暗夜
夜の闇が最も濃くなる時間。心もとない月明かりの下、険しい木々に囲まれた地を妖怪たちは一歩ずつ前へ進んでいた。その足取りが重たいのは、明らかな疲労である。
彼らは朝から戦い続け、敗北という屈辱を背負いながら、山の中を逃げ続けていた。だが、そんな彼らを獲物として追う、冷たい矛先が迫る。
「識! あっちから来る!」
銀髪の巫女、楓が木の間に人差し指を向けると、狐を模した面で顔を覆う妖怪、識は刀を抜いた。
「これで何度目だと言うのだ……」
山の中を逃げ惑う識たちを追う矛先は、御神楽衆という妖怪退治の専門家である。しかも、識たちを追う剣士たちは、御神楽衆の中でも殲滅を得意とする集まりらしい。
そんな連中に休む間もなく襲撃されては、引きつれる妖怪たちが疲れ果てるのも無理はない。それは十分に分かっているが、識は彼らに呼びかけなければならなかった。
「玄天狐党の兵たちよ、備えよ! 敵が迫っているぞ!」
多くは武器を取り、識が示した方向を警戒して木の影に隠れるが、中には座り込んだまま、動こうとしないものもいる。既に気力が尽きてしまったのだろう。そんな心折れた者たちを守るため、識は自らが最前に出て敵を待ち構えた。しかし、そんな強靭な心を持つ識も、刀を振るい続けた手に力が入らなくなりつつある。
「だが、ここで彼らを見捨てるわけには……」
木に身を預けながら、近付く敵の気配を探る。相手は手練れだ。山の中だろうと、ほとんど足音を立てない。それでも、識は攻撃に出る瞬間を分かっていた。
(きたか!)
識の万象神覚が告げる。敵が自分の間合いに入った、と。勢いよく木の影から飛び出すと、黒い装束の男が不意を突かれたかのように目を見開いていた。識は容赦なく男の腹を刀で一刺しするが、その腕が力強く掴まれてしまう。
「こっちだ! いたぞー!」
男は腹を貫かれながらも、仲間を呼ぶために叫んだのである。識は男を殴りつけ、どうにか刀を引き抜くが、木の間から次々と黒い装束の男たちが現れる。
「数は少ない! 臆するな!」
妖怪たちを鼓舞しながら、識は目の前の人間を斬り、仲間に襲い掛かろうとする黒い背中を薙ぎ払った。時間をかけることなく、敵を返り討ちにしたつもりだが、識の鼻孔は焦げるような匂いにくすぐられる。
「火を付けられたか……」
黒装束の一人が仲間を呼ぶために狼煙を上げたのだろう。夜であっても、煙は薄く見える。敵がやってくる恐れは十分にあった。識はすぐに火を消して戻ったが、倒れる妖怪の姿を見る。少しずつだが着実に数を減らされているようだ。識は息を吐いてから、妖怪たちに言った。
「居場所が知られた。すぐに動かなければ、また襲撃される。行くぞ!」
「待ってくれ!」
だが、識の判断に異を唱えるものがいた。
「多くの者が動けていない! もう少し休むべきだ!」
逃避する妖怪たちの中に、紛れるわずかな人間。杠葉だった。
「識、頼む。こうして山道を歩き続け、どれだけ経ったというのだ。私も限界だぞ!」
真っ当な意見ではある。こう疲弊していては、歩くことも厳しい。むしろ、細い杠葉がここまで動けていることも驚きではあるが、識は彼を休ませるわけにはいかなかった。
「この場所は知られています。動かなければ殺される。もう少し辛抱を」
殺される、となれば歩き続けるしかない。杠葉は顔を青く染めながらも、言葉を飲み込んだ。それから、移動を再開するが、ついに楓の足が止まる。忍耐強さを見せていたが、彼女は誰よりも力がない。先程襲撃された場所から、もう少し距離を取るまで移動したかったが、ここが限界なのだろう。
「少し休むぞ。動けるものは近くに川がないか見てきてくれ」
しかし、誰もがその場に座り込み、動かなかった。全員が疲れ切っていることは分かっているが……。識は祈るような気持ちで肩で呼吸する楓に聞いた。
「疲れているところ、すまない。目的地がどこにあるか……分かるか?」
せめて、目指す場所までどれだけか分かれば、心持ちも変わってくるはず。優れた万象神覚を持つ楓なら、それが分かるだろうか、と聞いてみたのだが、彼女は耳を澄ますように目を閉じた。
これまでは、何か聞けば「そんなに便利なものではない」と揶揄うように笑っていた彼女だが、何かを感じ取ろうとしてくれているのだ。
「いっ、た……」
しかし、彼女は頭を抑えながら背中を丸める。
「どうした?」
痛みを感じているようだ。肩を支えながら調子を聞くと、酷く青い顔で彼女は首を横に振った。
「大丈夫。……でも、ごめんね。蝕の居場所がどこか……分からない」
「いや、私の方こそ、無理をさせた」
楓は大丈夫だと言うが、識は理解した。彼女は力を使いすぎた反動で頭痛を感じているのだ、と。山に入ってからずっと近付く敵がいないか、万象神覚によって、警戒を続けてくれていた。このように疲弊するのも当然だと言えるだろう。識は楓の隣に腰を下ろした。
「今は何も考えるな。とにかく体を休めてくれ」
「うん。……少し、肩を貸してもらってもいいかな?」
識が頷くと、彼女は自らの頭を寄せてきた。肩にかかる重みは、識に改めて決意させる。この重みが失われるようなことがあってはならない……と。しかし、そんな識の誓いを許そうとしない意思が、すぐ傍まで迫っていた。
「ぎゃあああーーー!」
近くで聞こえた悲鳴に、楓が顔を上げる。どうやら、御神楽衆に見つかり、妖怪がまた一人斬られたようだ。
「私がしっかり見ていなかったせいで……!」
自らを責める楓だが、識は首を横に振った。
「すぐに片付けてくるから、隠れていてくれ」
「……うん」
識が悲鳴が聞こえた方に駆け付けると、黒装束が五人ほど。彼らの真ん中に飛び込み、識は一気に斬り伏せようとするが、最後の一人を残したところで、手から刀が滑り落ちた。
(しまった、力が……!!)
ずっと刀を振り続けていた識の手も、ついに限界がきていた。そこに、すかさず黒装束が刀を振り上げる。感情もなく、何かに動かされる人形のように。万全であれば刀がなくとも対処できたはずだが、識の足はもつれ、その場に腰を落としてしまった。
(ここまで、なのか……!?)
せめて、楓を逃がさなくては。そんな想いが過るが、この一瞬では何もできない。このまま、名も知らない剣士によって命が奪われると思われたが……。
「よくぞ持ちこたえました」
初めて聞く声。その直後、刀を振り上げていた黒装束が崩れた。すると、見知らぬ妖怪が識の前に現れる。どうやら、黒装束を斬ったのは、この妖怪のようだ。今識たちの上に降り注ぐわずかな月光のように、慎ましくも確かな美しさを持つ妖怪の男は言った。
「私は帳。蝕さまの手のものです。貴方たちを……迎えに来ました」
識たちが目指していた、蝕のもとからやってきた妖怪らしい。ということは……目的地はすぐそこなのだ。
「助かった……のか」
そう呟くと、急に視界が歪んだ。瞼の異様な重さは、識の思考を押し潰してしまう。
(楓は……無事、なのか?)
彼にとって最も大切な存在の安否すら確認できず、識はより深い闇の中へ落ちてしまうのだった。




