岩角の二重で確認済みだ。
「来い!」
一歩、二歩。足場がミシ、と嫌な音を立てる。
「止まるな!」
「分かってる!」
三歩目で岩が落ちて、足場の端が切れた。
「っ!」
風が一瞬、金色の髪を大きく揺らす。
身体は浮かない。飛ばない。ただ落ちる。その軌道が、半歩だけずれた。
木箱の時も、水路を確認した時も、いつもそうだった。そこだけ足りない。風は、その半歩ぶんしか届かない。
それでも今回は、手が岩に届いた。
掴む。身体がこちら側へ着地する。
「……っ」
カイもロープを引いて、後ろへ一歩下がった。ピトンの頭が少し曲がっているのが、引いた手の感触で分かった。
二人とも同じ側にいる。
息が荒い。距離は一歩。触れてはいないし、抱き止めてもいない。それでも、同じ場所にいる。二人で迂回路へ移る。水面から時間を置いた場所で、セラが小さく言った。
「次から、言う」
「何を」
「先に行く時」
カイは何も言わなかった。
「自分で見た方が早いと思った」
「ああ」
「でも」
間を置いて、続けた。
「退路、潰した」
「そうだな」
「そこは否定してくれてもよくない?」
「違うのか」
「……違わない」
「なら」
「ほんと、そういうところ」
いつもより小さい声だった。それでも、言い訳はしない。失敗を自分で認めるところは、嫌いじゃない。
「次から言えばいい」
「うん」
性格を直す、という話ではない。先に動くこと自体は悪くない。昨日、点検道はセラが見つけた。自分一人なら出なかった答えだ。問題は、共有しないことだけだった。
足元の水が、いつの間にか変わっていた。さっきまで乾いていた場所に薄い流れができて、靴底を濡らす。壁の水跡の色と高さと音も、少し変わっている。
「時間がない」
「潮?」
「ああ」
水位の上がり方が予想より早い。最初の崩落が水路を変えて、流れを速くしているのだろう。
「撤退」
「水脈は見えた」
「なら十分だ」
「入口側の割れ目だけ見れば、原因まで――」
「見ない」
「でも」
「依頼は水脈確認と安全調査だ。水脈は確認した。危険も確認した。終わり」
セラは奥を見ていた。近い。あと半歩だ。だからこそ危ない。
「……分かった」
今回は進まない。それだけで、違う。
迂回路を戻る。通路は狭く、カイが先、セラが後ろ。
足元の水が、さっきより確実に増えている。泥が柔らかくなって、亀裂に水が入り込んでいた。崩落で荷重が変わって、潮が上がって、地盤が緩んでいる。
急ぎたい。だが一人幅の足場が濡れている以上、走れば転んで余計に遅くなる。
「足元」
「分かってる」
「右壁」
「うん」
「次、段差」
「見えてる」
「……」
「何」
「ちゃんと見えてるなと思った」
「どういう意味」
「さっきは先に行った」
「それ根に持ってる?」
「持ってない」
「絶対ちょっと持ってるでしょ」
話しながら進む。声がある。後ろにいる。それだけで位置が分かる。
少し広い場所を抜けると、次は細い足場だった。右は壁、下は暗い。
「俺が先」
「ああ」
一歩、二歩、三歩。体重を安全側へ移して、振り返る。
「来い」
セラが一歩踏み出した瞬間、上から小石がぱらりと落ちた。
「……待て」
天井の亀裂を見る。泥と濡れが増えている。
「走れ!」
「え」
「今!」
セラが踏み出したその瞬間、岩が動いた。
今度は誰かが何かをしたわけではない。ただ水と亀裂と重さが、足場をまとめて落とした。
「――っ!」
音が大きくなって、洞窟全体が震える。砂と岩と水と土煙。カイは反射で前へ、安全側へ動いた。セラは反対側。その間に岩が落ちて、積もって、壁ができる。
視界が消えた。
「カイ!」
向こうから声がする。
「怪我!」
「ない! 動ける?」
「動ける!」
「今いるところ、水来てるか!」
「まだ! 足場も広い!」
「上へ逃げられるか!」
「少しなら!」
「どれくらい上がれる」
「頭の高さくらい!」
カイは一度、息を吐いた。
まだ時間はある。今すぐ死ぬ場所ではない。それが確認できた。
「そこで待て!」
「分かった!」
自分側の出口方向を確かめる。ここは崩落で迂回した先で、今いる位置からなら出口側へ戻れる。
頭の中に手順が勝手に並ぶ。外へ出る。ダンとミロはもう外か、その手前にいる。ギルドへ伝わるのも遅くない。人手、道具、縄、支点。
ただ、来た連中はこの中を知らない。
一度目の崩落の位置。迂回路の幅。二度目で落ちた足場の形。水位の上がり方と、上がる速さ。セラが今いる場所と、そこから何歩で高い側へ移れるか。
