僅差
この調子で行けば、屋敷まで踏み込める。そんな手応えを感じ始めたとき、境は聞いた。楓が助けを求めている、と。同時に、妖怪たちの動きが俊敏になった。凪の神楽が止まった証拠である。
「ここは頼んだぞ!」
境は葛城に声をかけて立ち去る。が、彼は境の背中に向かって叫んだ。
「貴方がいなくなったら、どうやって屋敷の中に攻め込むのです!?」
力を取り戻した妖怪を前に、村の人間が有利に事を進められるわけがない。それなのに、境は彼らを残して屋敷の外に出てしまった。葛城たちにしてみれば、見捨てられたも同然だが、境の判断は結果としては間違っていない。なぜなら、識が楓に襲い掛かろうとしていたのだから。
「それ以上、楓に近付いてみろ。ふざけた面と一緒に頭を叩き斬ってやる」
識は言われた通り、楓から離れて刀を構えた。妖怪のくせに剣士としての誇りはあるらしい。だとしても……やることは一緒だ。
境は御神渡によって強化された脚力で、一気に踏み込む。二人の距離は瞬く間に消失。境の斬撃が識の首を狙った。それに対し、識は身を反らして躱しつつ、境の胴を引き裂くような一撃を返す。
だが、境はそれを先読みしていた。素早く後退して識の一撃をやり過ごすと、再び踏み込んで、御神渡の切っ先を突き出す。それは識の顔面に吸い込まれるようだったが……。
「ふんっ、簡単には斬らせてはくれないみたいだな」
吐き捨てるような境の言葉に、識は何を思っただろう。寸前で境の一撃を躱したものの、彼の顔を覆っていた面の一部は割れ、露わになった頬からは血が流れていた。それを見た境は笑みを浮かべる。
「だが、お前の剣は見える。そのふざけた面の裏を見るのも、時間の問題だな」
再び境から踏み込む。素早い突きを躱されると、すぐに振り上げるような一撃を放って、識を退がらせる。識が構え直す。どうやら、気持ちを作り直したようだ。
「楓、凪の神楽だ!」
境の指示に楓はなぜか反応しなかった。呆然とただ向き合う二人を眺めている。
「何をしている、楓!」
再び叫ぶ境に、楓は眠りから覚めたばかりのような動作で頷いた。そして、紙垂のこすれる音と同時に空気が変わる。凪の神楽の効果が薄い識だが、今ならば紙一重の勝機を掴むきっかけとしては十分だ。楓の戸惑うような反応は気になったが、境は目の前の識に集中した。
(……くる!)
識は踏み出していない。が、境には分かった。その直後、識が踏み込む。境が屈むと、頭上で空を裂く音が。識が刀を振り切るよりも先に、境は半歩前に出て、肘を突き出すと、確かな手応えが。鳩尾に直撃したのだろう。識が低い呻き声を上げながら、退がった。
「終わりだ!」
境の御神渡が横一閃に光を描き、そこに黒い血しぶきが混じる。
(いや、浅い!?)
境の感覚は間違っていなかった。境は腹の肉を斬らせながらも一歩踏み出し、刀を突き出す。それは、境の先読みよりも速く、彼の肩口を斬り裂いた。
二人の額がぶつかりそうなほど近い距離で、識が先に肘を振るい、境の顎を叩く。だが、境は退かない。少し体を反らせたかと思うと、額を勢いよく識の面にぶつけた。
「いってぇ!」
額から血が流れるが、識の面に亀裂が入る。
「はっ! 興味はねえが、てめえの顔を拝ませてもらうか!」
境は執拗に識の面を狙う。だが、よほど顔を見られたくないのか、識は回避に徹して、境の接近を許さない。いや、識はそれだけで終わる妖怪ではなかった。意識が上に向けられがちな境の足を蹴り付けて動きを止めると、反撃の一閃を振るう。
「この狐野郎!!」
それは境の胸板を斬り裂いたが、大きな痛手だったわけではない。境はすぐさま反撃に出るが、識は木に突き刺さった刀を掴む。先程、境が識に向かって投げつけた刀だ。彼はそれを引き抜くと、楓に向かって投げつける動作を見せた。
「やらせるか!」
投げられた刀は境が御神渡で払うが、その間に識は背を向け、屋敷の方へ走り出してしまう。
「待て!」
すぐにでも追いかけたい気持ちはあったが、境は楓を一人にできなかった。
「……楓、大丈夫か!?」
「うん。私は平気」
確かに怪我はないようだが、表情がわずかに暗いように見える。まさか……識と何か会話があったのだろうか。それは万象神覚が告げたものなのか、境自身も分からないが、そんな直感があったのだ。
詳しく話を聞きたいところだが、ここで時間を使っていては、識を逃がしてしまう。あの危険な妖怪は、仕留められるうちに、確実に仕留めておきたかった。
「おい、古守! 寝ているんじゃねえぞ!!」
境は倒れている古守を叩き起こす。
「ぐっ……。私は……??」
出血はあるが、気を失っていただけのようだ。
「動けるな? よし、ここは任せたぞ! 紬も起こしてやってくれ!」
古守はまだ完全に意識を取り戻したわけではないが、すぐに妖怪が襲ってくることはないはずだ。境は楓を見るが、彼女はこちらを見ようとはしなかった。仕方なく境は屋敷の方へ走り出すが、胸の中で苛立ちが溢れ出して止まりそうにない。
「あの野郎……楓に何しやがった」
舌を打って再び門をくぐるが、そこにほとんど人の気配はない。どうやら、戦いは屋敷の中まで進んでいるようだった。




