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LOST LOG 4617 Re:Log  作者: 臥裳斗真


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第04話 戻らない方が正しい ①

 初めてだった。仕事を受ける前から、自分の名前がそこにある、というのは。


 港町冒険者ギルドの朝。まだ掲示板の前に人が集まりきらない時間だ。受付台の向こうで、職員が昨夜の報告書と今日の依頼票を仕分けている。紙をめくる音と、インク壺の蓋が触れ合う音。


 少し離れた場所では、早出らしい冒険者が装備を床へ置いて眠そうに欠伸をしていた。


 昨日までのカイは、その流れの外にいた。受付の横、壁際、誰かが手続きをするのを待つ側。


 今日は違う。


 机の上の依頼書の横に、臨時補助票が並んでいる。


 氏名または通称、カイ。業務範囲、採集補助、地図確認、安全確認、運搬補助。単独受注不可。戦闘目的での参加不可。


 その一行を、思っていたより長く見ていた。


 昨日発行されたばかりの紙で、端もまだ擦れていない。冒険者資格ではないし、名札の壁に自分の札が掛かるわけでもない。それでも、昨日までは実際に働いても記録の中にはいなかった。今日は依頼へ出る前から、いる。


「ちゃんと先にあると違うね」


 隣でセラが言った。


「違う」


「そこは同意するんだ」


「紙の話だからな」


 実際に存在することと、誰かと話したことと、働いたことと、記録に残ること。全部、同じではない。


 妙な話だとは思う。でもこの町では、その違いに意味がある。少なくとも昨日よりは、その意味が分かるようになった。


 受付係が次の紙を机へ置いた。


 小規模洞窟・水脈確認および安全調査


 依頼票の端には簡単な地図。危険度、受注人数、注意事項。先日の水路依頼より、赤い書き込みが多い。


 今回は四人で入る。登録冒険者が三人、補助者が一人。


 補助者はカイだ。登録冒険者はセラと、今回初めて会う男が二人だった。


「ダン。よろしく」


 先に名乗ったのは二十代前半くらいの男だった。軽装、短剣、小型弓。荷物も少ない。腰の位置、靴底、装備の擦れ方を見れば、前へ出て戦うより足で稼ぐタイプだと分かる。


「カイだ」


「補助って何できんの」


「運ぶ。測る。地形を見る。危ないところを先に言う」


「最後が一番ありがたいな」


「言いすぎると嫌われる」


「自覚あるんだ」


 横で小さく笑い声がした。セラだった。ダンもつられて笑う。


 自分でも変だとは思う。数日前なら、誰にどう思われても気にしなかった。同じ人間と何度か続けて顔を合わせるようになったせいだ。そういうことにしておく。


 もう一人、ミロという男がいた。二十五歳。長槍。肩幅も腕も、セラより一回り大きい。


 握手した右手の感触で、一つ分かった。治りきっていない傷がある。昨日の森でついたものではなく、その前のものだ。かなり落ち着いてはいるが、強く握ると皮膚の奥が少し引っ張られる。


 完全ではない。治療師に見せれば、まだ使うなと言われるだろう。


 言わない方がいい、というのがたぶん正しい判断だった。


「補助票の範囲について、一点だけ」


 受付係がカイの紙を見た。


「戦闘は業務外です」


「襲われた場合は」


「自己防衛と撤退補助は認めます」


「どこまでが撤退補助だ」


 カイは考えた。戦闘、目的、撤退。紙の上では分けられる。でも現場は、そこまで綺麗ではない。


「倒すために出るのは駄目です。逃げるために必要なぶんは構いません」


「線は現場で引くのか」


「そうならないように、先に聞いていただけるのが一番です」


 受付係が笑う。


 線引きが曖昧なまま現場だけで判断しろと言われる方が困る。分かる人だ、とカイの中で評価が上がった。


 受付係が簡易図を広げた。


 海沿い、崖下、洞窟の入口から細い一本道。途中に二つほど分岐があって、さらに奥は未確認。入口から奥へ進むほど線が細くなり、低い区画に水の印がついている。


「満潮は昼過ぎです。この印より下は、その前に出てください」


 カイは簡易図と窓の外の太陽、それに鐘塔を見比べて、頭の中で数字を組んだ。


 移動十五分、帰路も同じで最低三十分。残り六十分。移動速度、地形、人員、事故の余裕を差し引いても、条件通りなら足りる。


 ただ、出口が一つ。潮。狭所。崩落履歴。未確認区画。


 好きな要素がほぼない。


「嫌そうな顔してる」


 セラが言う。


「してない」


「してる」


「条件を数えてた」


「それ、嫌そうな顔って言うんだよ」


 一拍あって、ダンが吹き出した。


 四人でギルドを出る時、カイは一度だけ受付台の上を見た。


 依頼書。参加者三名、補助者一名、カイ。


 ちゃんと、自分の名前がそこにある。それだけのことが悪くなかった。


 洞窟は町から近かった。


 海沿いの街道を外れて、崖下へ降りる。潮の匂いと湿った風。岸壁に当たった波が砕けて、細かい飛沫が崖肌へ白く残っている。


 入口は横にそれなりに広い。ただ、少し入っただけで一気に狭くなった。


「狭いな」


 ダンが入口の奥を覗く。


「出口が一つしかない」


「カイ、お前ほんと言うな」


 最近、本当によく言われる。


 危険。狭い。出口。事実を柔らかく言っても、物理は変わらない。ただ、複数人が同じことを言うなら、たぶん自分の側に何かあるのだろう。今は保留にする。優先順位は洞窟だ。


