残留
森の中に逃げ込み、まずは妖怪の里へ戻ることにしたが、識は来た道を振り返った。楓が境を止めてくれたおかげで逃げられたが、彼女はどうしているのか。それが気がかりだった。
「あの女が気になるのか?」
気付くと、前を歩いていた柊がこちらを見ていた。
「……いや」
万象神覚によって心のうちを察せられてしまったのだろうか。言葉では否定したものの、次の言葉がどういったものか、識は構えずにはいられなかった。柊は言う。
「嘘を言うな。お前はあの銀髪の女を守った。あのとき、お前が邪魔に入らなければ、妙な剣士が現れる前に片が付いたのだがな」
その通りだった。柊が楓を襲ったとき、何が正しいのか判断できず、感情のままに動いてしまったのである。複雑な感情を抱く識だが、柊はさらに責めるような言葉をかけるつもりのようだ。
「あと少し私は自由になれたのにな。どうしてくれるのだ?」
識は答えられなかった。黙っていると、柊は薄く微笑む。
「あれだけ私に惚れていたのに、もう他の女に現を抜かしているのか」
「……なに?」
想いもしなかった言葉に、識は思考が止まるが、柊は当たり前のように言った。
「薄情な男だよ、お前は。私が泥人形になったとしても、想いは変わらぬと思ったが……まさか、他の女を庇うとは。涙が出そうだ」
昔のように自分を揶揄って笑う柊の姿が信じられず、識は足を止め、その場に立ち尽くした。そんな識に、柊は首を傾げる。昔のように。
「どうした、識」
「覚えて……いるのか?」
「ああ。死んだくらいでは、お前と過ごしたあの日々は忘れない。もちろん、お前が私に与えてくれたものも、ここにある……」
柊は自分の胸に手を当てる。そこに何があると言うのか。ただ、彼女は穏やかな顔を見せた。
「そんなことが……あるのか」
そんな彼女を前に、識は立っていられなかった。もう会えない。一緒に歩くことも、一緒に笑うことも、一緒に同じ景色を見ることも……二度とないことだと思っていた。
それなのに、再び目の前に現れて……。堪らず、識は膝をつき、狐の面を取って、子どものように涙を流す。柊は識の傍らに移動しながら言った。
「私もなかなか未練がましい女だからな。お前を想う気持ちを地獄に置いてくるわけにはいかない、と思ったのだろう」
ここにいる柊は、泥人形だ。彼女の髪と泥を使って、かつての彼女を再現した、その一部。記憶だってすべては再現されていない、という話だったはず。しかし、彼女は覚えていたのだ。
「泣くな、識。出会った頃に戻ってしまったみたいじゃないか」
「だって、俺は……!!」
もし再び会えたら、何を話そう。何を伝えよう。孤独な夜を繰り返すたび、何度も考えた。だけど、いざ彼女を前にしたら……識は何も言葉が出なかった。
そんな彼の傍らに膝をついた柊は、識の背中に優しく触れる。だが、その手はどうしようもなく冷たい。人の体温はない、泥人形の手だった。
「一人にして……すまなかったな」
「柊……」
崩れる識を腕で、自らの腕で包む柊だが、やはりかつての温かさはない。それでも、耳元で囁く彼女の言葉は、識に安らぎを与えた。
「その面を被ったお前を見て、すぐに分かったよ。月蝕の三姉妹を討つつもりなのだろう? ならば、協力してやろうと、巫女の首を手に近付いて、翳を殺してやるつもりだったが……どうやら私が思っている以上に事は複雑なようだな」
識には分からなかった。今、傍にいる柊は、自分と共に過ごした記憶を持たない、ただの泥人形だと思っていた。そう思おうと心掛けていた。それが、違ったのだ。
記憶があるならば、例え魂の再現でしかなかったとしても、本物ではなかったとしても、識にとっては柊そのものなのだから。
「そんなことは……どうでもいい。俺は、お前と共に生きられるなら、そうしたい」
「識……」
「一緒に逃げよう。あのときのように」
柊は口を結ぶが、その表情には女としての幸せが滲み出ていた。識は万象神覚によって、その気持ちを察したわけではない。長く一緒に過ごした時期があったからこそ分かる、彼女の気持ちだった。
「しかし、逃げれば翳は私を許さない。あの藁人形を使って、私は殺される。そうしたら……」
お前はまた一人だ。柊はそう言いたいらしいが、識は認めない。
「いや、何か方法があるはずだ。俺はお前と一緒に生きるためなら、手段は選ばない」
柊の肩を掴む識の手に、どれだけの力が込められていたのだろうか。顔を歪める柊だが、決して識の手を拒絶することはなかった。
「貴様ら……何者なのだ!!」
だが、二人の会話を聞いていたものが、林の中から現れる。
「翳さまを討つと言ったな? この猛煌がいる限り、あのお方には指一本触れさせはしないぞ!!」
境に斬られたと思われていた、猛煌だった。彼は境にやられたのであろう傷から血を流しながら、詰め寄ろうとするが、識は柊の腕からゆっくりと離れて立ち上がる。
「識、貴様……何かを企んでいると思ったが、その不気味な巫女と顔見知りだったとは……ん?」
猛煌は面を外した識の顔に、何か既視感のようなものを覚えたらしい。
「その顔、どこかで――っ!?」
だが、言葉は急に途切れた。猛煌の顔面が二つに別れる。識による神速の斬撃が、猛煌の頭を両断したのだ。糸が切れた人形のように崩れた猛煌を見下ろしてから、識は足元の面をゆっくりと拾い上げ、再び表情を覆う。そして、後ろで見守っていた柊に言うのだった。
「行こう、柊。今度こそ……俺たちは自由になるんだ」