それを全部知っているのは、自分だけだ。
外へ出て案内する。それが一番早い。
(戻るな)
答えは明確だった。理由も十分にある。
戻れば、知っている人間が危険側へ移る。最悪、セラの位置を伝えられる人間が誰もいなくなる。
ずっと前、洞窟や遺跡や雪山で、道が分断されたことは何度もあった。そのたびに同じことを言った。戻るな。外へ出ろ。救援を呼べ。一人増やすな。
四千六百十七時間、危険な場所での正しい判断は、戻らないことだった。助けるなら安全側から。感情で人数を増やさない。
(外へ出ろ)
一歩、出口側へ足が出た。
「カイ!」
声に、足が止まる。
「聞こえてる!?」
「聞こえてる!」
「行ける道ある?」
「今見てる!」
「無理なら動かないでよ!」
「分かった!」
声はまだ普通で、元気で、怪我もなさそうだった。だから今、外へ出れば救援は間に合う。それが一番いい。
カイは右上を見かける癖の途中で止まった。何もない。HPも、マップも、パーティ欄も、残り時間も、位置表示も。もう知っている。
視線を横へ動かすと、岩の向こうに人がいる。
(出ろ)
一歩。
(戻るな)
正しい。
(呼べ)
正しい。
足が動かなかった。
この止まり方を、一度だけ経験している。膝から下だけが、別の指示を聞いている。
あの時は、そのあと身体が勝手に逆を向いた。
今日は、向かなかった。
足は止まったままだった。
九分の遅れ。潮、崩落、救援。全部分かっている。答えも出ている。
出口を見る。岩壁を見る。その向こうを見る。
カイは数え直した。
外へ出て、ダンを呼んで、ここへ戻るまで。九分。水位は九分で膝上まで来る。来たら、あの足場は使えない。
答えは変わらなかった。出た方が、全体の生存率は高い。
変わらないまま、もう一つ数えた。
出た場合、助かる確率が一番低いのは誰か。
セラだ。
向こうで同じ計算を何百回もした。答えはいつも、確率の低い一人を切る側だった。切って、全体を残す。それが正しい。
正しいまま、四人が落ちている。
「……今回は、やらない」
声に出した。誰にも聞こえていない。
聞こえていなくても、言ったのは自分だ。
カイは背を危険側へ向けた。足が勝手に動いたのではない。向けた。
一歩、二歩。ここまで動けば、もう止めなかった。
別の細道の先に、水が見えた。もう膝下まである。流れも強い。
カイは腰の調査ロープを外して、支点になりそうな岩を触った。表面は濡れているが中は硬く、まだ使える。携行ピトンを打つと金属音が洞窟に響いた。固定を確かめる。荷重に問題はない。
皮肉だと思う。初日に工房で見た金具と、岩壁で何度も使った道具は、似ているようで違った。今、手にしているのはこの世界の道具で、それを使っているのはKAIの手だ。
考えるな。今、必要なのは使えるかどうかだけだ。
水の中を進んで、足場を選んで、崩れかけを避けて岩壁を回る。水音が大きくなって、自分の呼吸が聞こえるほど近い。
そして、見えた。
細い足場に、金色の髪。
無事だ。でも、その後ろで水が増えて、足場の端が細かく崩れていく。パラ、と石が落ちる音。
考えるより先に、口が開いていた。
「セラ!」
声が洞窟に響く。セラが振り向いた。
一瞬、目が大きくなる。多分、名前を呼ばれたことに驚いたのだろう。今はどうでもいい。
「左!」
動いた直後、今まで立っていた場所へ小石と土が落ちた。
「ロープ!」
投げると弧を描いて届く。
「腰じゃなく腕!」
「分かった!」
「岩の右!」
「ここ?」
「もう一つ右!」
「これ?」
「それ!」
こちら側の固定は、ピトンと岩角の二重で確認済みだ。
「来い!」
一歩、二歩。足場がミシ、と嫌な音を立てる。
「止まるな!」
「分かってる!」
三歩目で岩が落ちて、足場の端が切れた。
「っ!」
風が一瞬、金色の髪を大きく揺らす。
身体は浮かない。飛ばない。ただ落ちる。その軌道が、半歩だけずれた。
木箱の時も、水路を確認した時も、いつもそうだった。そこだけ足りない。風は、その半歩ぶんしか届かない。
それでも今回は、手が岩に届いた。
掴む。身体がこちら側へ着地する。
「……っ」
カイもロープを引いて、後ろへ一歩下がった。ピトンの頭が少し曲がっているのが、引いた手の感触で分かった。
二人とも同じ側にいる。
息が荒い。距離は一歩。触れてはいないし、抱き止めてもいない。それでも、同じ場所にいる。