 装備を確認した。短い調査ロープ、携行ピトン、灯り、地図袋、水、応急処置用の布、小型ナイフ。軽い装備でよかった。狭い場所では荷物が引っかかるだけ時間が増える。


 ダンが先頭に立って、次にカイ、その後ろにセラ、最後にミロ。


 洞窟の中へ入ってすぐは、まだ後ろから海の音がしていた。波、鳥、風。数十歩進むと、その音は消えて、代わりに足音と水滴と衣擦れと呼吸が耳に残るようになる。


 小さな灯りに照らされた壁は濡れ、天井には亀裂、足元には砂と石と泥。


 カイの視線は順番に動いた。前方のダン、背後のミロ、壁面の水筋を見るセラ、そして自分は足元と天井と通路幅。


 全員が同じ場所を見る必要はない。誰かが気づかなかったものを、別の誰かが拾う。昨日の水路と同じだった。


「この水、新しいな」


 後ろでミロが言う。壁の水筋には確かに新しいものと古い濡れが混ざって、色が少し違っていた。


「奥から音してる」


 セラの声で全員が止まった。耳を澄ませると、奥から一定の水音がする。落ちる音と流れる音、どちらも混ざっている。


 数分進んだところで崩落跡に出た。石と砂と細かい礫。完全には塞がっていないが、通れる幅は一人が少し余る程度だ。


「ここ通るか」


 ダンが言いかけたところで、カイが止めた。


「先に時間を出す」


 入口からここまでの歩行、通路、崩落、人の並び。帰りは少し下りだが、疲労と焦りが増える。今のところ負傷なし、新しい障害もない。


「帰りに十二分」


「正確だな」


「余裕込みだ」


 今度は誰も、細かいとは言わなかった。そのことを、カイは覚えておく。


 事故は大きな音では始まらなかった。後ろで靴底が滑る音がした。


 振り返ると、ミロが濡れた岩を踏んで足首をひねっていた。ダンがすぐに腕を掴む。


「見せて」


 セラがしゃがみ込む。ミロは壁に手をついて立った。一歩、二歩。


「行ける」


 本人はそう言うが、カイは足元を見た。


 右足の接地はまだ普通だった。踵で逃がしていない。腫れもほとんどない。


「進めるか」


「行ける」


「歩き方は変えるな」


「変えてねえよ」


「今は変えてない。だから言ってる」


 カイはもう一度足元を見た。


 今の段階なら進める。段差と狭所と帰りの潮を足しても、まだ余裕の内側だ。問題は、こういうものが途中で悪くなることだった。悪くなってから気づくと、その時点では引き返す方が高くつく。


「痛みが増えたら、その時点で全員戻る」


「全員か」


「全員だ」


「俺一人で戻るぞ」


「人数を減らす方が悪い」


 間があって、ミロが苦笑した。


「……手厳しいな」


「でも、その通りだと思う」


 セラが言った。


「私も、そっちに一票」


 ミロが笑った。足首を見ながら。


「お前、顔は若いのに言い方が爺さんだな」


 今日は顔までよく言われる。ただ、ミロが笑えているなら、そこまで険悪ではない。多分。


「ダン」


「何だ」


「後ろ、見ててくれ」


「お前が見ないのか」


「俺は前を見る」


「……まあ、正しいな」


 四人でそのまま進んだ。


 そこまでは、問題なかった。


 さらに奥、通路が二つに分かれていた。左は狭く、右は少し広い。水音は左の方が強い。


 ダンとミロは後ろで止まっている。狭い場所でミロの足を使わせる必要はない。


「こっち」


 セラが左を見る。


「待て」


「見るだけ」


「共有してから動け」


「すぐそこだよ」


「距離の問題じゃない」


「自分で見た方が早いって」


 一歩、二歩。足元の細い亀裂の奥に水が見えた。


「そこ――」


「あ」


 セラが奥を指す。


「水脈――」


 パキ、と軽い音がした。その直後。


「戻れ!」


 遅かった。


 足場の端が沈んで、土が崩れ、砂と石と岩が下へ落ちる。ドッ、と洞窟の奥で低い音がして、しばらく砂が落ち続けて、それから静かになった。


 完全には塞がっていない。でも、来た道の最短、細い足場はそこで消えていた。


 そして、落ちた石の向こう側にダンとミロがいる。


「おい!」


 ダンの声が石越しに来た。


「怪我は!」


「ない! そっちは!」


「こっちも無事だ! そっちの道、残ってるか!」


 カイは左右を見た。


「迂回で戻れる! 時間がかかる!」


「どれくらいだ!」


「二十一分!」


「正確だな!」


 こういう時に軽口が出る人間は、たぶん落ち着いている。


「ミロを連れて先に出ろ!」


「お前らは!」


「迂回で追う!」


「分かった!」


 灯りが遠ざかっていく。足音が二人分で、片方が少し引きずっていた。


 カイは崩落を見ながら、頭の中の十二分を消して、分岐と迂回、段差と狭所、上りと下りと水を組み直す。


(二十一)


 九分増えた。普段なら大した時間ではない。だが洞窟、満潮、崩落という条件では、九分は重い。


「……ごめん」


「今はいい」


「でも」


「出口が先」

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