未練
仄の屋敷を出て、識は山の方へ向かったが、そこに楓の姿を見つける。手を伸ばして、枝から垂れる葉を掴もうと、爪先を立てているが、届かないらしい。
「……何をしている?」
無視するわけにもいかず、声をかけるが、楓は飛び跳ねて手を伸ばすだけ。ただ、やはり葉を掴めなかったのか、着地すると溜め息を吐いて、諦めるように識の方を見た。その目は穏やかではなく、咎めるような色を含んでいる。
「待ってたんだよ、識を」
意外な言葉に識は固まってしまうが、彼女の方は目を細めながら詰め寄ってきた。
「この前、殺されると思ったよ?」
数日前、柊と一緒に襲撃したときのことに間違いなかった。
「すまなかった」
反射的に謝るが、楓は気が済まないらしく、眼力を強めて識に顔を寄せてくる。だが、柔らかい風に押されたかのように体を離すと、諦めたように肩を落とした。
「まぁ、いいよ。私が斬られそうになったとき、助けてくれたわけだしね」
そうだった。柊が楓を斬ろうとした瞬間、反射的に彼女を守ってしまったのである。もう少し言い訳を並べるべきか迷ったが、楓は視線を逸らしたかと思うと、またも葉を掴もうと飛び跳ね始めた。無関心だ、と言わんばかりの行為だが、楓は彼を無視するつもりではないらしい。
「綺麗な人だったね」
柊のことなのだろう。識は黙って、ただ飛び跳ねる楓を眺めた。
「……識にとって、一番大事な人なのかな」
やはり、識は答えない。柊について、彼女に語りたいとは思えないからだ。だが、楓と会話することも、これで最後かもしれない、という侘しさも否定できなかった。
「しばらくしたら、私は姿を消すつもりだ。君とこうして話すのも、最後かしれない」
「ふーん……」
楓の指先がついに葉を掴む。それを慈しむように眺める楓だったが、今度はそれを千切り始めた。
「私はさ、この世界の外側に抜けだそうと思っていたんだ」
「……外側?」
最初は理解できなかったが、識は万象神覚を通して察知する。いや、万象神覚が囁いたのかもしれない。世界の外側。そこに自分はいる、と。その存在に表情をこわばらせた識を見て、楓は微笑んだようだったが、彼女はすぐに手元の葉に視線を戻した。
「でもさぁ、一人で行くのはちょっと怖かったんだよ。だから、同じように外側へ行ける人を探していたんだと思う。万象神覚を持つ誰かが、一緒に来てくれたら……って」
楓が自分に何を求めていたのか、少しだけ分かった。だが、それは少し前までのこと。識は柊に再会してしまったのだ。楓と共に行くことはない。
「あまり言いたくないけど」
識の覚悟を見透かしていたかのように、楓は警告した。
「彼女と一緒に行くとしたら、その道は酷く険しく、多くの傷を負うかもしれない。それは分かっている?」
「……分かっている。だが、関係ない」
そう、どんな道が待っていようと、識には関係ない。柊と共に歩めるのなら、どんな障害が表れても、斬り伏せるまでのこと。そのためなら、どれだけ手を血で濡らしたとしても構わらない。短い答えではあったが、識の覚悟が込められていた。だが、そんな想いに楓は興味がないようだ。
「そうなんだ。まぁ、気を付けてよ」
「ああ」
話が途切れた。識はそのまま立ち去るつもりだったが、動けなかった。千切った葉を捨てて、手を払う楓はこちらを見ようとしない。
「君はどうするつもりだ?」
「何が?」
「まだ、ここに残るのか?」
「うーん」
なぜ会話を続けようとしているのか、識には分からなかった。いや、自分が彼女に何を求めているのか、分かっていないのだろう。柊がいる。それは、他を求める必要がない、という意味だ。なのに、この女だけは……。楓は識を見ないまま言う。
「まだ、ここにいる必要があるって、そう思っている。たぶん、私の求めるものが、まだここにあるんだ」
「共に外側へ行くものがいる、と?」
「うん。たぶん、境のことなんだろうね」
きっと、楓の中で決まっていたのだろう。彼女は境について淡々と話す。
「識にはできなかったけど、私は境の万象神覚に干渉して、その力を向上できた。私と境は波が似ているんだと思う。だから、一緒に行くとしたら、行けるとしたら……境だね」
「……彼は俗なところがある。君と一緒に行くとは限らないと思うが?」
何を反論しているのか。そう思いながらも、言わずにはいられなかった。そんな識に、楓は平然と返す
。
「そうかなぁ? 境は私のことが好きだから、たぶん二つ返事で良いって言うと思うよ」
「人間はそんなに単純ではない。いざ世界の淵に立てば、恐ろしくて逃げ出すものだ」
そうか、負けたくないのだ。識は自分の心にある嫉妬心を認める。境に楓を渡したくない。そんな自分勝手な思いを。矮小な自分に辟易する識だが、楓はその気持ちを刺激するような冷たい声色で言った。
「そうかもしれないけど……識には関係ないことだから、別にいいでしょ?」
「……その通りだ」
識は今度こそ立ち去ろうと決める。だが、言わずにはいられなかった。
「境は君を外に連れ出すための大事な存在かもしれない。だが、私の前に立てば容赦なく斬る。それは許してくれ」
歩き出した識の背を楓が見たようだった。そして、冗談を聞いたかのように鼻を鳴らす。
「識には境を斬れないよ。彼は強いし、何よりも……」
識の頭に、楓が冷笑する姿が浮かぶ。それは実際に彼女が見せた表情なのだろうか。振り返れば確認できることだが、彼はそうしない。振り返れば、自分を裏切ってしまうかもしれない、と思ったからだ。そんな識に楓は挑発的な響きを乗せて言う。
「境は私が守るから、誰にも殺させはしないよ」
それ以上、会話を交わす必要はない、と識は山の方へ歩みを進める。もう楓は、自分とは関係のない女なのだ。そう自分に言い聞かせながら、ただ前を見て歩くのだった。




