零落
納屋を出ると、美しい顔の若い妖怪が立っていた。まだ生まれてから、十年半。いや、もう少しは経っているだろう。そんな妖怪が識を見て、すぐに頭を下げた。
「すみません、中から声が聞こえたので、目覚めたのでは……と」
「聞こえたのか?」
反射的に確認すると、後ろで楓が笑う気配があった。
「内容までは聞こえていません。邪魔してしまったでしょうか」
どこまで察しているのだろうか。帳は至って真面目な顔で聞いてくる。
「いえ、私もちょうど礼を言わなければ、と思っていたところでした」
「ならば良かった。蝕さまが貴方にお会いしたい、と言っています。こちらに」
帳が歩き出し、識は振り返って楓に頷くと、彼女も立ち上がって後を付いてきた。改めて、周りを見てみると、やはり山の中だった。時刻は日が昇る直前らしく、少し薄暗い。
そんな中で、一緒に逃げてきた玄天狐党の妖怪たちも体を休めているが、誰もが疲れ切っていた。どうやら、蝕の手下たちが面倒を見てくれているようだが、気力が戻るまで時間がかかるだろう。
「助けていただき、ありがとうございました」
識は帳の背中に声をかけると、彼は振り返った。
「いえ、貴方こそ……あの状況でよく妖怪たちを守れましたね。簡単ではないことだと思います」
「蝕さまが率いる玄天狐党が優れていただけです。私は何も」
こういった調子で褒めれば、多くの妖怪は満更でもない、という顔を見せるものだが、帳はどこか決まり悪そうな表情の後、前を向いてしまった。
すると、古びた社が見えてきた。きっと、翳が言っていた蝕の隠れ家だ。どれだけ手入れがされてないのか、今にも朽ち果てそうである。
「先程の納屋は手入れが行き届いていたのに」
識の呟きに帳が答える。
「納屋の方は私が片付けていますから。こちらは蝕さまの指示で、手を付けていません」
「何か理由があるのでしょうか?」
「朽ちるものは、朽ちるままにしておくべきだ、と」
どういった意味なのだろうか。改めて社を見上げると、それなりに大きいようだった。昔は多くの人間が参拝にきたのだろう。しかし、人間たちの住まいが変わって、少しずつ足が遠のいてしまったのかもしれない。
廊下を歩くたびに、板の軋む音が響いた。まるで、力尽きそうなものが苦痛を訴えているようだ。
「では、この奥に蝕さまがお待ちなので」
帳はそう言い残し、下がろうとした。
「貴方は同席しないのですか?」
「すぐそこに控えていますので」
なぜか、帳は苛立ちを抑えているようだった。その理由は分からぬまま、識と楓は蝕の待つ部屋に進んだ。廊下と同じように朽ちた部屋で、装飾もない。唯一あるとすれば、壁の前に置かれる刀だけ。
(近くに川があるのだろうか)
微かではあるが、識の耳には水が流れる音が聞こえる。ここまで歩いてきたときは、それらしいものはなかったはずだが……。
そして、妖怪の気配に奥へ視線を向けると、奥に長い黒髪が揺れていた。彼女は縁側に腰をかけ、庭を見たまま振り返ろうともしない。識と楓は座ってから頭を下げたが、やはり反応はなかった。識は頭を下げたまま名乗る。
「私は識と言います。樒ヶ里村では――」
「よい」
蝕は言葉を遮ると、やはり振り返らないまま言った。
「大方のことは杠葉から聞いている。それで……お前の望みはなんだ?」
識は迷った。膝の横に置いた刀を取ろうと思えば取れる。蝕が叫んで助けを求めたとしても……。しかし、識は小さく息を吐いてから、蝕に頼みごとを告げた。
「翳さまからお預かりした妖怪たちを受け入れていただきたい。そして、蝕さまのもと、妖怪たちを団結させ、御神楽衆の包囲から抜け出すよう命じていただけないでしょうか」
しばらく、蝕は何も言わなかったが、縁側から見せる景色が少し変化した。どうやら、日が顔を出し始めたようだ。それを見たせいなのか、蝕が口を開いた。
「興味がない」
「……何と?」
「興味がない、と言ったのだ」
今度は識が黙る番だった。玄天狐党は、蝕が蒼月を殺してまで手に入れた集団だ。その存亡がかかっているのに、興味がないとは、どういうことなのか。
「しかし、蝕さまが彼らを導かなければ、玄天狐党は滅びてしまいます。誇り高き妖怪の種族が消えてしまっても、よろしいのでしょうか」
「滅びるものは滅びる。それでいいのだ」
蝕は本気で言っているようだった。彼女の本心が分からないが、説得しなければならない。識は言葉を選ぼうとしたが、蝕が続けた。
「そもそも、妖怪という種族が滅ぼうとしている。これは、どう抗っても止められないのだよ」
「妖怪、すべてが……ですか?」
蝕は頷いたようだった。
「昔の妖怪は強かった。意思と信念を持ち、強い個として行動していたが……今はどうだろうか。人間たちに怯え、肩を寄せるばかりだ。ただ仲間内で自分たちは妖怪なのだと確認し合い、どうにか自尊心を保とうとしている。そんなものたちに誇りなどあるわけがない」
そんな妖怪たちの姿が目に浮かんだのか、蝕は鼻で笑った。
「我が妹……翳が死んだ時点で、強い妖怪が生きる時代は終わった。あとは揺るやかに数が減るだけ。私はそんな自然の摂理に逆らうつもりはないよ」
「しかし、それでは……御身の命すら危険に晒されてしまいます」
「構わん」
蝕が振り向いた。光る赤い瞳を覗けば、どこにでもいる人間の女のようだ。着物も痛み、顔もやつれている。だが、その瞳だけは妖怪としての自分を主張するように、赤く輝いていた。
「私は死んでも構わん。なんなら、識、お前がその刀で、私の首を落としてもいいのだぞ?」
「……なぜ、私がそのようなことを」
興味を失った、と言わんばかりに、蝕は庭の方に顔を向けてしまった。
「私の首を取る気がないのなら、ここを立ち去れ。どんなに言葉を尽くしたとしても、私の意思が変わることはないぞ」
それでも言葉を探す識だったが、蝕の背中からは無言を貫く、という固い決心が見られた。
「失礼します」
識は諦めて、崩れそうな部屋から出た。
「いいの?」
付き添う楓に聞かれても、言葉が出てこない。困った、と低く唸っていると、帳が顔を出した。
「終わりましたか?」
「ええ。しかし、蝕さまは……」
「玄天狐党を導くつもりはない、と?」
その通りだった。識が返答に困っていると、帳は呆れたように溜め息を吐く。
「やはり、そうでしたか」
三人は社から出て、森の中で体を休める疲れ切った妖怪たちを見渡す。帳は憐れむような目で言うのだった。
「蝕さまは……ずっとあの調子なのです」
「あの調子、とは?」
「すべてに興味がなくなってしまった。この社と一緒に、自分自身が朽ちるのを待つかのように、何もしない。このままでは玄天狐党も滅びるだけです。我々も、どうするべきか……」
若い妖怪が抱える将来の不安に、識は何を言ってやるべきか分からなかった。




