相愛
識は深い森の中を彷徨っていた。ついさっきまで、楓の手を取っていたはずなのに、彼女の姿はない。見つけなくては。そうしなければ、柊のように……。
識は必死に走る。しかし、どこまで行っても楓の姿はなく、焦りは強くなる一方だった。闇の中に人の気配が。やっと見つけた。そう思って近付くと……それは宿敵の姿だった。
「識、てめえだけは、絶対に……殺す!」
境だ。あの粗暴な男が刀を手にして、襲い掛かってくる。迎え撃たなくては、と腰に下げた刀の柄を握るが……抜けない。どんなに力を入れても、少しも刀は動かなかった。どうして、と動揺している間に、境が目の前に立っている。
「死ね!」
何の工夫もない袈裟斬り。身を捩れば、躱すことだってできるのに、体すら動かなかった。
死ぬ。この男に殺される!
識の焦りが爆発するように恐怖へ入れ替わった瞬間……彼は目を覚ました。
「うっ……」
斬られた、と胸に手を当てるが、傷はない。夢だったのか、と気付いたあと、再びの不安が。
「楓……!!」
「いるよ」
すぐに返事があった。そして、手の甲に冷たい感触が。すぐ傍らから、楓の手が重ねられたのだ。
思わず、識はその手を取って、自分に引き寄せる。腕の中に彼女の存在を包み込むと、少しだけ落ち着いたが、驚かせてしまったようだ。
「もしかして、怖い夢でも見たのかな?」
「……ああ」
「誰かがいなくなる夢?」
答えに躊躇っていると、楓は小さく笑ったみたいだった。
「柊、って人だ」
「違う……!」
否定しながら、より強く彼女を抱きしめる。本心が伝わるように、と。
「大丈夫。私はいなくならないよ」
体を離すと、楓が頬に触れてくる。そこで初めて仮面がないことに気付き、慌てて辺りを見回すと、彼女はおかしそうに笑った。
「はい、どうぞ。安心して、誰にも見られていないから」
「すまない……」
楓から面を受け取り、やっと冷静を取り戻すと、ここがどこなのか、という当然の疑問が浮かんだ。どうやら、よく整理された納屋の中のようだが、御神楽衆に捕らえられたわけでもなさそうだ。だとしたら、ここは……。その答えはすぐに返ってくる。
「ここが蝕の隠れ家だよ。識のおかげで……辿り着いたんだ」
「……私は途中で倒れた記憶しかない」
楓は穏やかな顔で頷く。
「蝕の使いって言う、帳さんが助けてくれたの。それも覚えていない?」
そういえば、倒れる直前に若い妖怪の男を見た。翳の屋敷が落とされたことを知って、蝕が助けを出したのだろうか。帳という妖怪は「迎えに来た」と言っていたはずだが……。思い悩む識を楓が笑う。
「そんなに不思議なことがあるなら、本人に聞けばいいよ」
「……そうだな」
識はどうにか微笑んでから、楓の手を取って再びその体を引き寄せる。細い体を抱き締めると、心の中が洗われるようだった。
「あらあら。識は意外に甘えん坊さんなんですねぇ」
そう言いながら背中を撫でられると、むずがゆいが、悪い気はしない。ただ、この瞬間が永遠になれば、と願うばかりだ。楓の笑い声が、また識の心をくすぐる。
「まぁ、ずっと我慢していたものね。いいよ、私が甘やかしてあげるから」
そうだ。ずっと、こんな満ち足りるような時間を求めていた。柊と別れてから、ずっと。だが、二度と手に入らなくなってしまった。そう思っていたところに、楓が現れ、識は直接心を触れられてしまう。抗ったが、駄目だった。
万象神覚とは不思議なものだ。一瞬の接触だけで、これだけ強く惹かれてしまうなんて。いや、その兆候はあった。だが、一度認めてしまうと、楓を大切に思う気持ちが溢れ出そうになってしまう。
「言っておくが、柊の代わりだと思っているわけではない」
いつだか責められたが、また同じ思いをさせているのでは、と少しだけ怖かった。だが、楓は臆病な識を揶揄うように笑う。
「いいよ。私は柊の代わりにはなれないけど、識の傍にいたいと思ってここにいるんだから」
「……ありがとう」
すると、楓は体を離してから、識の顔をまじまじと見た。
「どうした?」
次に楓が見せた笑顔は、今までのものと違った。まるで、初めて大切なものを得た少女のような笑顔だった。
「だって、識にお礼を言われるの、初めてだったからさー。嬉しくて」
「そんなことない。前も感謝は伝えたはずだ」
「うそー? いつー?」
思い返してみるが、答えられない。だが、自分の言葉一つでこの女を喜ばせられるなら、もっと素直に気持ちを伝えるべきなのだろう、と思った。つい笑みを零すと、さらに愛おしさが溢れていく。
「おっ、なかなか可愛い顔で笑いますねぇ」
そう言いながら、楓が顔を寄せてきたため、一度胸が強く音を立てた。その音が聞こえたのだろうか。楓は口元に笑みを広げる。
「いま、私のことを孕ませたい、って思ったでしょ?」
「そんなことは……」
「えー? 私に嘘は通用しませんよー?」
楓の弱々しい力に押し込まれ、識は背を床に付けると、彼女はその上に体を重ねてきた。落とされた唇の感触は、識の罪悪感を呼び起こす。柊を失ったばかりなのに、自分は……。
そんな気持ちも楓にはお見通しらしい。彼女は識の耳元で囁く。
「いいんだよ。柊のこと、考えながら……しても」
「楓……」
溶けていく。胸の奥が。頭の中が。溶けて、むき出しとなった欲情が、女に包まれる。それは逆らいようのない、衝動だった。識は彼女の帯に手をかける、が……。
「楓殿。識殿はどうか?」
戸を叩く音が聞こえた。二人は見つめ合って、お互いの意思を確認するが、楓の方から体を離した。
「たぶん、帳さんだよ。顔を見せてあげて」
識は頷き、面を取って立ち上がるのだった。




