不安
紬は縁側に腰をかけ、前後へ揺らす爪先を眺めていた。酷く落ち込む自分を感じるが、もう溜め息すら出ない。ずっと当たり前だったけど、日々に彩を与えてくれる、確かな存在が失われつつある。その恐怖と絶望に、彼女の心は閉ざされようとしていた。
「紬殿、ここにいましたか」
唐突に声をかけられ、驚きながら顔を上げる紬。その反応によって、逆に驚いた声の主は古守であった。
「ご、ごめんなさい。ちょっと気を抜いていたもので」
「こちらこそ、休んでいるときにすみませんでした」
お互い頭を下げ合うが、明らかに沈んだ紬の様子に、古守は戸惑いの表情を浮かべる。ただ、踏み込むべきではない、と判断したらしく、要件を伝えるだけにしたようだ。
「葛城殿が集まってほしい、と」
「何かあったのですか?」
「相馬が情報を持ってきたそうです」
妖怪の里を襲撃するつもりが返り討ちに遭ってから、数日が経過し、紬たちは一度仄の屋敷に戻って、立て直しを図っていた。識と一緒に現れた謎の巫女。彼女が何者か議論される中、相馬が持ってくる情報は喉から手が出るほど欲するところだった。
「分かりました。もう少ししたら行きます」
すぐに行く、とは言えなかった。気持ちの時間を切り替える必要があったからだ。古守は頷いて、背を向けたため、すぐに立ち去ると思われたが、なぜかその場で停止して動かない。紬が不審に思い、口を開きかけたが、その瞬間に古守が振り返った。
「あの……楓さまのことでしょうか?」
「えっ!?」
まさか、古守も万象神覚を持っているのか、と疑う紬だが、本人は即座に否定する。
「いえ、私は楓さまのような不思議な勘は持ち合わせていませんよ。ただ、紬殿があまりに……その、何と言うか」
どうやら、自分が分かりやすいだけだったらしい。古守以外の人間も同じように察しているのか、と思うと、頬が急激に熱くなったが、そんな自分に落胆して肩を落とす。
「……分かりますか?」
「……はい」
古守の方もなぜか気落ちしたように頷くと、やや真剣な顔で言うのだった。
「差し出がましいことかもしれませんが、あの方については、あまり考えない方がよろしいかと思います」
「気にしない、ですか?」
「はい。あの人が意図しないところで、男を惹き付けてしまうところがあって、少し外に出ると厄介ごとを起こしてしまうような方なのです。本人に悪意がないところがまた厄介なもので」
やはり、そういうものか。紬はますます落ち込むが、古守の話には続きがあった。
「しかし、本当にあの方は、その気はないのです。だから、男の方が勝手に盛り上がって、騒いでいるだけで……きっと、今回もそうなりますよ」
古守が言いたいことは理解できる。が、紬はいくつも納得いかない点があった。例えば、古守自身のことである。
「あの、一つ聞いてもいいでしょうか?」
「なんですか?」
「古守さんは……楓さんのことをどう思っているのですか? あの、その……一人の女として、やはり魅力を感じているのでしょうか?」
「いえ、まったく」
古守の否定はあまりに早く、紬は驚くが、彼にしてみると当然の答えだったらしい。
「あの方といると、厄介ごとばかりで、本当に心が落ち着かない。今回の件も、これだけ大きな事件に巻き込まれて……紬殿たちが居なければ、どうなっていたことか」
心の底から呆れているのだろう。深い溜め息を吐く古守だが、まだ続くようだ。
「妻子に良い暮らしを与えられると思うからこそ辛抱していますが、そうでなければ……下手をしたら、あの方を叩き斬っているかもしれませんよ」
「た、叩き斬る……ですか?」
驚く紬に、古守はわずかに微笑んだ。
「叩き斬る、は冗談ですが、それくらい不満はあります。愚痴を言い出したら切りがない」
この男も冗談を言うのか。紬の驚きはそれだけではない。
「古守さん、妻子持ちだったのですね」
「ええ。妻を心配させていると思うと、早く帰りたいです」
「楓さんといるより……ですか?」
失礼な質問かもしれない。だが、勝手に古守の妻と自分を重ね合わせ、聞かずにはいられなかった。そして、その答えは紬にとって理想と言えるものだった。
「当然です。妻といると心が安らぐ。私は一目見たときから、楓さまは仕事でもなければ近寄りたくない人間だ、と思ったくらいですから」
「そう、なんですか」
古守は念を押すように二度頷いた。
「すべての男が楓さまに惹かれるとは限りません。実際、都では彼女を避ける男も大勢います。その中には、一度好意を持ったものの、やはり自分に近しい場所で、常に支えてくれる存在こそ、尊いものだと気付いた男もいます。ですから……」
矢のように、真っ直ぐな視線が向けられる。
「境殿もすぐに気付くはずですよ」
「き、気付くって……」
「はっきりと言った方がいいですか?」
「いえ、大丈夫です……」
紬が頬を引きつらせると、古守は父親らしい温かな笑みを見せた。
「では、行きましょう。紬殿に元気になってもらえなければ、その分、私が妻と子のもとに帰る日が遅くなってしまうのですから」
「……はい! 私、ちゃんと自分のやるべきことに集中します」
どうにか気合を入れて紬が立ち上がると、古守は安心したように頷いて、歩き出した。紬はその後ろを歩きながら考える。
(ありがとう、古守さん。おかげで、少し心が軽くなりました。でも……)
でも、そうじゃない。紬は思うのだった。確かに、古守の話は大部分の男たちに言えることなのだろう。しかし、境と楓の関係は、そういうものではない。
紬の大きな不安は一つ。
万象神覚だ。
二人は、それを通して惹かれ合っている。ただの憧れや欲情とは違う。得体の知れない力が二人を近付け、強い結びつき作ろうとしているのだ。
(そうなったら私は……)
自分の中で膨れ上がる不安をどうにか抑え込む紬だったが、彼女が運命のように捉える万象神覚は、境と楓を結びつけるために存在しているのではない。彼らを狂わせるために存在しているのだ。
紬がそれに気付くのは、まだ先のことである。




