識と柊
幼き頃の識はその日、寝起きを襲われた。むき出しになった木の根の下で眠っていたのだが、二体の妖怪に見つかってしまったのだ。必死に走るが、小さな足では逃げ切れない。さらには、目の前は崖で遮られ、ついに命を奪われるのだ、と覚悟を決めなければならなかった。
「嫌だ、まだ死にたくない……!!」
識は目を閉じて願う。まだ、やらなければならないことがある。それなのに、ここで命を落とすことになるなんて。
誰でもいい。助けてほしい。
そう願った。誰にも届くことのない願い。そう思われたが、識の想いは届いたらしい。
「助けを求めたのは……お前か」
白と赤の巫女装束に包まれた、黒髪の女が妖怪たちの後ろに現れた。その艶のある長い髪と、黒い瞳に、識は思考を奪われる。人でもない、妖怪でもない、何かが現れたのだと思った。しかし、妖怪たちは彼女を見ても、慌てることはなかった。
「なんだ巫女か」
「ちょうど腹が減っていた。ついでに食ってやろう」
むしろ、巫女を八つ裂きにしてやろうと、歩み寄ったのである。後になって思えば、妖怪たちの反応は当然のものだった。討者を連れているのならまだしも、巫女が一人で妖怪を退治できるわけがない。それが普通の考えである。ただ、このとき現れた巫女は常識に当てはまる存在ではなかった。
「小僧、私に声を届けられるとは普通でないぞ。ここで会ったのも運命と思い、助けてやろう」
巫女は凪の神楽を舞った。妖怪の動きを鈍らせる凪の神楽だが、直接的な傷を負わせる術ではない。妖怪たちも恐れることなく巫女に近付いたが……。
「こ、こいつ……!!」
先に手を伸ばした妖怪の指が、地面に落ちた。
「刀を振りながら踊ってやがる!」
そう、巫女は刀を手に凪の神楽を舞っていた。
「捕まえろ! 捕まえてから、その首に食らいつけばいい!!」
妖怪たちは巫女を挟み込むつもりだったが、そうはいかない。彼女は華麗に舞って、妖怪たちの手から巧みに逃れつつ、隙を見ては刀を振るったのだ。
「ぎゃあああーーー!」
そして、巫女の刀が一体の妖怪を斬り裂いた。喉から吹き出す血は止まることなく、妖怪は倒れる。
「よくも!」
もう一人が飛びかかるが、巫女の舞いは止まることはない。ひらりと回転しつつ、巫女が妖怪の傍らをすり抜けると、血がまき散らされ、識の顔を赤く染めた。妖怪が崩れ落ちると、巫女は識の目の前で舞いを止める。
「怪我はないか?」
「お、お前は……何者だ?」
人間が舞いながら妖怪を屠ってしまう。識にしてみれば信じられない光景だった。しかし、そんな識の反応に巫女は目を細め、拳を軽く落とした。
「お前、ではない。年上に失礼だぞ。私は柊。柊だ」
「い、痛い……」
頭を抑える識を見て、柊は笑った。
「それにしても、お前……真っ黒ではないか。妖怪の血を頭から被ったようだな。どれ、洗ってやるから付いて来い」
近くの川まで移動すると、柊は巫女装束を脱ぎ捨て、体を清め始めた。そのとき、識は初めて女を見て美しいと感じる。一目惚れの視線を浴びせられるとも知らず、柊は識に振り返って言うのだった。
「さぁ、洗ってやるから、お前も来い」
言葉を失い、棒立ちする識に柊は首を傾げる。
「どうした? 女の裸は初めてか? 小僧のくせに照れるんじゃない」
揶揄われ、識は思考を取り戻した。そして、自らの直感に従うのだった。
「おい、柊。お前……俺の子を孕め!」
「……はぁ?」
「聞こえなかったか? 俺の子を孕むのだ!」
柊はゆっくりと川から上がり、その裸体を識に晒したかと思うと、先程より何倍も強い拳を落とすのだった。
「いたぁーーー!!」
叫んで蹲る識を蔑むような目で見下ろす柊は言う。
「小僧、初めて会う女にいう言葉がそれか」
「小僧じゃない!」
「ならば名を教えろ」
「……言えない」
名乗れない理由を柊は追及しなかった。事情があると、と察したのである。少し考えて柊は手を叩く。
「では、今日からお前の名を識としよう」
「識?」
「そうだ。お前は私の意識に呼びかけた。だから、識。どうだ?」
言葉にはしなかったが、その名は不思議と馴染んだ。識がその感覚に戸惑っていると、柊は眩しそうに笑うのだった。
「ふふっ、気に入ったようだな」
こうして、識は識と名乗るようになった。そして、柊と過ごす五年間が始まったのである。




