妖怪の里
山を越えると、識の前に集落が現れた。決して規模の大きいものではないが、人間であれば三百から五百に近い数が生活できる広さがあるだろう。
「ここが……妖怪の里?」
後ろから付いてきていた杠葉は、その場に座り込んだ。かなりの疲労の中、歩き続けたため、気が抜けたのだろうが、一度も音を上げなかったことは評価できる、と識は思った。
「もう少しです。行きましょう」
識が低い温度で短く告げ、集落の方へ歩き出すと、杠葉は黙って立ち上がって、それに従う。ただ、十歩も進むと里の妖怪たちによって、識と杠葉は囲まれてしまった。
「……私は仄さまの使いとして参った識と言う。翳さまにお目通り願いたい」
妖怪たちはそれぞれ顔を見合わせる。聞いたことがない名だ、と囁き合う声が聞こえ、簡単には翳に会うことはできないだろう、と識は察した。実際、妖怪が一人前に出て言った。
「仄さまの名前を出せば、この里に潜り込めると思ったか? 残念だが、あの方が使いを寄こすことはない」
「それだけ急を要することなのだ」
事実を語る識だが、妖怪たちは信じる気はないらしく、数名が武器を手にして距離を詰めてきた。
「やめろ。こちらに、その気はない」
識は敵意はないと伝えるが、聞く耳を持ってもらえないらしい。だから、識は小さく息を吐いた後、彼らに警告しなければならなかった。
「だが、黙って斬られるつもりもない。先に断っておくが……」
続きを聞くことなく、妖怪が飛びかかってきた。が、識は神速で刀を抜きつつ、そのまま間合いに入った妖怪の腕を斬りつける。最初、妖怪は何が起こったか理解できていないようだったが、裂けた腕に気付くと、悲鳴と共に後退って、腰が抜けたらしく、その場に座り込んでしまった。
「いや、すまない。その気があるものは、こちらとしても身を守るために斬らねばならない、と断りを入れるつもりだったのだが、遅かったようだ」
急に襲われたにも関わらず、少しも動じた様子のない識に、妖怪たちはざわめきながら、半数は慄き、もう半数は慎重に様子を窺っていた。
「そこまでにしていただきたい!」
一触即発の状況に、杠葉が介入する。
「この中に一人くらい、私の顔を覚えているものがいるだろう! 仄さまの侍従である杠葉だ。この男が言う通り、急を要する事態のため、翳さまに一報を入れたく、山を越えてきたのだ」
すると、すぐに妖怪の一人が前に出た。
「確かに、お前は見たことがある」
その妖怪は、まるで獅子を思わせるような大柄な男だった。どうやら、杠葉もその容貌に見覚えがあったらしい。
「猛煌殿!」
杠葉は妖怪の名を呼びながら、彼に歩み寄る。
「確か、三姉妹殿が年明けに会合を執り行った際、翳さまの付き人としておられましたな。そのとき、私とも顔を合わせているはずです」
猛煌は記憶をたどるように顎に手を置くと、思い当たる節があったのか、小さく頷いてから周りに向かって声を発した。
「皆、持ち場に戻れ。この者たちは私が預かる。余計な浮説を流して、里の混乱を招くようなことがないよう、肝に銘じよ」
どうやら、猛煌は里の中でかなりの立ち位置にいるらしく、妖怪たちは黙って識たちの前から消えて行った。識も脅威は去ったと判断し、刀の血を払ってから鞘に納めると、猛煌に頭を下げる。
「騒がせてしまい、申し訳ない」
「……いや」
猛煌は識を見る目をわずかに細めた。識の万象神覚が警告する。この男に気を許してはならない、と。だが、口を開いた猛煌は、仲間を斬った識を咎めるわけではなかった。
「なかなかの腕前だ。仄さまが貴様を傍に置いたのも分かる」
杠葉が心外だ、と眉を寄せるが、猛煌はそれに気付かなかったようだ。
「ついて来い。翳さまに会わせてやる」
猛煌に付き従って、里の奥へ進むが、妖怪たちは戦の準備を進めているらしく、武器を作っているようだった。時折、捕らわれてしまったのであろう人間も見かけたが、食として利用されるのは言うまでもない。そんな風景を横目に、里の中央と思われる屋敷が見えた。ここだ、と猛煌が言う。
「決して無礼はないように頼むぞ」
「もちろんです」
杠葉が答え、識も頷く。が、猛煌は識に対して疑惑を抱くような視線を向けるのだった。
「翳さま。仄さまから急な報せがあるとのことで、杠葉という男を連れてきました」
「入れ」
奥の部屋から翳と思われる声が返ってきた。識の記憶通り、妹の仄と違って、武人らしい発声である。襖を開き、実際にその姿を目にすると、その印象はより強いものとなった。褐色の肌に白髪が眩しく、鋭い赤の瞳が識を貫く。
「仄が使いを寄こすとは……何があったのだ?」
その強い威圧的な気配に、杠葉は早々に頭を下げる。恐らく、生き物として強いものには逆らうべきではない、という本能によるものだったのだろう。識もそれに倣うようにゆっくりと頭を下げるのだった。




