第04話 戻らない方が正しい ①
初めてだった。仕事を受ける前から、自分の名前がそこにある、というのは。
港町冒険者ギルドの朝。まだ掲示板の前に人が集まりきらない時間だ。受付台の向こうで、職員が昨夜の報告書と今日の依頼票を仕分けている。紙をめくる音と、インク壺の蓋が触れ合う音。
少し離れた場所では、早出らしい冒険者が装備を床へ置いて眠そうに欠伸をしていた。
昨日までのカイは、その流れの外にいた。受付の横、壁際、誰かが手続きをするのを待つ側。
今日は違う。
机の上の依頼書の横に、臨時補助票が並んでいる。
氏名または通称、カイ。業務範囲、採集補助、地図確認、安全確認、運搬補助。単独受注不可。戦闘目的での参加不可。
その一行を、思っていたより長く見ていた。
昨日発行されたばかりの紙で、端もまだ擦れていない。冒険者資格ではないし、名札の壁に自分の札が掛かるわけでもない。それでも、昨日までは実際に働いても記録の中にはいなかった。今日は依頼へ出る前から、いる。
「ちゃんと先にあると違うね」
隣でセラが言った。
「違う」
「そこは同意するんだ」
「紙の話だからな」
実際に存在することと、誰かと話したことと、働いたことと、記録に残ること。全部、同じではない。
妙な話だとは思う。でもこの町では、その違いに意味がある。少なくとも昨日よりは、その意味が分かるようになった。
受付係が次の紙を机へ置いた。
小規模洞窟・水脈確認および安全調査
依頼票の端には簡単な地図。危険度、受注人数、注意事項。先日の水路依頼より、赤い書き込みが多い。
今回は四人で入る。登録冒険者が三人、補助者が一人。
補助者はカイだ。登録冒険者はセラと、今回初めて会う男が二人だった。
「ダン。よろしく」
先に名乗ったのは二十代前半くらいの男だった。軽装、短剣、小型弓。荷物も少ない。腰の位置、靴底、装備の擦れ方を見れば、前へ出て戦うより足で稼ぐタイプだと分かる。
「カイだ」
「補助って何できんの」
「運ぶ。測る。地形を見る。危ないところを先に言う」
「最後が一番ありがたいな」
「言いすぎると嫌われる」
「自覚あるんだ」
横で小さく笑い声がした。セラだった。ダンもつられて笑う。
自分でも変だとは思う。数日前なら、誰にどう思われても気にしなかった。同じ人間と何度か続けて顔を合わせるようになったせいだ。そういうことにしておく。
もう一人、ミロという男がいた。二十五歳。長槍。肩幅も腕も、セラより一回り大きい。
握手した右手の感触で、一つ分かった。治りきっていない傷がある。昨日の森でついたものではなく、その前のものだ。かなり落ち着いてはいるが、強く握ると皮膚の奥が少し引っ張られる。
完全ではない。治療師に見せれば、まだ使うなと言われるだろう。
言わない方がいい、というのがたぶん正しい判断だった。
「補助票の範囲について、一点だけ」
受付係がカイの紙を見た。
「戦闘は業務外です」
「襲われた場合は」
「自己防衛と撤退補助は認めます」
「どこまでが撤退補助だ」
カイは考えた。戦闘、目的、撤退。紙の上では分けられる。でも現場は、そこまで綺麗ではない。
「倒すために出るのは駄目です。逃げるために必要なぶんは構いません」
「線は現場で引くのか」
「そうならないように、先に聞いていただけるのが一番です」
受付係が笑う。
線引きが曖昧なまま現場だけで判断しろと言われる方が困る。分かる人だ、とカイの中で評価が上がった。
受付係が簡易図を広げた。
海沿い、崖下、洞窟の入口から細い一本道。途中に二つほど分岐があって、さらに奥は未確認。入口から奥へ進むほど線が細くなり、低い区画に水の印がついている。
「満潮は昼過ぎです。この印より下は、その前に出てください」
カイは簡易図と窓の外の太陽、それに鐘塔を見比べて、頭の中で数字を組んだ。
移動十五分、帰路も同じで最低三十分。残り六十分。移動速度、地形、人員、事故の余裕を差し引いても、条件通りなら足りる。
ただ、出口が一つ。潮。狭所。崩落履歴。未確認区画。
好きな要素がほぼない。
「嫌そうな顔してる」
セラが言う。
「してない」
「してる」
「条件を数えてた」
「それ、嫌そうな顔って言うんだよ」
一拍あって、ダンが吹き出した。
四人でギルドを出る時、カイは一度だけ受付台の上を見た。
依頼書。参加者三名、補助者一名、カイ。
ちゃんと、自分の名前がそこにある。それだけのことが悪くなかった。
洞窟は町から近かった。
海沿いの街道を外れて、崖下へ降りる。潮の匂いと湿った風。岸壁に当たった波が砕けて、細かい飛沫が崖肌へ白く残っている。
入口は横にそれなりに広い。ただ、少し入っただけで一気に狭くなった。
「狭いな」
ダンが入口の奥を覗く。
「出口が一つしかない」
「カイ、お前ほんと言うな」
最近、本当によく言われる。
