斬刻
境たちが翳のいる広間に踏み込む少し前。識は楓の万象神覚に呼ばれ、屋敷の裏手に回っていた。
「識!」
手招きする柊の姿を見て、識は安堵する。まだ戦いが終わっていないのに、近寄ってから彼女を抱きしめてしまった。そんな識の背を撫でながら、柊は優しく囁く。
「不安だったか?」
「少しでも離れれば……不安だ」
素直な言葉のつもりだったが、柊は小さく笑った。
「まだ迷っている。違うか?」
そんなわけがない。既に二人で逃げ出す覚悟は決まっている。だが、柊の万象神覚が識の本音を見抜いているとしたら……それは、楓の姿を一目見てしまったせいなのかもしれない。
「柊、これ以上は何も考えたくない。俺は、いち早くこの争いを抜け出して、お前と幸せな日々を送りたいのだ」
「ああ、そうだな」
体を離すと、柊は屋敷の外壁を見た。
「ここに隠し扉がある。恐らくは、この先に骸伝が隠れているはずだ」
「こんな場所に……?」
二人の前にある壁は、怪しいところはないように見えた。だが、柊が言うのであれば、それは事実と変わりがないのだ。じっくりと壁を調べてみると、異様に柔らかい部分を見つける。二人は顔を見合わせてから、識がその部分を押し込むと、壁がへこんで金属がこすれるような音が聞こえた。
「開錠されたのかもしれないな」
柊が指摘した通り、壁を押し込んでみると、くるりと回転して、奥に空間が現れた。
「この嫌な感じ……骸伝の妖気に違いない」
暗い空間から漏れる重たくて不快感の強い風は、あの卑しい妖怪の顔を思い出させる。識は注意するように、と視線だけで柊に警告しつつ、先に進む。どうやら地下につながっているのか、道は下っていた。
――識!
もう少しで、骸伝から人形を奪えるはずだ、と確認していた識だったが、誰かに呼びかけられた。
――助けて、識!
万象神覚を通じて……助けを求めている。間違いない、楓の意識だった。思わず識は足を止めてしまった。
「呼んでいるみたいだな」
どうやら柊にも、その声は届いていたらしい。
「あたり構わず助けを求めているところを見ると……かなり危険な状態にあるようだが」
識は理解する。恐らく、翳が本気を出したのだ。彼女の実力がどれほどのものか知らない。が、ここに住まう妖怪たちは、誰もが翳という妖怪を尊敬しているようだった。それは、彼女の人格だけでなく、圧倒的な力によるものだったのかもしれない。柊が呟くように言う。
「御神楽衆は返り討ちに遭い、あの楓という巫女は無防備な姿を晒しているのかもしれない」
識は黙って一歩を踏み出す。それは柊に自分の意思を伝えるためだったが、当の彼女は足を止めたままだった。
「識、無理をするな」
「何のことだ」
「私がお前の気持ちを分からないとでも思っているのか?」
返す言葉に迷う識に、柊は呆れたように言う。
「お前は冷徹のようで情の深いところがある。一度惹かれた女を見捨てることなど、できるわけがない」
「言ったはずだ。俺は柊がいてくれれば、何もいらないと」
柊は少しだけ歩みを進めた後、識の背に触れた。
「そうは言っても、お前は後悔するよ。例え、無事にここを抜け出して、私と一緒に過ごす日々がやってきたとしても……お前はあの女の命を背負って、自分を許せない。後悔の連続に苦しむのだ」
黙って動かない識に、柊は重ねて言う。
「私が嫉妬するとでも思っているのか? まぁ、多少は妬くかもしれないが、罪悪感を抱えるお前と一緒にいる方が苦しい。どれだけ、あの女が大事だったのだ、と余計に嫉妬で狂うかもしれないぞ」
「それは……」
「嫌なら助けて来い。まだ間に合うはずだ」
「すまない」
二人は地下に続く通路を引き返して外に戻る。識は柊に念を押す。
「何か異常を察知したら、すぐにここを離れろ。そして、万象神覚を通じて俺に助けを求めるのだぞ」
声に力がこもる識だが、柊は揶揄うように笑う。
「誰に言っているのだ。私に危険が近づくことはない。貴様の持つ万象神覚とは、比較にならないものなんだぞ」
「……そうだったな。では、行ってくる」
二人で行動した方が安全かもしれない。が、柊が一緒では駆け付けるまで時間がかかってしまうし、翳に目撃される恐れもある。すぐに片付けて戻ればいい。そうすれば、何の心残りもなく、柊と二人だけの暮らしが始まるはずだ。
明日見る朝の光は、これまでにないほど美しいものだろう。識はそう信じて、ただ速く走るのだった。
識の背中を見送りながら、柊は笑みを抑えきれなかった。
「素直な男だ」
だが、本気で自分と二人で生きる道のためなら、どこまでも全力であることは伝わってくる。多少、思うところはあるが、残りかすのようなこの体で、まだ幸せを感じられるのなら、文句などなかった。
「愛しているぞ、識。面と向かって言うのは、少し恥ずかしいが……」
この体が朽ちる前には、必ず言わなければならない。そう思ったのに……。
「おやおや? 僕のお人形が、どうしてこんなところに?」
腹の底から込み上げる不快感。振り返ると、巨大な蛞蝓のような妖怪の姿……骸伝が立っていた。
「ど、どうして……」
おかしい。危険が迫っていれば、万象神覚が告げるはず。こんな距離に近付かれるまで、察知できないなんて、あり得ないはずだ。しかし、骸伝の表情が歪む。それは、不気味で汚らわしいものだが、笑ったようだった。
「どうして、万象神覚が僕の気配を察知しなかったのか、って言いたいのかな?」
骸伝が口を動かすと、生臭い匂いが流れ、柊は思わず口元を抑えるが、当の本人はそんなことは気にしないと言わんばかりに説明した。
「君は僕のお人形なんだよ。こいつを使えば、そんな力を使えなくすることくらい、簡単なことさ。隠し扉を誰かが開いたみたいだから、君なんじゃないかって思ってねぇ」
骸伝が見せたのは、柊の本体とも言える藁人形である。柊はそれを寄こすように、言葉を発したつもりだが、妙な感覚があっただけで、声は出ていなかった。不思議に思うと、骸伝が笑う。
「いま、喋れなくしたところだよ。叫ばれて誰かに見られたりしたら、面倒だからなぁ」
どういうつもりだ、と柊は問いただそうとするが、やはり声は出ない。それでも、骸伝にはその意思が通じたらしい。あの気色の悪い笑みを浮かべて言うのだった。
「もちろん、君を弄んで楽しむつもりだよ。翳さまに見つかったら、生きたまま捕えろって言われるだろうし、面倒だろ? だから、静かにさせてから、思いっきり犯してやるんだ。嗚呼、一度で良いから綺麗な巫女を好きなようにして遊びたいと思っていたんだ。げへっ……げへへへっ!!」
骸伝の下半身から伸びる歪な突起が、柊に向けられる。そして、おぞましい妖怪の影が、彼女と重なった。だが、柊は一歩たりとも動けない。動くことを許されていない。ただ、骸伝の異常な欲情に飲み込まれてしまうのだった。




