震える手
識は屋敷に戻ると、裂けた腹の肉に触れる。血は止まりつつあるが、刀を存分に振るえるほど浅い傷ではない。
「あれが楓によって、力を増した万象神覚……ということか」
境の技の鋭さを思い出す。まるで、決定的な一撃はすべて知っていたかのように躱し、刀を返してくる。それは強さに圧倒されるというよりも、不気味と言えた。
「こうしている場合ではない……。仄さまは討ち取られてはいないだろうな」
識は足元に転がる妖怪の死体を見る。それは仄から借りた妖怪に違いなかった。どうやら、境が屋敷を離れる前から、妖怪たちは劣勢に置かれていたらしい。
「ここで逃げられても面倒だ」
呟きながら、識は仄の部屋へ向かう。
「お、お前は……識!!」
途中、葛城に鉢合わせてしまう。妖怪の相手しながら、現れた識に驚いている。
(葛城がここにいるのならば……)
まだ余裕はあるだろうか。焦る自分に、思わず舌を打ちそうになる。
(そもそも……あの女に惑わされなければ!)
楓が現れなければ……。いや、彼女の声が聞こえたとしても、冷静に戦況を見守っていれば、このような焦りは生まれなかったはずなのだ。柘榴だって失わなかったはず……。
「そんなことは……初めから分かっていた」
己の浅はかさに呟きを漏らしながら、葛城の横を通り過ぎる。
「識、逃げるのか!!」
今ならば勝てると思ったのだろう。葛城は識を呼び止める。もちろん、立ち止まることはなかったが、識は葛城を一瞥した。
(死ぬなよ。貴様はまだ使わせてもらうのだから)
屋敷の奥へ進めば、さらに斬り合う人と妖怪の姿を見た。仄の部屋は近い。既に屋敷を抜け出している恐れは十分にあった。
(この感覚……楓が庭まで入ってきたか)
明らかに凪の神楽の影響が強くなっている。先程までは、楓は門の外で舞っていたが、敷地の中に入ってきたのだろう。ますます妖怪たちは旗色が悪いと感じるはずだ。
「仄さま!」
識は部屋に踏み込むなり叫んだ。
「おお、識!!」
部屋の中に争いはない。仄はまだ恐れた様子なく、戻った識を笑顔で迎えた。識は冷静に仄の護衛を確認する。たったの二人。今ここで動いても……問題はないだろう。
「人間たちが部屋の前まで迫っています。裏口から出ましょう」
「なに!? 外に出た連中はどうしている!?」
「ほとんどは死にました。今このときも、誰かが人間に斬られているでしょう」
「馬鹿な。人間ごときに!」
仄は信じられないらしい。識は心の中で笑う。
(どうやら、本当に何も分かっていないらしい)
御神楽衆の恐ろしさも、人間の底力も。いや、戦いの厳しさも分かっていないのだ。識は声色を作って訴える。
「人間は我々が思っていた以上に数を揃えていたようです。それに、凪の神楽という技は想像以上に恐ろしく、仲間たちの力は削がれました。仄さまも感じませんか? 体の重たさを」
指摘され、初めて意識したのだろうか。仄は拳を握っては開き、その感覚を確かめた。
「確かに、妙な感じがあるのう」
「ですから、ここは危険です。外へ!」
識が警告すると同時に、部屋の中に人間たちがなだれ込んできた。
「あれが月蝕の三姉妹、仄か!!」
「首を斬れ!!」
振り返りながら刀を振り、人間たちを退かせると、識は仄に駆け寄った。
「行きましょう」
そして、腕を取って裏へ向かいながら、識は護衛の一人に言う。
「貴様はここで人間たちを食い止めてみせろ!」
「誰がお前の指示など……!!」
「仄さまをお守りするためだ! 行け!」
護衛は識の指示など聞き入れるわけがなかったが、敵を目の当たりにした仄は冷静を失っているのか、顔色を変えて言った。
「私に逆らうか! 殿を務めてみせよ!」
「ぐぬ……」
仄から直々に命じられては逆らえない。護衛は人間たちの進む道を塞ぐように立ちはだかってみせた。
「行くぞ」
識はもう一人の護衛に声をかけ、仄の手を引きながら裏へ向かう。だが、さらなる追っ手が部屋の中へ。
「見つけたぞ、狐野郎!!」
境であった。
(貴様の相手をしている場合ではない)
凄まじい気迫を放つ境に背を向けて走り出すと、すぐ後ろの仄が言った。
「あれは本当に人間か?? お怒りになった翳姉さまに負けぬくらい恐ろしかったわ」
「あれが御神楽衆です。十の妖怪も屠る恐ろしい敵と言えるでしょう」
「なるほど……。初めて見たが、あれがそうか」
よほど恐ろしかったのか、仄の手は震えていた。震えながら、すがるように、識の手を強く握りしめるのだった。
「識、お前がいてくれて本当に助かったぞ。人間がここまで恐ろしいとは知らなかった」
「ええ、一方的に追い回され、命を狙われることは……恐ろしいことです」
返事をしながら、識は心の中で呟く。
(私も知っていますよ、仄さま。少しでも足を止めれば殺されるかもしれない、という恐怖。このように震えるほど恐ろしいものだと、私はよく知っているのです)
屋敷の外に出ると、仄が叫んだ。
「あっちだ、識! 山を越えれば、姉さまが助けてくださる!」
「山を越えれば、ですか?」
「そうだ。山の向こうには、翳姉さまが築いた妖怪の里がある。そこに逃げ込めば、人間どもに手は出させない! お前がいれば、山を一つ越えるくらい、問題なかろう!?」
「……はい、もちろんです。必ずお守りします、仄さま」
仄の手を引きながら、識は考える。ここまで来ても、まだ油断ならない。なぜなら、あの境という男は必ず追いかけてくるはずだから。
しかし、そこさえ乗り切れたのなら……。
その瞬間を頭の中に描いた識は、思わず笑みを浮かべるのであった。




