古守
「静かですね……」
屋敷を眺めながら古守が呟く。先程から彼の耳には、楓と紬が舞う凪の神楽によってこすれる紙垂の音と、遠くから聞こえる争いの声だけだ。どうやら、御神楽衆の援軍が駆け付けるまで、まだ時間がかかるらしい。
「……境」
唐突に楓が呟き、舞いを止めた。
「楓さん?」
紬が彼女の様子を窺うと、その顔は酷く青かった。
「逃げないと……殺される!」
楓の言葉に古守が真っ先に動く。
「皆、逃げろ! この屋敷からできるだけ離れるのだ!」
後ろで様子を見ていた樒ヶ里村の男たちは、古守の言葉に困惑しつつも、屋敷から離れ始める。古守自身も刀を抜きつつ、楓の手を取って、屋敷から離れようと走り出すのだが……どうやら遅すぎたようだ。
「やはりいたか、御神楽衆の巫女」
突然、塀が爆散したかと思うと、土煙の中から女妖怪が現れたのである。その背には無数に蠢く蔓らしきもの。一体の妖怪であるはずが、まるで百の魑魅魍魎を前にしたような圧迫感を覚えた。間違いない、この里を統べる、翳という妖怪なのだろう。恐怖と嫌な予感に、紬も顔を青く染めた。
「まさか……境は!?」
だが、古守が楓を後ろへ突き放し、紬よりも前に出て刀を構える。
「私が時間を稼ぎます。楓さまと紬殿はここを離れてください!」
「そんな!」
反対したのは紬だ。多くの妖怪を前にしてきたからこそ分かる。翳は古守が一人でどうにかできる妖怪ではない。
「私たちが舞って、こいつの動きを止めてみせますから! ねぇ、楓さん?」
せめて凪の神楽によって古守を助けたかったが、楓は震える唇で否定した。
「駄目だよ、すぐに逃げないと……殺される」
きっと、楓の言うことが正しいのだろう。しかし、紬は認めたくはなかった。手にした祓串を強く握りしめ、凪の神楽を舞ってみせる。これには、翳がわずかに眉を上げた。
「なるほど、これだけ近いと重いな。しかし……!!」
無数の蔓が伸びて、古守を襲う。一本、二本と古守の刀は蔓を斬り落とすが、そこからは為す術がなかった。鋭い先端を持つ蔓が、古守の体を切り裂く。
「ぐあっ!」
そのうちの一本が、彼の横腹を突き刺し、堪らず蹲ると、大量の血が足元を濡らした。
「このままでは……」
「古守さん!!」
思わず舞いを止めて古守に駆け寄る紬だったが、そこに蔓が伸びた。
「おおおっ!!」
それを察した古守は、腹から血を吹き出しながら立ち上がり、蔓を叩き斬ると、紬を押して後ろに下がらせた。
「紬殿、楓さまを連れて逃げてください!」
「でも……古守さんが!!」
「どの道、私は助かりません! ならば、二人だけでも……!!」
「駄目ですよ! 奥さんと子どものために、帰らないといけないのでしょう!?」
蠢く蔓を従え、翳がゆっくりと近付いてくる。彼女がその気になれば、一瞬で紬の命を奪うことも可能なのだろう。しかし、翳はこの状況を楽しむようだった。古守もそれを察したのだろう。振り返ると、紬に頷いてみせた。
「紬殿……。貴方を必要としてくれる人は必ず現れます。だから、目の前のことがすべてだと思わないでください」
「古守さん……」
「さぁ、逃げて。楓さまに死なれては……私の妻子が危ういので」
二人きりで話していたときのように、古守が微笑んだ。
「分かりました。必ず……楓さんを守り抜いて、生きて帰りますから!」
紬は背後で立ち尽くしていた楓の手を取り、走り出す。だが、その背に蔓が迫った。直線的に走っては、背を貫かれてしまう。紬は屋敷の中へ逃げざるを得なかった。走りながら、紬は心の底から願う。
「古守さん……どうか!!」
生きてほしい。だが、あの状況では、その願いがあまりに儚いことを紬は十分に分かっていた。
古守は薄れる意識の中で、どうにか立ち上がる。ほんのわずかでいい。二人が逃げる時間を作らなくては。
「人間よ」
どうにか刀を構える古守を見て、翳が語り掛けてきた。
「お前たちの幸せとは何か?」
「……何を?」
「答えよ。命尽きる時こそ、本音が出るものだろう」
古守は考える。自分にとって幸せとは何だったのだろうか、と。真っ先に出てくるのは、やはり妻と子の顔だった。
「妻と子……家族や仲間と一緒に、笑い合う日々を過ごす。それが、私たちの幸せだ」
素直な古守の答えに、翳はそっと目を閉じた。何を考えているのか、目を閉じたまま動かない。体が動けば、この間に逃げられたかもしれないが、それも難しそうだった。
「分からぬ」
目を開いた翳が言う。
「他者と寄り添う。その機会が私になかったせいだろうか」
自身の過去を思い返しても、翳にとって、その温もりは覚えがないらしい。だが、古守は思う。機会の問題ではない。誰かと寄り添いたいと人が思うのは、自然と身の内から出る気持ちなのだ、と。翳が真っ直ぐと古守を見た。
「もう一つ聞く。人間と私たちは手を取り、共に生きることはできるか?」
なぜ、そんなことを聞くのか。古守には分からなかったが、答えは決まっている。
「無理だろうな。人の温もりを知らぬお前たちに、人間を理解するなど……」
「……そうか」
命を絶つ一撃がくる。そう思われたが、翳はただ古守の横を通過し、屋敷へ向かうだけだった。古守は緊張が切れると同時に、自らの血の上に倒れると、薄れていく意識の中、家族のことを想った。
「いつも、土産すら買ってやれず、すまなかったな……」
目を閉じることもなく、古守の意識は途切れる。だが、その瞬間、彼は妻子の笑顔を見たような気がした。




