選択
識と柊は屋敷の周りを歩きながら語った。
「御神楽衆がここに攻めてくるよう、手を回した。間もなく、大きな混乱が起こるはずだ。その間に、骸伝からお前の分身となる藁人形を取り戻す」
「そんなに上手くいくものだろうか」
柊の将来に対する発言は、普通の人間のそれとは違う。識は聞かずにはいられなかった。
「何か見えているのか?」
「いいや、何も」
それが本気で嘘偽りのないものなのか。識にはそれすらも分からない。ただ、柊が万象神覚によって、どんな先を見ていようが、識はやらなければならないのだ。
「安心しろ。必ずすべて上手く行く」
「……私は何も心配していないよ」
そう、心配しているのは識自身なのだ。再び柊を失うことを恐れている。一人になることを……。
「それにしても……ふふっ、意外なものだな」
口元に握った手を添え、何がおかしいのか柊が笑い出す。
「意外?」
「だって、そうだろう。あの子どもだった識が、女たちの心を惑わす色男に成長したなんて、想像もしなかった。私としては、悪い気はしないがな」
「……なんのことだ」
無愛想に返す識だが、その態度が柊には余計におかしかったらしい。もう一度笑った後、少し鋭い目を向けてきた。
「翳のこと、私が気付かないと思っていたのか?」
「……聞いていたのか」
そんなはずはない。確かに、柊は屋敷を出て、二人の会話が聞こえる距離にはいなかったはず。何か識も知らない妖術を使ったのだろうか。しかし、柊は思考する識を笑った。
「お前のことなど、顔を見れば分かる」
そう言われて、頬に手を伸ばすが、固い面に触れるだけだ。そんな識の動作も、柊はおかしくてたまらないようだった。
「そのままの意味に受け取るな。安心しろ、お前の嘘が下手だと言ったわけでない。ただ、私だけがお前を理解できる。それだけのことだ」
黙って見つめ合う二人だったが、強い風が吹いて、柊の体が少し傾き、識は思わず手を伸ばして彼女を支える。この泥の体は、いつまで形を保つのだろうか。識の不安を感じ取ったように、柊は言う。
「識……お前は私にこだわる必要などない。他の女と一緒になる選択肢だってあるはずだ」
「翳はお前を殺した女の妹だぞ」
「違う」
柊は出来の悪い弟子に呆れたような、しかし、どこか愛しさを含んだ表情で首を横に振った。
「あの巫女……楓と言ったか。やつはお前を必要としているようだったぞ。お前だって好ましく思っているみたいじゃないか。すぐにでも手を取れ。そうすれば――」
「柊」
まるで、刀を抜いたような重たい空気が流れる。
「お前は俺のことを分かっているようで、何も分かっていないらしいな」
柊の肩を掴む手に、つい力が入るが、識は気付かなかった。
「ここにお前がいる。夢や幻でなく……確かに、お前に触れられる。ならば、それが俺のすべてだ。お前の他に、何も見えやしない」
「私が、楓という女を殺せと言ったら殺せるか?」
「殺せる」
柊は識の面に触れると、ゆっくりとした動きで、それを外した。真っ直ぐと識を見つめる柊の瞳から、涙がこぼれる。
「私はお前を悲しませたくない。それだけなのだ」
「お前が傍にいれば、俺は幸せだ。お前だって、悲しませることはない」
「……信じて、いいのか?」
「信じろ」
見つめ合っていた二人の唇が重なる。識はその冷たい感触に惑うことはなかったが、柊の涙の意味に気付くこともなかった。
識は屋敷に戻って、準備を進めることにしたが、思わぬ人物に呼び止められた。
「識。おい、識!」
「……杠葉殿」
妖怪の里に来てから、ほとんど顔を見なかった杠葉である。彼は何が不安なのか、やや顔色が悪いようだった。
「貴様がこの里にいれば安心だと言うから大人しくしているが……最近、妙に騒がしくないか!?」
確かに、ここ何度か葛城たちによる襲撃があった。その騒ぎが届き、不安になったらしい。
「小競り合いはあったが、大したことではない。すぐに樒ヶ里村に帰れますよ」
「本当か?」
識が黙っていると、杠葉は瞳を揺らしながら言った。
「ここでは三味線をまともに聴くものなど誰一人いない。妖怪どもに雅な音色が分からないのは当然かもしれないが、このままでは私が参ってしまいそうだ。村の女たちが懐かしい。ああ、早く帰れないだろうか」
識は呆れながらも、この男を少し恐ろしく感じた。妖怪たちの中に、たった一人。いくら樒ヶ里村の長として使い道があるとしても、仄の後ろ盾は既にない。いつ殺されても仕方がないと言うのに、まだ三味線のことばかり考えていられるとは。
「すぐに翳さまが葛城たちを討ってくれます。時間の問題でしょう。だから、それまで大人しくしていてください」
「分かっている。もちろん待つつもりだが……せめて、私の三味線を褒めてくれるものが一人でも居てくれればいいのだが」
「……翳さまに聴かせたことはあるのですか?」
その質問に、杠葉は眉を寄せる。どうやら、想像すらしたこともなかったようだ。
「あんな恐ろしい女妖怪に、三味線の音色が分かるわけないだろう」
「いえ、あの方は雅なものがお好きなようです。声をかけてみては?」
だが、杠葉は恐怖を感じたのか体を震わせた。
「無理だ。あれなら、少女の姿をしていた仄さまの方が良かった。ああ、気持ちは重たくなるばかりだが、やはり我慢しよう。やはり、村の女たちでなければ……」
呟きながら、杠葉は自室に引っ込んで行った。立ち去る彼を見送り、識は思う。
(あの男が三味線で何も得られなかった理由が少し分かった気がする)
杠葉は自分の三味線を信じ切れなかったのだろう。もし、邪視など使わずとも誰であろうと魅了してみせると言う気概を持ち続ければ変わったかもしれないのに。
(いや、それを保つことが何よりも難しいのだろう)
このとき、杠葉という男に感じた何かを識はすぐに忘れてしまう。彼が杠葉の持つ執念を知ることになるのは、もう少し先だった。




