配意
識は一仕事を終え、井戸の傍で顔を洗っていた。が、背後から気配を感じ、すぐに面で顔を隠す。
「ここにいたか。探したぞ」
振り返ると翳と猛煌の姿があった。猛煌だけならまだしも、まさか翳が自ら出向いてくるとは。識も驚きを隠せずにいると、翳は付き合いの長い友人に見えるような笑顔で歩み寄ってきた。
「聞いたところによると、御神楽衆に包囲されながらも、お前の差配が多くの同士を救ったそうじゃないか」
「いえ……。翳さまの導かれた玄天狐党の妖怪たちが武人として優れていただけのことです」
「ふん、謙遜するな。これだけの仕事、誰にでもできるものではない」
黙って頭を下げる識だったが、後ろに控える猛煌の視線が気になった。翳は猛煌の態度に気付かないのか、気兼ねない様子で識の意見を聞こうとする。
「しかし、御神楽衆はそれなりの人数を集めたようだな。討者だけならまだしも、巫女もいるとしたら、私たちも油断はできない」
「巫女は二人ほどいました。凪の神楽は我々の自由を奪うゆえ、万全の準備が必要かと」
翳は頷く。
「お前はどう見ている?」
この里に、御神楽衆が攻めてくる前に、何をすべきか。そう聞いているようだ。
「ここより西に、もう一つ人間の村があったはずです」
「確かに、蓮華沢村があるな」
樒ヶ里村とは反対の方角に、やや規模の小さい村がある。それが蓮華沢村だ。
「人間たちは、ここに攻め入るため、村同士で協力すると考えます。挟撃を避けるためにも、先んじて蓮華沢村を落としておくべきではないでしょうか」
「なるほど……」
翳は少し迷っているようだ。月蝕の三姉妹が率いる玄天狐党は、人間の村を間接的に支配することで、自分たちの隠れ蓑として使いつつ、餌場としても活用する、という方針だ。ゆくゆくは 蓮華沢村の支配も企んでいたのだろう。できれば、支配の前に大切な餌が育つ場所を失いたくはないのだ。
「分かった。攻めよう」
しかし、翳の決断は早く、隣の猛煌を驚かせた。
「翳さま! 蓮華沢村の支配は時間をかけてゆっくり進めていたはずです。ここで村の人間を殺してしまったら、水の泡です!」
「分かっている。だが、この里に攻め込まれては、それこそ元も子もない」
「御神楽衆がなんだと言うのです。この猛煌が返り討ちにしてみせます!」
必死に主張する猛煌だが、翳は笑い飛ばしてしまう。
「その勢いは評価する。が、私はこの地を姉さまから預かっているのだ。確実な手段を取りたいのだよ」
「私の武よりも、その男の知をお認めになる、と?」
明らかに不服を顔に浮かべる猛煌だが、翳は子どものわがままを聞くように微笑みを浮かべていた。
「そうは言っていない。お前の武は十分承知し、信頼を置いているが、私はこの男のことを何も知らないのだ」
信頼を置いている、と言われた猛煌は、それ以上、主張を重ねることは憚られた。ただ、黙って翳の指示を待つ。彼女は識に言った。
「どうだ、識。お前が蓮華沢村を攻めてみないか?」
翳は期待の目を識に向ける。
「私は武人を好む。お前がどれほどのものか、見せてほしい」
識は翳を見つめながら、猛煌の視線を気にかける。下手な答えを返せば、あの獅子のような殺意の牙が、こちらに向くだろう。ここで角を立たせてしまったら、後が動きにくくなる。識は頭を下げた。
「せっかく機会をいただいたところ、申し訳ございませんが、私には身に余るものです。玄天狐党の将来を左右する重大な戦は、そちらの猛煌殿のような豪傑の差配であるべきかと」
猛煌の威圧がやや弱まったように思えた。単純な男だ、と識は面の裏で笑うが、翳はどう判断するだろうか。彼女は識と猛煌を交互に見た後、小さく息を吐いた。
「そうか。では、猛煌。お前に任せる」
「承知しました。すぐに準備を進めます」
猛煌はよほど嬉しかったのか、鼻息荒く、その場を立ち去ってしまうのだった。翳はその背中を見送った後、識に向かって微笑みを浮かべる。
「器用な男だな。ますます気に入ったぞ」
「なんのことか……」
識は思う。ここには、自分と翳の二人だけ。もしかしたら、斬れるのではないか、と。辺りの気配を探ると、少し離れたところに、恐らくは翳に忠誠を誓っているだろう妖怪が数体いる。確実に斬れる状況とは言えなかった。
「それより、万象神覚に対する策は見えてきたのでしょうか」
「ああ、それならば問題ない」
翳は笑みを浮かべる。これまでは、武人らしい磊落な笑みを見せる彼女だったが、いま識の前で見せる表情は、妖怪のそれであった。




