逃避
識は楓の手を引き、地下から脱出するが、光に目を細めると、その先に何者かが倒れていることに気付く。
「識?」
手に力が込められたせいで、楓を不安にさせてしまったようだ。識は小さく頷き、彼女の手を引いて、倒れる翳のもとへ歩みを進める。
もし、翳が生きているとしたら、楓に会話を聞かれたくはない。が、その手を離せば、また失われるのでは、という不安があった。
「翳さま」
「……おお、識。生きていたか」
何とか体を動かし、塀にもたれる翳だが、所々から流れる血は止まりそうにない。そして、目も殆ど見えていないのか焦点が合っておらず、楓の存在にも気付いていないようだ。
「どうにか逃げ出したが、これでは生きながらえることは難しいだろうな」
咳き込みながら、血を吐く翳は、自嘲するように微笑みを浮かべた。
「識、お前が現れなければ、こんなことにはならなかった」
「それは……どういう意味でしょうか?」
翳は浅い呼吸の中、自虐的な笑みを広げる。
「気付いたのだよ。誰かを愛し、孤独を恐れることは……妖怪として弱くなる。お前に特別な気持ちを抱いた時点で、私は妖怪として終わっていたのだ」
黙る識に、翳は小さく首を横に振った。
「いや、今のは忘れろ。それより……」
血にまみれたその腕をどうにか持ち上げ、翳は林の方に指先を向ける。
「生き残った妖怪たちを北東に集結するよう、指示してある。お前が……やつらを導け」
どうやら、屋敷が空だった理由は、翳が既に妖怪たちを逃がしていたかららしい。
「導くと言っても……どこに?」
「樒ヶ里村の北に、小さな山があるだろう。その山頂近くに、蝕姉さまが住む社がある。姉さまなら、きっと……」
翳が大量の血を吐き出すと、肩の力を抜いたようだった。識は問う。
「私に玄天狐党の妖怪たちを率いることができるでしょうか」
「できる。私が念入りに言い含めたが、それだけではない。お前の働きに、妖怪の統領として、誰もがその実力を認めている。……できれば、やつらを姉さまに届けた後も、玄天狐党のために、妖怪たちを導いてくれないか?」
「私には……」
言い淀む識だが、翳には時間が残されていないようだった。
「どうするかは任せる。だが、最後に、私の願いを……聞いてくれ」
「私にできることなら」
「お前の……顔を、見せてくれ。秘密が、あるのかもしれない、が、どうせ死ぬ女だ。最後に明かしてくれても、良いだろう?」
識は少しだけ迷った。このまま、死にゆく翳に自分の正体を明かすかどうか。だが、識は楓から手を離すと、面を外して翳の前で片膝を付く。
翳は閉じていく視界の中、どうにかその顔を見ようと、目を細めたが、ついにその正体を知って、眉を上げるのだった。
「そ、そうか……。朔月、お前だったか。だから、あの方の面影が……」
翳はゆっくりと手を伸ばし、識の頬に触れる。黒い血はもう温かくはなかった。
「すべて合点が行った。仄も死ぬ、わけだ。……復讐か? 父を殺され、玄天狐党も奪われた。その恨みは、さぞ深いものだろう」
「……翳さま」
識は頬に触れる翳の手を取った。
「父のことも、玄天狐党のことも、私にとっては些末なことなのです」
「な、に?」
「いえ、むしろ私は……この里を訪れてから、貴方のことを好ましく思っていました。貴方のもとなら、識と言う妖怪として、玄天狐党に属するのも悪くないかもしれない。確かに、そう思う瞬間もあったのです」
ならば、なぜ。翳はそう問い返す力も残っていないのか、小さく唇を動かすだけだった。
そんな彼女の手を識は握り締める。死にゆく女を看取るような、優しいものではない。憎い敵を踏み躙るための強い力だった。
「しかし、貴方は骸伝のような下衆な妖怪に命じて、柊の魂を汚した! 貴様ら、月蝕の三姉妹は、二度も柊を殺して、その魂まで弄んだのだ。それは私にとって……決して許せるものではない」
翳の瞳から涙がこぼれた。叱りつけられた、子どものように。
「翳さま」
そんな彼女の名を識は優しく呼ぶ。
「私の手で……殺されてください。人間に、他のものに、殺されるなど許せません。どうか、私の手で」
その言葉に、瞼の重さに耐えられそうになかった翳の目が、ゆっくりと開き始める。そして、全身の痛みに耐えるよう、歯を食いしばり、彼女は体を起こそうとした。
「ありがとうございます、翳さま」
識は翳に顔を寄せると、唇を重ねる。
その意外な行動だったせいか、翳は目を見開くが、もしかしたら、それは別の理由によるものかもしれない。なぜなら、彼女は自らの腰にあった脇差で、識に腹部を貫かれていたからだ。
だが、彼女は納得したような穏やかな顔を見せると、ついにその瞳を閉じた。
識は翳の絶命を確認してから、時間をかけて体を離すと、手にした脇差を捨てて振り返る。もちろん、そこには一部始終を見守っていた楓が立っていた。
黒い血が付着する口元を拭う識を見ても、楓は何も言わない。そして、識の方も楓に手を差し出さなかった。
醜い復讐者である自分と楓は一緒にあるべきではない。
それは識にとって最後の警告だった。何やら騒ぐ声が聞こえてくる。御神楽衆が二人を探しているのだろう。楓に考える時間は残されていない。しかし、彼女の方から識の手を取った。
「私を見くびらないで。それくらいで……いなくなったりしない」
もう識は迷わなかった。
いや、迷うことができなかった。
楓という存在を受け入れようとする自分に逆らえなかったのである。
「楓……」
「話はあとにしよう。今は逃げないと」
「そうだな」
識が面を拾い上げてから、二人は翳が示した林の方へ向かう。触れ合う手は温かい。まるで、潰された心の中まで包まれるようだ。
だから、二人はこの先の結末を決して見ることなく、今はただ目の前の問題から逃げ出すことを選ぶのだった。