危険。狭い。出口。事実を柔らかく言っても、物理は変わらない。ただ、複数人が同じことを言うなら、たぶん自分の側に何かあるのだろう。今は保留にする。優先順位は洞窟だ。
装備を確認した。短い調査ロープ、携行ピトン、灯り、地図袋、水、応急処置用の布、小型ナイフ。軽い装備でよかった。狭い場所では荷物が引っかかるだけ時間が増える。
ダンが先頭に立って、次にカイ、その後ろにセラ、最後にミロ。
洞窟の中へ入ってすぐは、まだ後ろから海の音がしていた。波、鳥、風。数十歩進むと、その音は消えて、代わりに足音と水滴と衣擦れと呼吸が耳に残るようになる。
小さな灯りに照らされた壁は濡れ、天井には亀裂、足元には砂と石と泥。
カイの視線は順番に動いた。前方のダン、背後のミロ、壁面の水筋を見るセラ、そして自分は足元と天井と通路幅。
全員が同じ場所を見る必要はない。誰かが気づかなかったものを、別の誰かが拾う。昨日の水路と同じだった。
「この水、新しいな」
後ろでミロが言う。壁の水筋には確かに新しいものと古い濡れが混ざって、色が少し違っていた。
「奥から音してる」
セラの声で全員が止まった。耳を澄ませると、奥から一定の水音がする。落ちる音と流れる音、どちらも混ざっている。
数分進んだところで崩落跡に出た。石と砂と細かい礫。完全には塞がっていないが、通れる幅は一人が少し余る程度だ。
「ここ通るか」
ダンが言いかけたところで、カイが止めた。
「先に時間を出す」
入口からここまでの歩行、通路、崩落、人の並び。帰りは少し下りだが、疲労と焦りが増える。今のところ負傷なし、新しい障害もない。
「帰りに十二分」
「正確だな」
「余裕込みだ」
今度は誰も、細かいとは言わなかった。そのことを、カイは覚えておく。
事故は大きな音では始まらなかった。後ろで靴底が滑る音がした。
振り返ると、ミロが濡れた岩を踏んで足首をひねっていた。ダンがすぐに腕を掴む。
「見せて」
セラがしゃがみ込む。ミロは壁に手をついて立った。一歩、二歩。
「行ける」
本人はそう言うが、カイは足元を見た。
右足の接地はまだ普通だった。踵で逃がしていない。腫れもほとんどない。
「進めるか」
「行ける」
「歩き方は変えるな」
「変えてねえよ」
「今は変えてない。だから言ってる」
カイはもう一度足元を見た。
今の段階なら進める。段差と狭所と帰りの潮を足しても、まだ余裕の内側だ。問題は、こういうものが途中で悪くなることだった。悪くなってから気づくと、その時点では引き返す方が高くつく。
「痛みが増えたら、その時点で全員戻る」
「全員か」
「全員だ」
「俺一人で戻るぞ」
「人数を減らす方が悪い」
間があって、ミロが苦笑した。
「……手厳しいな」
「でも、その通りだと思う」
セラが言った。
「私も、そっちに一票」
ミロが笑った。足首を見ながら。
「お前、顔は若いのに言い方が爺さんだな」
今日は顔までよく言われる。ただ、ミロが笑えているなら、そこまで険悪ではない。多分。
「ダン」
「何だ」
「後ろ、見ててくれ」
「お前が見ないのか」
「俺は前を見る」
「……まあ、正しいな」
四人でそのまま進んだ。
そこまでは、問題なかった。
さらに奥、通路が二つに分かれていた。左は狭く、右は少し広い。水音は左の方が強い。
ダンとミロは後ろで止まっている。狭い場所でミロの足を使わせる必要はない。
「こっち」
セラが左を見る。
「待て」
「見るだけ」
「共有してから動け」
「すぐそこだよ」
「距離の問題じゃない」
「自分で見た方が早いって」
一歩、二歩。足元の細い亀裂の奥に水が見えた。
「そこ――」
「あ」
セラが奥を指す。
「水脈――」
パキ、と軽い音がした。その直後。
「戻れ!」
遅かった。
足場の端が沈んで、土が崩れ、砂と石と岩が下へ落ちる。ドッ、と洞窟の奥で低い音がして、しばらく砂が落ち続けて、それから静かになった。
完全には塞がっていない。でも、来た道の最短、細い足場はそこで消えていた。
そして、落ちた石の向こう側にダンとミロがいる。
「おい!」
ダンの声が石越しに来た。
「怪我は!」
「ない! そっちは!」
「こっちも無事だ! そっちの道、残ってるか!」
カイは左右を見た。
「迂回で戻れる! 時間がかかる!」
「どれくらいだ!」
「二十一分!」
「正確だな!」
こういう時に軽口が出る人間は、たぶん落ち着いている。
「ミロを連れて先に出ろ!」
「お前らは!」
「迂回で追う!」
「分かった!」
灯りが遠ざかっていく。足音が二人分で、片方が少し引きずっていた。
カイは崩落を見ながら、頭の中の十二分を消して、分岐と迂回、段差と狭所、上りと下りと水を組み直す。
(二十一)
九分増えた。普段なら大した時間ではない。だが洞窟、満潮、崩落という条件では、九分は重い。
「……ごめん」
「今はいい」
「でも」
「出口が先」




