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識の過去

 

「よう、柘榴(ざくろ)。この前の話、考えてくれたか?」



 無為(むい)は柘榴に声をかけてきたが、まるで識など見えていないような振る舞いだった。柘榴は答える。



「貴様の下らない話に耳を傾けた覚えはない」



 識は門の手前で立ち止まったものの、柘榴の態度を見て、再び歩き出す。もちろん、柘榴もそれに従ったが、無為はしつこく声をかけてきた。



「そう言うなよ。お前が望めば、いつでも俺の配下に付けてやる。狐の面なんて被って、三姉妹殿に媚びようとする男より、よっぽど良い暮らしができるぞ」



 杠葉の屋敷を離れ、無為の視線も感じなくなったころ、柘榴は口を開いた。



「あの、識さま」


「なんだ?」


「私は識さまにお仕えすることで幸せを感じています。これからも、お傍に……」


「もちろんだ。頼りにしている」



 頼りに、か。柘榴は胸の内で呟き、それ以上は何も言わなかった。





 識は夢を見ていた。幼いころ、追っ手から逃げ続けていた日々の記憶。孤独と恐怖で壊れそうだった識の心を救ったのは一人の女だった。



「では、今日からお前の名を識としよう」


「識?」


「ふふっ、気に入ったようだな」



 態度に出したつもりはない。だが、彼女は……柊はいつも識の感情を読み取った。それが万象神覚という特別な力だと知るのは、もっと後のことである。


 柊と行動を共にした年月は五年ほど。母親の代わりだった柊は、いつの間にか姉のような存在となり、気付けば一人の女として認識していた。



「柊。俺は人間ではない。だが、お前と一緒なら幸せというものを理解できる気がするんだ」



 人である彼女が朽ちるその日まで傍に。それは識なりの誓いであった。柊はそれを感じたらしく、むずかゆそうに笑った。



「生意気になったな、識。ついこの前まで、子どものようだったのに」


「出会ったときは、確かに子どもだった。でも、今は違う。男と女が共に暮らし、多くの時を共有する。それを夫婦(めおと)と言うのだろう?」


「私とお前が、そうなると?」



 柊は笑った。心の底からおかしそうに。識は頬が熱くて仕方がなかったが、退くつもりはなかった。



「駄目なのか? 人間は、お互いを理解し合った男女がそうなるものなのだろう? だとしたら、俺は……!!」



 柊が静かな瞳を向けてくる。それを見ると、識の心まで静まり、ただ彼女に意識を奪われるのだった。



「では、もう少しだけ……お前の成長を見守らせてもらうとしよう」



 識は、その意味を理解できなかった。理解できないまま、別れの日がやってくる。



「柊……」



 冷たい雨の中、柊は赤い血を腹から流していた。そこには刃が深々と突き刺さっている。



「まさか、月蝕の三姉妹が……」



 柊は薄れる意識の中、いつものように笑った。



「すまないな。また、お前を独りにさせる」


「嫌だ……。柊、俺を独りにしないでくれ!」


「最後に、わがままを聞け」


「なんだ!?」


「もう一度、言ってほしい。お前は、私と……夫婦に」


「ああ、俺と夫婦になってくれ。だから、柊、死ぬな!」



 心の底から願った。死なないでくれ。一緒にいてくれ、と。しかし、閉じられた彼女の瞳は、二度と識を見てくれなかった。何よりも大切なものを失った識の絶叫が雨に溶ける。誰も彼の悲しみを、怒りを知ることはなかった。





 目を覚ますと同時に、識は体を起こす。反射的に頬に触れ、面を被っていないことに動揺するが、ここが自室であると気付いて、まずは息を整えた。



「識さま」



 襖の向こうから柘榴の声が聞こえた。



「なんだ?」


「声が聞こえたので、何かあったのかと」



 どうやら、夢にうなされていたらしい。あのときの夢を見たのはいつぶりだろうか。今は弱さを捨て、ただ復讐を成就させるだけの妖怪になったつもりが。


 夢の中で見た柊の面影と、闇夜の中で舞う銀髪の巫女の姿が重なった。あの女のせいか。額を抑えながら、頭に浮かぶ二人の女の姿をかき消そうとした。



「識さま?」



 返事がなかったせいだろう。再び柘榴の声が。



「大丈夫だ。……何でもない」


「そうですか。眠れぬようでしたら、いつでも呼びつけてください」


「ああ、そうしよう」



 しばらくして、柘榴の気配が襖から離れて行った。識は再び横になり、目を閉じるが、銀髪の巫女の姿が瞼に浮かび、なかなか眠りに落ちることはなかった。

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