寵愛
「二人ともよくやった」
翳は上段の間から上機嫌に、識と柊に笑みを向けた。
「猛煌を失ったことは残念だったが、貴様らの働きによって、三度目の襲撃も押し返した。人間どもは疲弊し始めたころだろう。そろそろ、こちらから攻めてもいいかもしれないな」
識は頭を下げながら、心の中で葛城に感謝する。彼が識の言った通りに襲撃を続けてくれたおかげで、翳の信頼を完全に得られたからだ。識は翳に意見する。
「確かに、攻め時かもしれませんが、既に巫女は次の襲撃を先読みしています。それを払い除けた後で十分かと」
「ふむ。急いで下手を踏むわけにもいかんからな。その辺りもお前に任せる」
「ありがとうございます」
翳は頷いた後、柊を見る。
「巫女よ、悪いが席を外してくれ」
柊は無言で立ち上がり、言われるがままに部屋の外へ出た。彼女の気配が完全に消えるまで待つつもりか、翳は黙ったまま動かなかったが、室内の空気が二人だけのものになると、彼女は上段の間から降りた。
「識」
呼びかけ、識の前に座る。
「この前の話、覚えているか?」
「……話とは?」
「お前を私の下に置きたい、という話だ」
数日前に、そんな話があった。柊が蘇った直後のことだ。識が察した気配を見せると、翳は微笑みを浮かべる。
「そろそろ本気で考えてくれまいか。実際、ここの妖怪たちはお前の采配を評価している。剣の腕で正面からお前に勝てるものもなく、新参者といって不満を言うやつはいないだろう」
「……そうでしょうか」
消極的な識の返事に、翳はわずかに目を細める。
「嫌か?」
その質問は有無を言わせぬ威圧的なものではなかった。むしろ、翳の方からすがるようにも見える。そんな翳の姿に識は戸惑いながら答えた。
「嫌というわけではありませんが……」
「が、なんだ?」
翳は前のめりになり、識に迫る。心の底から識の答えを知りたいようだ。
「気ままに生きてきた身ゆえ、これだけ多くの妖怪を率いるような立場は想像もできません。正直、身に余ります」
「もちろん、最初は私が手を貸す。少しずつ慣れてくれれば良い」
「しかし……」
「なんだ。何が不満だ!」
どうも翳は向きになっているようだった。どうしても、了解の言葉を聞きたいようだが、煮え切らない識の態度に焦れているらしい。識は言う。
「不満ではありません。ただ、どうして私をそこまで評価いただけるのか……」
翳が識の何を評価するのか、理解しているつもりだった。だから、それを知りたくて質問を重ねたわけではない。ここまで熱を持って誘われると、彼女に対して、どのような感情を持つべきか分からなくなってしまいそうだからだ。
「何度も説明しただろう。私は武を好むが、お前はそれだけではない。知を兼ね備えた男だ。私が傍に……いや」
途中で言葉を切って、どこか観念するように溜め息を付くと、真っ直ぐな目で見た。
「今、自分の心に聞いてみた。私がお前を傍に置きたがる理由が分かったよ」
「どういうことでしょうか?」
「お前を夫にしたい」
「……はっ?」
識は出したことのない声を出してしまう。それがおかしかったのか、翳はわずかに頬を赤く染めながら、豪快に笑った。
「さすがのお前も動揺したようだな」
「お戯れを。驚かさないでいただきたい」
揶揄われた、と肩を持ち上げる識だが、翳は温かい表情を見せる。
「いや、本気だよ。私だって今自分の気持ちに気付いて驚いているんだ。戯言と受け取られたら……傷付くぞ?」
「それは……」
二人の間に沈黙が流れると、翳の頬がさらに赤みが強くなったようだった。
「何か言え」
「いや、その……」
識は言葉を探す。
「それこそ、分かりません。私は翳さまに慕われるほど、自らを知っていただいたようには思えない」
「確かにな。しかし、そうだな……似ている、と思ったのだ」
「似ている?」
翳の目は過去を見ていた。
「ああ、まだ小娘だった頃……憧れていた妖怪がいたのだ。その方も武と知を持ち合わせ、さらに強い信念のもと多くの妖怪を束ねていた。訳あって、想いを伝えることは叶わなかったが……お前を見たとき、無意識に似ていると感じたのだろう」
識は若かりし頃の翳が想いを寄せていた人物が誰なのか、分かってしまった気がした。
「言っておくが」
翳は釘を刺すように言う。
「その妖怪の代わりとして、お前を欲しているわけではないぞ。ただ純粋に……お前をものにしたい」
「もったいないお言葉を……」
いまだに戸惑いから抜け出せない識だったが、その手に翳が触れる。
「私のものになれ。そうすれば、何でもお前の望み通りにしてやる」
「……私は翳さまが思うような男ではありません」
温度のない識の声に、翳はゆっくりと手を引くと、生娘のように目を伏せる。彼女は、そのまま立ち上がると、上段の間に戻り、識の方に振り返ることなく言った。
「この戦い、そろそろ決着を付けたい。巫女が次の襲撃を予想しているのなら、それなりの成果を持ってくるように」
「承知しました」
識はゆっくりと立ち上がり、部屋から去ろうと襖に手をかけた。
「識」
呼び止められ、振り返るが、翳はこちらを見ていなかった。
「お前は誰にも本心を見せぬ男のようだが……その面、必ず私が外してみせる。この想い、ゆめゆめ忘れるな」
「……失礼します」
識は屋敷の廊下を歩きながら、手の甲に残る温もりに、想いを馳せなければならなかった。月蝕の三姉妹は必ず殺さなければならない。そう誓ったのだ。しかし、ここにきて、翳という人物を知れば知るほど、その想いは薄れるようである。庭に出て、識は呟く。
「だが、関係はない……」
そこには、小さな池の前で屈む柊の背中があった。彼女のためならば、誰だって斬る。彼女と生きるためなら。そんな識の覚悟を気配として感じたのか、柊が振り返る。そして、彼女はあのときと変わらぬ微笑みを見せた。
まるで夢のようだ。
しかし、この夢は続く。ずっと続くはずだ。
なぜなら、彼女はただの泥人形ではないのだから。




