識が見た地獄
木々の向こうから迫っていた人間の男は、確かに強敵だった。しかし、識は男の動きを読めた。すべての剣を先読みし、識の一撃が男の心臓を貫く。柊のもとに戻ると、彼女は「すまないな」と笑った。
「こんなものを使えるようになるなら、早く教えてほしかった」
拗ねるように言う識だが、柊は首を横に振った。
「持たなくてもいい、厄介なものだ。それに、自然に目覚める兆候もあったからな」
それからと言うものの、識は柊を守る力を手に入れたと、追っ手は彼が斬るようになった。だが、彼の力が強くなればなるほど、追っ手も強力なものが差し向けられるようになる。
「このままでは……私たちは一生逃げ続ける人生だな」
柊は溜め息と共に疲労感を吐き出す。人生の多くを逃げることに費やしてきた識には理解できなかったが、柊が何を求めているのか、知らないことに気付くのだった。
「柊はなぜ朝廷から逃げ出したのだ? 貴人たちのために、その力を振るえば、良い暮らしだってできただろう」
「今更か? そうだな……最初はこの世界の理から抜けてしまおうと思っていた」
「理?」
聞きなれる言葉に、眉を寄せる識だったが、柊は頷くだけで、それについて説明することはなかった。
「ただ、自由がある、という予感もあったのだ。朝廷を抜ければ、自由になれるかもしれない、と」
「万象神覚が教えてくれたのか?」
「そんな便利なものではないよ。ただの希望だったのだろうさ。ここではないどこかへ辿り着けば、きっと幸福に生きられる。そういう、私の希望でしかなかったのだ」
想いを語る柊だったが、識には分からなかった。
「幸福に生きるとは……どういうことだ?」
「そうだなぁ。どこか落ち着いた場所で……私を理解してくれるものと一緒に、のんびりと暮らすことだろうか。男と女が共に暮らし、多くの時を共有する。どこにでもいる、普通の夫婦のように」
「夫婦? なんだそれは?」
「ふふっ、私に聞くなよ」
識には柊の言う幸福がやはり分からなかった。それに、識はこの暮らしが続けば良いと思っている。柊がいれば孤独ではない。十分だったのだ。
しかし、そんな識の考えが変わる日がやってくる。
「誰か、助けてくれー!!」
川沿いの道を歩いていると、人の声が聞こえた。
「娘が川に流されているんだ!! 助けてくれ!!」
識が川を見ると、確かに幼い子供が流されていた。彼は即座に川に飛び込み、子どもを助ける。
「ありがとうございます、旅の方! どうか今日はうちの村に泊まって行ってください」
男は宿場を営んでいるらしく、識と柊に部屋を用意してくれた。二人は屋根の下、しかも布団の中で眠るのは久々だと興奮し、柊に関しては何度も風呂を満喫するのだった。
「助けてくれて、ありがとうございました」
日が暮れる前、助けた子供が挨拶にきた。子供は識に懐き、夕餉も一緒が良いと離れなかった。
「お兄ちゃん、ずっとこの村で住んだら? 明日も明後日も、私と遊んでよ」
膝の上で甘える子供を見て、識は不思議でたまらなかった。柊のほかに、自分の存在を認めてくれる人間がいるなんて、思いもしなかったのである。
「二人は夫婦なんでしょ? 二人が住める家くらい、この村にあるはずよ」
返答に困る識だったが、先程までただ眺めているだけだった柊が体を寄せてくると、耳元で囁いた。
「夫婦だって」
以前と違い、その言葉の意味を知る識が赤面すると、柊は楽しそうに笑うのだった。二人きりになって、識は何度も隣で寝息を立てる柊を見た。
追っ手がなければ……この村で柊と一緒に住むことも、できるのかもしれない。それが、彼女が言っていた幸せなのだろうか。識の心に温もりを感じ、柊の横顔を眺めながら、妙な居心地の悪さを感じていると、彼女が目を覚ました。
「敵だ」
識の万象神覚もぼんやりと危険を察知した。二人は刀を手にして外へ出る。嫌に静かだった。静けさだけではない。妙な匂いが流れてくる。
「墓場の臭い……か?」
識が呟くと何者かの気配が迫ってきた。一人や二人では……ない。百を超えるような大勢の気配だ。すると、闇から声があった。
「見つけたぞぉ、坊ちゃん」
識の背筋が、ぞっと凍る。この声は聞き覚えがあった。雲が裂けて、月の光が差し込むと、声の主を照らす。そこには、巨大な蛞蝓のような、おぞましい姿の妖怪が、満面の笑みを浮かべて立っていた。
「お前は……骸響!!」
玄天狐党の妖怪の中でも、恐ろしい力を持つ骸響の姿を見て、識は戦慄した。
「お前がいる、ということは……まさか!!」
「そうだよ、坊ちゃん。この村の人間は、全員僕の人形になったんだ」
骸響の脇から、小さな影が前に出る。それは……今朝、識が助けた、あの子供であった。子供の目には意思が見られない。当然だ。骸響の能力は死体を操ること。あの子供は……既に死んでいるのだ。
「貴様……!!」
「怒るには早過ぎるんじゃないかな、坊ちゃん。僕の後ろを見てごらん」
道の真ん中に立っていた骸響が横に逸れると、そこには村の人々が虚ろな目で立っていた。中には宿屋を営む男の姿も。いや、この村にきて、識と柊に良くしてくれた人間が、すべて骸響の人形となっていた。
「お前……殺す!!」
刀を引き抜く識だが、骸響はさらに声を上げて笑った。
「だから、怒るには早過ぎるんだよ、坊ちゃん!」
骸響が背を向けると、やつは大きな籠を背負っていた。そう、人一人が入るには、ちょうどいい大きさの籠を。
「ここまで背負ってくるの、本当に大変だったんだぞ。さぁ、出て来い。お前が会いたがっていたやつに会わせてやるぞ?」
籠からゆっくりと死骸が顔を出した。そして、覚束ない足取りで、識の方へ一歩一歩近づいてくる。その顔を見て、識は息が詰まり、全身が強い寒気に襲われた。
「は……母上!!」
その人間は……数年前に死んだはずの、識の母であった。
「あはあははははっ!!」
識の絶望を笑う骸響。その目論見通り、識の心は折れた。骸響は言う。
「こいつは、最後まで坊ちゃんの名前を呼んでいたぞ。斬り刻まれながらも、犯されながらも、会いたい会いたいと叫ぶものだから、こうやって担いで持ってきてやったんだ。きっと喜んでいるだろう。喜んでいるだろうなぁ!」
識は膝を付き、絶望に打ちひしがれる。だが、ずっと様子を見ていた柊は……違うようだった。
「立て、識」
「……俺には」
できない。そう言おうとしたが、柊は鋭い目で識をなじった。
「ここで戦わずして、いつ戦うのだ! そうでなければ……すべてを奪われることになるぞ」
彼女の言う通りである。ここで、膝を付いて泣いたところで何になると言うのだ。識は立ち上がり、すべての絶望を怒りという火にくべた。
「柊……凪の神楽を舞ってくれ」
「もちろんだ。ここにとどまる、すべての魂のために、全力で舞ってみせる」
一晩かけ、識は村の者たちを斬った。もちろん、母親の骸も。
「骸響……お前は簡単には殺さないぞ!!」
「ぎゃあああーーー!!」
日が昇り切るまで、妖怪の悲鳴は続いた。




