拒絶
境は翳の屋敷が落ちた後も、休むことなく、識の追跡を続けていた。
「あの狐野郎はどこだ! 言え!」
山の中で見つけた妖怪を捕らえると、境はその男の顔面を蹴り付けた。足裏と妖怪の間に黒い血の糸が垂れる。折れた鼻は何度潰されたのだろうか。もとの顔が想像できないほど、妖怪は酷く痛めつけられていた。
「本当に……何も知らないだ。俺は、途中ではぐれちまっただけで」
「それは何度も聞いたんだよ!」
今度は妖怪の肩に御神渡を突き刺す境。夜空に絶叫が轟くが、拷問は止まらなかった。
「あの野郎がどこを目指しているのか、それくらいは知っているだろう!」
「し、知らねえ……。本当だよぉ」
「なら、銀髪の巫女は見たのか!?」
頬を打たれた妖怪だが、心当たりがあるらしい。情報を提供すれば見逃してもらえるかもしれない、と期待したのか、素直に話すのだった。
「それなら見た! あんたの探している狐の面を被った妖怪の横にくっついて、歩いていたぜ。あの野郎、巫女を自分の女にして、どういつもりか――ぎゃっ!!」
妖怪の言葉は悲鳴によって遮られた。もちろん、境に顔面を蹴り飛ばされたのである。
「じゃあ、もう一度聞くぞ……。その狐野郎はどこを目指している?」
「だ、だから……!!」
「話せ!」
境の拷問はただの暴力だった。情報を引き出すのではなく、自らの鬱憤を晴らすための暴力だ。
「話せ! 話せ! 話せ!!」
最初は蹴り付けるだけだったはずが、境は御神渡を振り上げていた。落とされる刃に、黒い血が月に向かって跳ね上がる。何度も。何度も……。
「境。もう、死んでいるよ……」
ずっと見守っていた紬が声をかけ、境はやっと手を止めた。朝からずっと刀を握っていたその手は、自らの血で濡れている。だが、境はさらに山の奥へ進もうとしていた。
「待って、少し休まないと! ずっと戦いっぱなしでしょ!?」
「うるせえ! こうしている間に、楓は……」
紬を突き飛ばす境だったが、足の踏ん張りが効かなくなっているのか、その場に腰を落としてしまう。すぐに立ち上がろうと手を付くが、腕は震えて、体を支えきれないようだ。そんな姿を見た紬は目を背けながら、小さく呟く。
「そこまで、楓さんのことを……」
紬が何気なく顔を上げると、夜空に昇る煙が微かに見えた。恐らく仲間が、逃げる玄天狐党を見つけたのだろう。そこには、識がいるかもしれない。楓だって……。しかし、紬はそれを境に伝えなかった。
(境を休ませないと。それに、識と出会ったら……)
きっと、境は識を前にしたら正気でいられない。できることなら、孔雀威たちがすべて片付けるまで、眠っていてほしいのだが……本当に自分が望むのは、そこだろうか。紬は自分に問いただしてしまう。
(本当は楓さんに会って欲しくないだけなんだ。私、最低だ……)
紬は立ち上がろうとする境に、手を貸すことすらできなかった。
境は歯を食いしばり、どうにか立ち上がろうとするが、体が重たくて仕方がなかった。這いつくばって、どうにか岩に体を預けながら、もう一度足に力を入れてみたが、やはり駄目みたいだ。
(楓……どこにいるんだ。頼む、応えてくれ)
境は目を閉じて、万象神覚につながる。今の境は距離を超えて、同じ万象神覚を持つものに呼びかけることもできた。だが、楓側が拒絶しているのか、その声は届かない。ただ、体が動かないのであれば、楓を探す方法はこれしかなかった。
(なぜ、識の野郎と一緒に逃げ出したんだ? 何かの間違いなんだろ?)
しばらく呼びかけを続けたが、やはり反応はなく、再び足で彼女を探すしかない。万象神覚によるつながりを切断しようと思った、そのとき、確かに楓とつながる感触を得た。
(楓!)
――境、もう私のことは忘れて。
(忘れろってなんだよ……!! 戦いが終わったら、一緒に帰るって約束しただろ!?)
――私は約束したつもりはないよ。
(そんな……)
境は信じられなかった。
(でも、識の野郎に無理やり連れ去られたんだよな? 今すぐ助けてやるから、居場所を――)
――違うよ!
強い否定だった。
――私が選んだの。
(嘘だ……)
――本当だよ。
楓の言葉は、境にとって残酷なものだった。
――私が識と一緒にいたいと思った。
そんなわけがない。自分と楓は、お互いを理解し合った。万象神覚を通して、時間を超え、経験を超え、強い絆で結ばれたはずだ。それが、どうして。
今まで、苦しいことがたくさんあった。泥水をすすった幼いころ。鍛錬の日々。妖怪を相手にした殺し合い。どれも、強い痛みを伴うものだったが、楓の一言には及ぼなかった。
こんなに胸が痛むなんて……。むき出しの心に杭を打たれたような境に、楓の残酷な言葉が待っていた。
――だから、私のことは探さないで。
そして、再び万象神覚が閉ざされてしまった。何度呼びかけても、反応はない。それは強い意志による拒絶と同じだった。
「楓!」
思わず叫びながら立ち上がると、全身に痛みが走って、また膝を付いてしまう。
「大丈夫?」
傍らで膝を折り、背中に触れる紬の体温が、なぜか不快だった。今、自分が求めているのは、たった一人。今、自分を癒せるものは、たった一人。今、自分が触れたいものは……。
でも、それは拒絶されてしまった。もう触れることも許されないのか。微笑みかけてくれることも。
「触るな!」
叫ぶ境に紬は手を引っ込める。まるで、刃の先に触れてしまったように。
「俺は楓を……取り戻すんだ。そうじゃなければ、生きている意味もない!」
それに、つながりが切れる瞬間、楓は何か危機を察知しているようだった。おそらく、御神楽衆に見つかったのだ。自分が見つけなければ、楓は死ぬ。仲間たちに殺される。それだけは避けなければならない。しかし……。
「あれ、どうして……」
目の前に、妹が立っていた。いるはずがない、妹が「帰ってきてね」と微笑む。そんな妹の願いを叶えられるのだろうか。
「要、兄ちゃんは……」
意識の糸が切れる。自分の名を繰り返し呼ぶ紬の声も、どこか遠くから聞こえるようだった。そんな中でも、境は心の底から沸き上がる怒りを口にする。
「識、てめえだけは、絶対に……殺す!」
目の前に浮かんだ識の姿はただの幻か。それとも、万象神覚が見せた未来だろうか。歪む思考は答えを見出すことはなかった。




