天秤
紬は楓の手を引き、屋敷の中を逃げるが、その背後に迫る翳の気配を感じていた。古守が時間を命を投げ捨て、時間を稼いでくれたからには、何としても逃げ切らなくては。そう思う紬だが、背後に近付く殺気は絶望を引っ張り出そうとする。
「紬ちゃん、もう……駄目。走れない!」
さらに、楓はもう限界が近いようだった。足がもつれ始めているが、それでも紬は彼女を引っ張る。
「死ぬ気で走ってください! 貴方を死なせるわけには……!!」
そう言いながら、紬の頭に嫌な考えが過る。
(ここで楓さんを見捨てたら……)
誰が自分を咎めるだろうか。だが、彼女が死んだとしても、境が生きているとは限らない。境が死んでいるとしたら、自分は……。
「いいよ」
楓が呟くように言った。
「私を差し出して……殺してもいいんだよ」
心を読まれた。寒気が全身を襲うほど後ろめたい気持ちに胸は押し潰されそうになり、思考は完全に停止してしまう。そんな激しい動揺に溺れる紬だが、追い打ちをかけるように、楓が囁いた。
「私が死ねば、きっと境だって帰ってくる。全部、貴方の思い通りなんだから」
恥じる気持ちはあったが、同時に紬の中で何かが弾ける。
「ふざけるな!」
足を止めて振り返り、楓の頬を手で打つ。
「お前のために男たちが命張っているんだ! 簡単に死ぬとか言うんじゃない!!」
そうだ。自分は確かにこの女が嫌いだ。だけど、この女のために古守は死んだ。もしかしたら、境だって……。二人の命を無駄にしないためにも、この女は生かさなければならない。
「だから、私はあんたが気に入らないんだよ!」
膝を折った楓の胸倉を引っ張り、額を寄せる。
「万象神覚なんてよく分からないものが、生まれたときからあって苦労しているのは同情する。貴人に囲われて自由に生きられないのも可哀想だと思うよ。でもね!」
殴られ、罵倒されているにも関わらず、眉一つ動かさず、すべてを受け入れる楓が、余計に紬の苛立ちを刺激する。それでも彼女はもう一度手を上げることだけは耐えてみせた。
「境や古守さんを振り回しているくせに、当然だって顔して。誰よりも人の気持ちが分かるくせに、心を弄ぶようなことばかり言いやがって……! 私はそんなあんたが許せない!」
できるだけ、気持ちを抑えながら、紬が突き放すと、楓は再び崩れるように膝を折ってへたり込む。だが、もちろん言いたいことは、終わっていない。
「もっと許せないのはね、あんたのために必死で戦っている男たちがいるのに、あんた自身が必死に生きようとしないことだよ!」
「だって……」
「だってじゃない!」
紬は手を差し出す。
「どうせ死ぬ気があるなら……人の心を天秤にかけるようなことはやめて、最初から本気で男を愛してみれば良かっただろ! 男のために、あんたが命をかけろよ!」
そうでなければ、この女が幸せにならなければ……境と古守の命は何だったというのだ。紬自身も、死ぬほど悔しいし、はらわたが煮えくり返るほど気に食わないが、人の命や想いを粗末にするなんて。踏み躙るなんて、絶対に許せなかった。怒りが収まらない紬を前に、楓は無表情のまま、やや視線を落とす。
「もう手遅れだよ……」
「手遅れにならないためにも、今は必死に生きることを選んで!」
それでも動かない楓の手を無理やり引っ張って立たせ、紬は再び走り出すが、少し時間をかけ過ぎてしまったらしい。
「見つけたぞ、巫女ども!」
ついに翳の視界に入ってしまった。
「こっち!」
少しでも翳が見えない場所へ移動するため、紬は最初の角を曲がるが、そこは開けた中庭につながっていた。
「馬鹿め。屋敷の中は私にとって腹の中のようなものだ。逃げ切れると思っているのか?」
すぐに追いかけてきた翳が背中の蔓を動かして、紬たちを襲う。無数の殺意に背中を撫でつけられる。回避しようのない、死が迫っていた。
「死ぬもんかぁぁぁーーー!!」
それでも、紬は楓を抱きかかえて、頭から思いっきり前に飛び込む。すると、背中のすぐ上を蔓が通過し、前方にあった柱を貫いた。楓を庇って、地に体を打ち付けた紬は、痛みに耐えながら、どうにか助かる方法を考える。だが、翳はすぐ近くまで迫り、逃げたところで追いつかれてしまうのは、考えなくても分かることだった。
だとしても、立たなければ……。
でも、立ったところで……。
絶望する紬だったが、抱きかかえていた楓が言った。
「紬ちゃん、助かるよ!」
「えっ?」
「助けにきてくれる!」
「もしかして、境が……!?」
「違う!」
楓は否定するが、その直後に躊躇うような表情を見せた。しかし、境でなければ、誰が助けに駆け付けてくれるのだろうか。援軍が到着した? それとも……。その答えは楓が教えてくれた。
「相馬さんだ。もう少しで……あの人が、助けてくれるよ!」
「相馬さんが??」
そうか、あの人もこの妖怪の里に潜んでいるはず。偶然、紬たちを見つけて助けに入ってくることも考えられるかもしれないが……。
「だったら、少しでも時間を稼がないと……!!」
紬は立ち上がって、懐から取り出した剣鍔を握り込む。相手は、恐らく境も倒せなかった上級妖怪だ。それでも、助かる可能性があるなら、ほんのわずかでも時間を稼いで、命をつなぎとめるしかない。だが、翳を前にすると、その威圧感は想像以上のものだった。
「失せろ」
翳の蔓が暴れ回ったかと思うと、何が起こったか理解することもなく、紬の体は浮遊感に晒されていた。気付かぬ間に頭を打ったのだろうか。
意識が限りなく薄くなるが、視界が閉ざされる中、紬は屋根の上に立つ狐の面の男を見た気がした……。




