仮面の下
「くそったれ……!!」
吐き捨てる境がこちらを見る。識は躊躇うことなく、刀を振った。赤い血が識の面を濡らすが、手応えとしては弱い。
(やはり躱したか。だが……!!)
識は予想していた。念入りに構えた罠すらも、境は躱すに違いないと。だからこそ、次を用意していた。飛び去って一撃を躱してみせた境に、全力で蹴りを突き出したのだ。
腰を落としてから、全体重を乗せて放った蹴りは、境の鳩尾を捉え、彼を転倒させる。山道を転げ落ちる境は、簡単には止まりそうにない。あれなら、立ち上がるまで時間もかかるだろう。
(紙一重だったが……上手く行ったか)
識はすぐ傍で倒れる妖怪を一瞥した。すべては、識の算段通りだったのだ。今の自分では正面から境と戦っても勝ち目は薄い。だから、この妖怪を忍ばせ、不意打ちを狙わせたのである。
ただ、境の万象神覚はそれも察知するだろうと識は読んでいた。だとしたら、この妖怪を囮にして、自分が本命の一撃を放てばいい。そこまでが識の算段だったのだ。
「行きましょう。仄さま」
「う、うむ」
識は再び仄の手を引いて山を走る。境が追ってくる様子はなかった。
(しかし、離れすぎるのも良くない。仄が生きていると思い込まれてしまったら、人間たちの勢いがなくなってしまうからな)
識は足を止める。
「どうしたのだ?」
仄が問いかけると、ほぼ同時であった。識の顔を覆っていた面が割れ、地に落ちる。どうやら、境のせいで脆くなっていたらしい。
「おお、識の素顔が見れるのか」
既に安全を確信しているのか、仄が無邪気に笑った。そんな彼女に向かって、識は片手で顔を覆いながら振り返る。
「……ほう!」
仄がさらに笑みを広げた。
「呪いにかかって顔が醜くなった、というのは嘘であったな! どうみても美男子ではないか。どれ、手をどけて、もっと見せるがいい!」
識は言われた通り、ゆっくりと手を降ろした。その顔を見て、仄は瞳を輝かせたが……。
「そ、その顔……!!」
仄の表情が一瞬にして曇る。
「なぜじゃ! なぜ貴様が……」
再び震え出した仄は、後退りながら、その名前を口にする。
「蒼月!!」
識は露わになった顔に笑みを浮かべた。
「何を言っているのです。蒼月は貴方たち月蝕の三姉妹が殺したはず。特別な妖術でも使わぬ限り、蘇るわけがないでしょう」
「そ、そうじゃ。あれだけの妖怪を蘇らせるほどの術者もいるわけがない! では……お前は」
そこまで言って、仄の表情が固まる。どうやら、頭の中に別の名前が過ったらしい。
「思い出していただけましたか。幼いころはよく遊んでいただきましたからね。一緒に野山を駆けまわり、可愛がってもらったのを覚えています」
「……朔月、なのか」
識は口の端を吊り上げる。
「ええ、そうです。蒼月の息子、朔月ですよ」
「馬鹿な。朔月も死んだはず。蝕姉さまが死んだ……と!!」
後退る仄に、識は詰め寄る。手にした刀は鈍く光っていた。
「生きていたのですよ。あと少しで死ぬところでしたが……運がよかったのです」
「ま、待て!」
仄は制止するように手の平を向けてきた。
「復讐のつもりかもしれんが、私は知らなかったのだ! 蝕姉さまと翳姉さまの考えなど……私は何も知らなかった。だから、お前が死んだと聞いて、私は悲しんだのだぞ。可愛い弟のように思っていたお前が死んだと聞いて!!」
識の足が止まる。話を聞いてもらえるかもしれない、と思ったのか、仄はわずかに期待を含んだ笑みを見せた。
「よく生きておった。私は嬉しいぞ! 何なら、私から蝕姉さまにお前を見逃すよう頼んでやる。可愛い妹の言うことなら、蝕姉さまだって――」
仄の言葉が途切れる。彼女はふと右手が軽くなったことに気付き、腕に視線を落としたが……。
「あれ?」
手首がなかった。足元に見慣れたものが落ちている。
「ぎゃあああーー!!」
識の刀が仄の手を斬ったのだ。黒い血が吹き出し、仄はたまらず体を丸めて蹲った。
「蝕と翳が貴方を愛しているからこそ……殺さねばならぬのです」
「あ、ああ……ど、どういうことじゃ??」
「愛する者が失われ、さらに己も踏みにじられる口惜しさを……あの二人はよく知ってから死んでもらう」
「さ、朔月……待って。待っておくれ……!!」
朝日が識を照らす。柊はこの光を見て、何を思うだろうか。些細な気持ちを聞きたくても……彼女はもういない。
「さようならです、仄さま!!」
仄の断末魔の叫びは、一瞬で途切れる。彼女の首が地に転がると、全身の力が抜けるようだった。
「……だが、これは始まりだ」
識は体を引きずるように、藪の中へ入る。来た道を戻れば、境に遭遇してしまうため、荒い道を降りなければならなかった。
屋敷に戻ると、人間たちの姿はなく、狐の妖怪たちが仄の姿を探しているようだった。その中に杠葉の姿を見つけ、彼の背後に忍び寄る。
「仄さまは葛城たちに討たれ、死にました」
「識か!?」
杠葉は振り返るが、識は姿を隠しているため、彼は右へ左へ視線をさ迷わせた。
「このままでは、杠葉殿の立場は危うくなると思いますが……どうする?」
自分の置かれる状況に気付いたのか、青ざめて固まる杠葉に識は続けて言った。
「まだ三味線を弾いていたいのなら、翳さまに頼るしかないだろうが」
「し、しかし……私はあの方の居場所は知らない。最後に会ったのも、いつだったか」
「面識はあるのですね?」
杠葉が頷く。
「良いだろう。翳さまの居場所は私が知っています。仄さまにお聞きしたので」
「仄さまに!?」
彼女が死んでもなお、自分よりも仄に近い男が存在するのは、許せないようだった。そんな杠葉の気持ちは無視して、識は続ける。
「葛城たちを排除して、まだ三味線を弾いていたいのなら、私と翳さまを引き合わせてください。いいですね?」
「……分かった」
「では、妖怪たちをまとめておいてください。やつらを連れて、翳さまのいる里へ向かいます」
識は一度、仄に用意された自室へ戻る。そこには、柘榴が休んでいたはずの布団がまだ敷かれたままだった。新しい狐の面を再びかぶると、識としての振る舞いを取り戻す。
大きく息を吐いてから、杠葉のもとへ戻ると、彼は言われた通りに、妖怪たちをまとめていた。彼らの多くは父が率いていた玄天狐党に昔から属していた妖怪に違いない。月蝕の三姉妹ではなく、父が率いていた妖怪たちなのだ。それを今度は自分が……。
一緒に行こう。今すぐ……何もかも捨てて。
そんな楓の声が聞こえた気がした。




