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徒花の巫女  作者: 葛西渚
第一章 仄かな想い
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彼女の心

 識はあの雨の冷たさを思い出し、寒気を感じた。思わず自らの腕を掴んで、それを耐えようとしたが、急激に周りが明るくなる。どうやら、雲の切れ目から月が顔を出したらしい。ふと顔を上げ、楓の方を見てみると……。



「なぜ泣いている?」



 縁側に座り、仏頂面のまま不機嫌を無言で訴えていると思っていた楓が泣いていたのだ。彼女は指で目元を拭うと、識を見る。



「ごめん。識の悲しみが流れ込んできたから」


「私の過去を見たのか?」



 楓は首を横に振る。



「識に何があったのか、それは分からないよ。でも、識の悲しいって気持ちの一部が、私の中に流れ込んできた。きっと識は私が感じている何倍も悲しいはずなのに、ちゃんと立って……戦っているんだね」



 それが万象神覚というものだと分かっているつもりである。しかし、自分のために彼女が涙を流すとは思いもしなかったため、驚きは大きかった。さらに言えば、胸が締め付けられる妙な感覚に、識は動揺せずにはいられず、自分は何を言うべきなのか迷ってしまう。



「ねぇ、こっちにきて」



 しかし、幸いなことに楓の方から対話を促してきた。識は手招きされるがまま、楓の方へ歩み寄る。



「目を閉じて。試してみるから」



 楓は識の万象神覚に干渉するつもりらしい。だが、信じていいのだろうか。彼女は敵対する人間だ。何かの罠かもしれない。そんな疑いがあっても、識は彼女を信じた。信じたいと思っていた。目を閉じると、彼女の両手が識の頭を挟むように添えられる。



「気持ちを楽にして」



 肩の力を抜き、ただ楓の手の温もりだけを意識した。時が流れる。それほど、長くはなかったが、そっと楓が離れる気配があり、識は目を開けた。



「私は……強くなったのだろうか?」



 その問いに、楓は不自然な笑みを浮かべる。



「駄目だったみたい。私は識に干渉できなかった」


「私に何か足りないことがあったのだろうか?」



 首を振る楓。



「そうじゃない。ただ……相性の問題なんだと思う」



 だとしたら、と識は思う。楓の干渉で万象神覚を強化された境は、彼女と相性が良かったとでも言うのだろうか。識は彼女に背を向けた。



「ごめんね。せっかく来てくれたのに」


「君にすがるつもりで来たわけではない。言っただろう、ただ顔が見たかっただけだ、と」



 何も言葉がなければ立ち去るつもりだったが、楓は識を帰そうとはしなかった。



「境は強いよ」


「知っている」


「ううん。剣術がどうとかじゃなくて……人として強い。きっと、誰かが予見するような未来だって変えて、欲しいものを掴むような人間だよ」



 まるで、楓は境を恐れるかのような物言いであった。その恐ろしい存在を作り出したのは、自分だと言う認識はないのだろうか。さらに彼女の言葉は続いた。



「境みたいな人間こそ、正しい生き方を分かっているのかもね」


「……だとしたら、目に余るほど喧嘩っ早い男だ。私は彼が正しいとは思わない」



 どうだって良いはずだ。境という人間が正しかろうと、そうでなかろうとも、識によって斬られるのだから。そう思いながらも、識は境について意見を重ねるのだった。



「彼のように、乏しい理性しか持ち合わせていないくせに力ばかり持つ者は、いつだって世を悪くする。だから、私は彼には負けない」



 そこまで言って識は気付いた。自分は境という人間に嫉妬しているのだ、と。そんな感情を持つ自分が馬鹿馬鹿しくて仕方がなかった。背中で楓が笑う気配を感じる。



「そっか。……じゃあ、境に斬られないよう、気を付けてね」


「君は私の敵なのだろう?」


「どうかな。識が私を敵だと思うなら、そうなんだろうけど」



 識は振り返るが、楓は屋敷の方を見ていた。



「境がこっちにくる」



 再びこちらを見た楓に、識はゆっくりと頷いてから、闇夜に溶け込むように屋敷を離れた。



「どこへ出かけられていたのです?」



 戻ると柘榴が待っていた。まだ傷が治り切っていないため、横になっていたはずだが。識は短く答える。



「夜風に当たっていただけだ」


「……杠葉は明後日の早朝に動くそうです」


「分かった」



 識は葛城に出す文(ふみ)を用意する。すべては識の思い通りに進んでいた。ただ、自分の背中を見守る一人の女が何を考えているのか。それだけは理解できていなかった。

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